決戦
風が、森を裂いていた。
王国南部、かつて精霊の聖域と呼ばれた大樹海。その最深部――そこに、世界樹の根は眠っていた。
地表を覆う苔と、空を遮る巨木たち。空気は重く、森全体が魔力の緊張に震えていた。
だが、それでも俺は、歩みを止めない。
風が肩を押している。剣が共鳴している。
この先に、敵がいる。
――リリスの代わりを、自ら名乗った存在が。
帝国が作り上げた完全適合者。
その姿を、俺は目撃する。
世界樹の根がうねる儀式の石盤。その中心に、白銀の髪をなびかせた少女がいた。
年齢はリリスとそう変わらないだろう。だが、空気がまるで違った。
彼女はまるで、そこに“生き物”として存在していなかった。
「来たのね、剣精の器」
少女が言う。声に感情はない。ただ、機械のように。
「帝国製の……完成体か?」
「名はエルア。帝国第一研究棟にて生まれた“神託の核”。あなたの妹と同じ、適合率98%」
……それはつまり、リリスの代替品ということだ。
「だが、違いがある」
彼女は片手を挙げる。背後にある世界樹の根が、脈動した。
「私は感情を捨てた。痛みも、ためらいも、記憶も――必要のない余剰だから」
……それが、帝国の答えか。
意思を持たず、ただ命令だけに従う器。それを世界の柱に据えることで、誰も痛まずに済むというのか。
だが――
「それが答えだとしたら、俺は世界そのものを否定する」
ウインドソードを抜いた。風がざわめき、木々が悲鳴を上げる。
「人間を犠牲にした理なんて、俺がぶち壊す!」
「では、排除を開始する」
次の瞬間、彼女の周囲に浮かぶ、五つの魔法陣。
一斉に放たれる風・火・氷・雷・闇の精霊魔法――
《超魔術・五属性連鎖陣》!
「っ――!」
地を蹴る。風を纏い、空間をずらす。
雷が地を裂き、氷が空を凍らせ、火が森を焼く。
だが、当たらない。
「遅い!」
俺は《風刃裂空》を叩き込む。
その風が、彼女の頬をかすめた。
……かすめただけだ。
彼女は動かなかった。そもそも、避けるという選択を持っていなかった。
「痛覚、オフライン。損傷許容。続行」
「……マジかよ」
体が裂けてもなお、魔法を詠唱し続ける完成体。
それはもう、生命ではない器そのものだった。
風が逆巻く。だが、同時に背筋を這う戦慄もあった。
(このままじゃ、押し切れない――)
風を凝縮させ、剣に纏わせる。
スキルを解放する。
《風牙絶嵐》!
渦巻く刃が地面ごと彼女を包み込み、爆風が森をなぎ払った。
……だが。
爆煙の中、彼女は――立っていた。
身体は傷ついている。出血もしている。
それでも、顔色ひとつ変えずに、淡々と再詠唱を開始する。
恐怖でも、怒りでもない。
そこにあるのは、意志の欠如。
感情がないからこそ、止まらない。
止めなければならない。
今、この場で。
だが、その瞬間――
「アッシュ兄様!」
風を切るように、声が飛び込んできた。
振り返ると、リリスがいた。
王国騎士の護衛を振り切ったのか、そのローブは破れ、息も荒い。
「リリス……!」
彼女が短剣を抜く。
「私も、戦えるよ。もう、誰かの影じゃない」
その目に宿っていたのは、かつての怯えとは違う。
明確な意志だった。
「名前を呼ばれたこの命で、私も、守るから――兄様を」
エルアが視線を向ける。リリスを排除対象と見なしたのだろう。
「ならば、同時処理を開始する」
魔法陣が再び輝く。
だが、今はもう一人じゃない。
「リリス、俺が風を通す。その隙に、右から!」
「はい!」
二人の影が駆ける。
兄妹の剣が、森に交差する――
そして、感情なき完成体との戦いが、本格的に始まった。
「アッシュ兄様、左へ展開! 牽制を入れます!」
「任せた、リリス!」
風が巻く。雷が裂ける。
だが、俺たちはもう恐れていなかった。
エルア――帝国が生み出した完成体は、確かに強い。
だが、それは止まらないというだけのこと。
ならば、止めてみせる。想いを通す剣で。
「発動――《風刃旋牙陣》!」
風の刃が斜めからエルアを斬る。
同時に、リリスの短剣が跳ねるように足元を抉る。
「損傷率、累積48%。行動継続」
エルアの目は揺らがない。身体は軋む音を立てて再構成される。
けれど、そこには違和感があった。
(回復が、遅い……?)
気づいた。
魔力が、枯れている。
彼女自身も、限界に近い。
「エルア……お前、自分が壊れるって分かってるだろ」
「――任務遂行が、最優先」
「そんなのが、生きる理由になるもんかよ!」
俺は剣を振るいながら叫んだ。
「俺たちは、命令なんかじゃなく、願いでここにいる!
誰かの意志を押しつけられて動くお前とは違う!」
その瞬間だった。
エルアの動きが、ほんの僅かに遅れた。
胸の奥で、なにかが、揺れたような――
リリスが、気づいた。
「兄様、あの子……泣いてる!」
「……え?」
よく見れば、無表情なエルアの瞳の下に、一筋の涙。
無意識に流れた涙。
「エルア……本当は、怖いのか?」
彼女の剣が止まった。
「私は……任務しか、与えられていないのに……
この涙は、エラー。命令と、矛盾しています……」
リリスが、一歩踏み出す。
「あなたは……名前を、呼ばれたことがある?」
「……対象番号・弐式。それが私の識別名」
彼女の声は震えていた。
リリスは短剣を下ろすと、そっと言った。
「だったら、今ここで、私が呼ぶよ。
……エルア、って」
風が止まった。
世界が、静かに変わった気がした。
「私も昔は、名前なんてなくて……ただ、道具みたいだったから。
でも、お兄様が呼んでくれた。リリス、って」
その瞬間――
エルアの全身から、魔力の光が弾けた。
制御魔術が、解除された。
「……あたたかい……呼ばれるって、こんなに……」
崩れるように、エルアが膝をつく。
リリスがそっと近づき、彼女の肩に手を置いた。
「もう、戦わなくていいよ」
「……ありがとう……わたし……生きたいって、思っても……いいのかな」
涙が、止めどなく流れていた。
その時――
世界樹の根が、震えた。
エルアが、顔を上げる。
「ダメ……儀式は、止まらない……! 自動起動モードに……!」
魔力が暴走する。
封印装置が、適合者の暴走に反応し、周囲のマナを吸収し始めた。
「離れろ、リリス!」
俺がリリスを庇うように立つ。
だが、その瞬間――
エルアが、自ら封印核の中心へと歩き出す。
「私はもう……完成体じゃない。でも、だからこそ」
振り返る彼女は、今ようやく、人間の顔をしていた。
「最後だけは、自分の意志で」
そして、封印核に自身の魔力を注ぎ、起動装置を停止させた。
光が収まり、森が静けさを取り戻す。
彼女の身体は、風に散るように消えていった。
最後の瞬間――彼女は笑っていた。
「ありがとう。……名前を、くれて……」
――完成体は、もういない。
それでも、俺の胸に、あの涙の記憶は、消えずに残っていた。




