24. 老人の髭が白くなるまで
ヘステスが自らに付けられた名前の由来を知ったのは、まだ髭も生えていない幼い頃だった。
かつてこの世界に海がなかったころに存在したという”大陸”の上を闊歩していた超大型の獣の名を、ヘステス・カラウスと言ったらしい。ものを食うにも困っていた折に、残飯を漁りに行ったゴミ捨て場に落ちていた「古代生物図鑑」という本のたまたま開かれていた頁に、その文字列が並んでいた。
ヘステスがそれを知ったときには、既にヘステスの生まれを正確に覚えている人間はこの世には居なかったから、どうしてその名前が自らに与えられたのかは知るよしもなかった。
ただ、書かれた文字を読み、その意味を知らなくてはならないという強迫感が幼いヘステスを衝き動かして、ヘステスは残飯に塗れた図鑑を拾い上げたのだった。
そうして持ち帰った図鑑を何度も何度も読み返すうちに、ヘステスは世界を満たす豊かな記録の数々を覚えていった。それは狭いねぐらの中で生きるヘステスにとっては輝いて見えた。
もっと知りたい。広い世界をくまなく、過去のことも現在のことも未来のことも。
そう思うようになったヘステスの生活には一つの日課が増えた。
新しいことを知るには本を読むのが一番だと考えたヘステスは、暇なときに街中のゴミ捨て場を漁り、本が捨てられていないかと確かめるようになった。
選べるほど本が捨てられているわけではなかったから、子ども向けの童話も、大人向けの哲学書も、とにかくなんでも手に入った本を読みふけった。あるときは海の果てに棲むという龍の伝説を記した童話に没頭し、あるときは「なぜ生きるのか」という遠大な問いに挑んだ本を胸に街外れの草原で星を眺めた。
本というのは決して安価なものではないから、いらなくなった本は普通売りに出すのだと学んでからは、物乞いや日雇いの仕事で稼いだ金をいくらか費やして自分の意思で本を手に入れるようにした。
足繁く通う古本屋の親父がヘステスの顔を覚えて、あるとき気まぐれに一冊の本を渡してきた。
「どうだ、お前さんほど熱心な奴ならこういうのを読んでみたらどうだ。仕事になるかもしれんぞ。ま、適性があればだがな」
表紙には、「魔導入門」という題名が仰々しく書かれていた。
次の日から、ヘステスは野良の多属性魔導士として街のちょっとした有名人になった。
魔導士として安定した仕事口を手に入れたヘステスは、街の片隅に小さな家を借りた。じめじめとしたねぐらを脱して世界が広がった実感は、少年になったヘステスにとって味わい深いものだった。
とはいえ、ヘステスがやることはさして変わらなかった。毎日仕事の傍らに本を読み、というよりも本を読む傍らに仕事をし、得られる収入を新しい本に替えては読んだ。
同い年くらいの少年がやってきたときも、ヘステスは本を読んでいた。
「よぉ、お前が書物狂いの魔導士か?」
ヘステスはそれにどうやって返したかよく覚えていない。初対面のくせに無礼な、ということをいったような気もするが、あまりにも少年の印象が強すぎて、その他のことは飛んでしまった。
「お前、今日から俺の仲間な」
それがジャルダとの出会いだった。
引きずられるように連れて行かれた先で、ジャルダはヘステスに実に様々な無理難題を吹っかけた。一月で袋に一杯の白金貨を稼ぐ策を奏上しろだの、一人の犠牲も出さずに略奪を成功させろだの、果ては翌晩までに美女を十人揃えてこいだの。
「一人の魔導士に頼む仕事ではないだろう」とぼやきはしたものの、ヘステスには大体のことをそつなくこなすだけの知識と能力が備わっていた。勿論失敗することも多かったが、ジャルダはヘステスのことを気に入ってどんどんと重用するようになっていった。
兄弟間での権力争いに大方ケリをつけ、いよいよ船団の頂きを掴みに行こうという頃になって、ジャルダはヘステスに一冊の本を渡した。
「呪具大全」と書かれたその魔導書の一種には、古今東西あらゆる呪具の紹介とその製法が載っていた。
ジャルダはヘステスにこう尋ねた。
「これに載ってない呪具を作れねえか?」
【猛化の腕輪】によって圧倒的な戦闘力を有する船団長に挑んで勝利を収めるためには、奇想天外な一手が必要だろうというのがジャルダの考えだった。
その内の一つとして、ジャルダは「誰も見たことのない、対策のしようのない呪具」をぶつけることを思いついたらしかった。
ヘステスは呪具作成の理論を三ヶ月かけて頭に叩き込んで、そして考えに考え、最終的には食事に違和感なく混ざる程まで小さく砕くことのできる呪具を生み出した。
ジャルダはそれを用い、戦うことなく船団長を瀕死のところまで追い込み、そして腕輪を奪い取った。
こうして、ジャルダは牛鬼海賊団の新たな船団長の座に収まり、ヘステスはその右腕としての評判を確かなものにしたのだった。
そういう過去を持つヘステスにとって、呪具というのは自分を自分たらしめるものの一つであり、よって一目見ただけでその呪具がどのような性質を持つものであるのかも手に取るように分かってしまう。
