95. 消えてくれない炎
それからほどなくして、四人は眠りにつくことにした。
頭を揺らされ気絶していたためか、それとも心に重くのしかかる絶望のためか、眠気を感じられなかったファンエーマは最初の夜番を引き受けていた。
普段寝付きの良いはずのオトがようやく規則正しい寝息を響かせ始めた後に、ファンエーマはそっと首輪を触って確かめた。
今も主人の存在を遠くに感じることはできている。
確かに、テレミアは生きている。ならば間違いなくラズエイダも生きている。
生きているのに、遠い。
アルタスから遠く北の海までの逃避行の最中、何度となく頭をよぎった思いがある。
かつて忠誠心と思い込んでいた胸を満たす感情に、「恋慕」という名前をつけられてしまった瞬間を、ファンエーマは明確に覚えている。
シキを喪った日、涙をぽろぽろとこぼす主君の姿を見つけたときのことだ。
時たま、ラズエイダは一人になって考え事をしたいと主張することがあった。
ファンエーマはそのたび、ラズエイダの籠もる船室や客間の前に陣取って、主君が満足するのを物音一つ立てずに待つものだった。
手勢の数が減り、手元の金が減り、個別の部屋などとても借りられないようになってから、ラズエイダが一人になれる場所はなくなった。
もし、ラズエイダがたった一言命じれば。
ファンエーマたちの中に、部屋を明け渡すことへの躊躇いはなかった。しかし、配下を思いやるラズエイダは独りよがりな命令を下すことを決してしなかった。
その日、シキを身代わりとして窮地を脱したラズエイダは、島を離れる船の上で久々に「一人にしてくれ」と望んだ。
ファンエーマはフジュロと相談し、一部屋しかない船室を彼のために差し出した。
無二の親友を亡くし、思うところがあるのだろう───戦い続けた二人の身体は疲れ果て、休息を欲してはいたが、主君の心情を慮れば否を返せるはずもなかった。
崩れ落ちそうな身体を必死に保ちながら、部屋の前で門番役をこなしていたとき。
ファンエーマの耳は聞き慣れない音を捉えた。
音が部屋の中から聞こえたのを不審に思い、ファンエーマは扉を開けて主君の無事を確かめようとした。
そこには、小さく丸まって頭を抱える少年がいた。
「……エマ……?」
顔を上げたラズエイダの発した声は、配下を堂々と率いる、未来の王たる器に似つかわしい声ではなかった。
それは、ファンエーマがかつて見た幼子の魂をそのまま宿したような。
か弱く、吹けば飛んでしまうような。
そんな女々しい涙に心を満たした、ただの少年の泣き声でしかなかった。
これがラズエイダにとって誰にも見せたくない姿なのだとはすぐに思い至ることができた。
ファンエーマは主君に対して働いてしまった大変な無礼をどう詫びるべきか考えた。
考えようとした。
考えようとしたはずが、どうしてだろうか。
結論を出す前に、ファンエーマの身体は勝手に前に動いていた。
ファンエーマも、先の見えない戦いの中で、気が滅入りそうなほどに心をすり減らしていた。
それでも主君の前で取り乱すことは決してしないと固く誓っていたから、ファンエーマは何もかもを自分の中に抱えて、ただ主君の槍として在り続けようとしてきた。
自分と同じように傷ついた心を隠していた少年を目の前にして、ファンエーマが心に築いていた堰は、いとも簡単に壊れてしまったのだった。
「イダ様」
名前を呼んで、長い黒髪の美しい頭を胸の中に抱き寄せる。
ラズエイダは全く抵抗しなかった。
それをいいこととして、ファンエーマは強く強くラズエイダを胸にかき抱いた。
「うっ………ぅっ、ぁっ……!」
まだ成人もしていない少年の、無垢な悲しみの涙が、ファンエーマの心臓の上に塗されていく。
辛くて、悲しくて、それでもなお立ち上がらざるを得ない不遇な少年の声なき叫びが、触れる肌から直接流れ込んでくる。
その全てを、ファンエーマは一人で受け止めた。
その全てが、ファンエーマの身体にファンエーマ自身も知らなかったような火照りを与えた。
───ああ、私はどうしたって、この人が大切で仕方ないんだ。