ラグーダの部下が手にしている鈍い色合いをした焼き石の腕輪を視界に入れた瞬間に、ヘステスはそれが魔導の使用を封じるためのものであると把握した。
そうした呪具に対する対抗策は、「魔導士の武装論」という本に小さく記載がある。
―――理論上、高度な土魔導を使えるのであれば、魔素的支配を最も強く与えることのできる手指の近くを呪具が通過するときに呪具の組成を無理矢理書き換え、かけられた魔導を壊すことができる―――
試したことはなかったが、人生の最後に折角なら挑んでやろうという気概でヘステスは呪具の束縛を脱することに挑戦した。
こうした魔導に関した技術でヘステスに実践できなかったものは殆ど無い。強いて言えば多重起動くらいのものだが、これは魔導士的な能力というよりは人間的な能力の問題である。
「……『土よ』」
そして今回もその例に漏れることなく、ヘステスの腕に嵌められた時点で呪具は呪具としての効力を失っていた。
「さて、これでお前の”家族”は俺の物となったわけだ」
「……はい」
「間違っても逆らおうとは思うなよ」
「……分かっています」
ラグーダとテレミアの会話を遠くに聞きながら、ヘステスは笑みがこぼれようとするのを密かに押し殺していたのだった。
時は流れ、薄暗くじめついた地下牢での生活に飽き飽きしてきたある日の夜のことである。
筵に横になって目を閉じていると、不意に牢の外、おそらく地上の方が喧しくなり、階段を下ってくるいくつもの足音が石の壁に反響してぐわんぐわんとヘステスの脳を揺らした。
やがて足音はヘステスの牢を含めたいくつかの牢に向かって分かれる。目を覚ましたヘステスの前で、鉄格子の扉に鍵が差し込まれた。
「出ろ」
「……このような夜更けに叩き起こすとは随分じゃの」
小言を投げつけられた男は小さく舌打ちし、乱暴にヘステスの腕を掴んだ。
「楽に死にたいなら黙って立つんだな」
死という単語が現れたということは、我が身の扱いが決まったのだろう―――というところまでを考えて、ヘステスは「む?」と首を捻った。
処刑というには少し時期が早すぎるのではないか。
オトが手に入れた情報からすれば、ラグーダによる輸送船の襲撃が行われるのは今日前後となるはずだった。
仮にテレミアが首尾良く王子を手に入れていたとして、直後にラグーダに反旗を翻す必然性は果たしてあるだろうか。
ラグーダ一派という強大な勢力にたった一人で反抗するために必要な戦闘力を手に入れるには、それなりの時間を迷宮で過ごさねばならないはずである。テレミアは成人の式典までに残された時間を限界まで活用するのではないか、とヘステスは予想をしていた。
つまり今この瞬間もテレミアはラグーダの手下として振る舞っているはずで、だというのにこうして服従を担保するための人質に対して処刑が行われるというのはやや違和感がある。
ヘステスは少し情報を引き出してみることにした。苦渋に満ちた表情を作り、いかにもテレミアを恨めしげに思っているという具合の声で、「あやつは裏切りおったか、馬鹿め」と吐き捨てる。
ヘステスのことを力任せにぐいぐいと引っ張る男はちらりと老人の表情を窺い、「お前らも可哀想にな」と呟いた。
その回答はヘステスにとって十分なものであった。
つまるところ、この処刑はラグーダの気まぐれなどではなく、本当にテレミアの反逆への報復としての性質を持ったものであるらしい。
一体どうしてテレミアが迅速な裏切りを決断するに至ったのか、ヘステスにはてんで見当が付かなかった。合理的に考えるならば、やはり式典の直前まで動かないでいるのが最も安全であるはずなのだが。
と、まあ、考えるべきはこのくらいであるだろうか。
「―――さて」
「何か言ったか」
経緯がどうであれ、既にテレミアは真の立場を表明したのだから、ヘステスを含めかつて彼女の配下であった三名はただ処刑されるのを待つだけのまな板の鯉へ成り下がったと思われているわけである。
「いやなに」
それは何とも不愉快であった。
呪具を無力化していたヘステスは始めから半ば善意で自ら牢屋に閉じこもっていたようなものなのだ。脱走を選ばなかったのはひとえにそれがテレミアの不利益になるからである。
テレミアの運命に自らのふるまいは最早何の影響も及ぼさないと分かった以上、無抵抗で殺される理由など微塵も残っていない。
「『飛べ氷杭』」
ぱちゅんという間抜けな音がして、男の頭に大きな穴が空いた。
「死ぬにはまだ本を読み足りないと思うてな」
真っ赤に染まった氷の杭が石畳の地面に落ちて転がって、その上に崩れ落ちてきた肉の塊に押し潰された。
ヘステスは無造作に男の死体を蹴り飛ばして通路を確保した。
「ま、二人も拾ってやるとするかの」
まるでその辺の道を散歩するかのような雰囲気を纏いながら、老人は少し離れた場所に収監されているはずのオトとモムルを探し始めた。