ファンエーマの中に、消えない炎が灯った瞬間だった。
この一件以降、ラズエイダはあまり言葉を発さなくなった。
身体はみるみるうちにやつれ、瞳からは光が失われていった。
ファンエーマは身を粉にして、ラズエイダの槍として働き続けた。
思いを告げることは決してしなかった。自分を余計な重荷にするわけにはいかなかった。槍はあくまで槍なのであって、それ以上の意味を道具が持つ必要はない。
それでも、やがて逃避行の終着点がちらつくようになって、ファンエーマの決意は揺らぎ始めた。
どうせ二人死ぬのなら、伝えてしまってもいいのではないか。
不幸ばかりのイダ様の一生に、せめて私の気持ちが一片の幸福となり華を持たせてやれはしないか。
私も、もし通じ合ってから死ねたのなら、それ以上の結末は望むべくもない。
空疎な瞳の主君を一人連れ歩きながら、ファンエーマはいつしか「終わり方」ばかりを考えるようになっていた。
「終わり」は来なかった。
テレミアという赤髪の海賊が、ラズエイダに思いも寄らぬ力を与え、新しい生きる目的までも与えてしまった。
ファンエーマは、再び槍に生まれ変わった。
ただ主君に振るわれるだけの、物言わぬ槍に。
消えてくれない炎だけが、ファンエーマの胸の中心に残ってしまった。
今、ファンエーマの人生は、唯一絶対の意味を失うかどうかの瀬戸際にある。
胸の炎を華と咲かせることも、主君の槍として本懐を遂げることも叶わず、この身は故郷から遙か彼方の土に朽ちてしまうのだろうか。
手の届かない場所に眠る主君を想い、身を蝕む不安が全て晴れる奇跡を希いながら、ファンエーマは終わりなき思索に身を溶かして時を過ごしていった。
翌朝、早い時間から四人は再びチェリの家を訪ねた。
昨日まき散らされた血はまだ綺麗にはなっておらず、部屋の中には酷い臭いが充満していた。
掃除に励んでいたチェリに船の場所を尋ねると、チェリは当然のように四人を海岸まで案内した。
ファンエーマはラズエイダのため必死に心を無にしながら、細身で脆い、すぐにでも首の骨を砕けそうな身体つきの女の後ろをついて歩いた。
やがて、両手を広げたほどの幅もない、ただ木をくりぬいて作った粗末な舟が現れた。
「こちら、皆様のためにご用意いたしました船となります」
「そうか。感謝する」
微笑むチェリに空虚な礼を述べたヘステスは、近くに置かれた櫂を手に取ってモムルとファンエーマに投げてよこした。
「ほれ、仕事じゃ」
「……帆もついてねえとはな」
「儂は水の中に入るとき以外に魔導を使うつもりはないぞ。もとよりこれはおぬしらの仕事じゃ」
「はいよ」
モムルが舟に手をかけ海の方に押し出すのを、ファンエーマは後ろから黙って手伝った。
一瞬ぎろりとにらまれたが、それ以上のやりとりはなかった。
完全に舟が水に浮かんでから、ヘステス、オトの順に乗り込んで、それにモムルとファンエーマが続いた。
櫂を握った二人が水を押し出したとき、
「島を出られるのですか?」
背後からチェリの声がした。
「見ての通りじゃ。お主には関係あるまい」
「〈界渦〉はまだ鎮まっておりません。今船を出せば、皆様は大いなる海の沙汰に身を委ねることとなりましょう」
「そうか」
ヘステスは彼女に取り合わず、「急ぐのじゃ」と漕ぎ手の二人を急かした。
遠浅の海の底が見えなくなった頃に、遠くから渦のうねりが届き始めた。
これ以上進むと渦に引き込まれてしまう、と判断したヘステスがその場での停留を指示し、モムルとファンエーマは櫂を漕ぐのを止めた。
「決めておったとおり、まずは渦の外縁を確かめて回る。決して渦に飲まれるでないぞ」
「ああ」
モムルに続いてファンエーマも頷いた。
「『大海に御座す青龍よ、我が身に水を吸い吐く鰓を与え賜え』」
ヘステスの身体を青い光が取り囲む。
やがて両の肩から胸にかけて集中した光は、何の前触れもなく消え去った。
ヘステスは、時間が惜しいとばかりにすぐさま海の中へと飛び込んでいった。
舟の上には、三人が残された。




