婚約破棄
王都からの使者が去ったあと、俺はしばらく応接室の窓を見つめていた。
澄んだ空だった。雲ひとつない。
けれど、胸の奥には、重たい雲の塊が居座っている。
「アッシュ様……ご命令は?」
傍らに控える執事のラルフが、慎重な口調で問うてきた。
「出るぞ。明日の朝、王都へ向かう。騎士団の中から精鋭を十人選んでくれ」
「かしこまりました」
ラルフが去ったあと、俺は深く息をついた。
王都からの召喚。しかも、名指しでリリスまで。
建前は“帝都との防衛戦略のため”、だろうが――本音は別だ。
あの文書のこと。
《回収対象:リリス・ランデル》。
王都の中枢にも、帝国と通じる者がいる可能性は高い。
リリスを見世物のように扱う場にだけは、絶対にさせない。
だから、王都に行く。
俺が隣に立って、すべてを叩き返す。
「兄様」
声がして振り返ると、リリスが工房着のまま立っていた。
まだ幼い体に、不釣り合いな鋼の短剣が光る。
「……王都に、行くんだよね」
「ああ」
短く答えると、リリスは迷わず俺の前まで歩いてきた。
目をそらさない。その黒い瞳に、迷いはなかった。
「私も行く。隣にいたいから」
「……わかってる。お前が決めたのなら、止める気はないよ」
もう“守るだけ”じゃない。
昨日の彼女の決意を見て、それをただ否定する資格なんて、俺にはない。
だが。
「ただし。王都は、俺たちの敵が一番多い場所だ。何があっても――」
「背中は、任せて。でしょ?」
……ほんと、強くなったな。
「じゃあ、今日の訓練は終わり。あとは明日に備えて、休め」
「はい、兄様」
リリスが部屋を出ていく。
背中が、ほんの少し大きく見えた。
夜更け。屋敷の書斎にて。
俺は、古い地図を広げていた。
王都と、帝国。その間にある中立地帯“灰の谷”。
数年前、そこには確かに研究拠点があった。
帝国が魔物の知能化や魔力適合者を生み出すために作った実験場――そして、リリスの母もそこに関わっていたという噂がある。
(もし、王都でその手の記録を出されたら……)
リリスがただの少女じゃなくなってしまう。
実験体として、政治の駒として扱われかねない。
――そうさせない。絶対に。
地図の端、帝国国境近くに×印がつけられている。
(マナの枯渇も進んでる。どこかで帝国と決定的にぶつかる時が来る)
その時、リリスが中心にされるのは――間違ってる。
「……俺の手で、終わらせてやる」
この剣で。
翌朝、王都への行軍は静かに始まった。
リリスは騎士団の女性兵の隣に馬を並べて、きちんと指示に従っていた。
幼い頃の怯えた彼女を思い出すと、信じられないくらいだった。
けれど、それも彼女が選んだ“今”だ。
俺は馬を走らせながら、ふと空を仰いだ。
薄く靄がかかるその先に、王都の尖塔がうっすらと見えていた。
あの場所で、すべてを明らかにしなければならない。
王都──セレフィア王国の中心。
白亜の城壁と金色の尖塔が連なるその光景は、まさに絢爛という言葉がふさわしかった。
しかし、俺の心は重かった。
「アッシュ様、リリス様。まもなく王城です」
副長が声をかけてくる。
馬車の中で、リリスは沈黙していた。けれど、顔に迷いはない。
「リリス」
「うん。大丈夫。お兄様がいるから」
俺はうなずく。
(ここから先は、騎士の剣より、“言葉”の戦いになる)
……だが、それでも、必要とあらば振るうつもりだ。
この手で。
謁見の間。荘厳な扉が開き、国王と、その隣に控える第一王子――セイラン・セレフィアがいた。
美丈夫、という表現がこれほど似合う男も珍しい。
切れ長の青い瞳。整った顔立ち。そして、王族特有の、威圧感。
「アッシュ・ランデル。忠義ある侯爵家の若君よ」
国王は、朗々とした声で語りかけてくる。
「魔物の異変に際し、君の迅速な対応と武勇は王都にも届いている。我が王国の誉れといえよう」
「恐れながら、我が家族を守るため、当然のことをしたまでにございます」
俺が言うと、王の口元に笑みが浮かんだ。
「うむ。そして……この娘が、リリスか」
リリスがひとつ、深く頭を下げた。
「……リリス・ランデル、参りました」
少し声が震えていた。でも、ちゃんと立っていた。
王は彼女を見つめたあと、隣の王子に視線を向けた。
「セイランよ。お前から、話すといい」
王子が一歩、前に出た。
「アッシュ・ランデル。ならびに、リリス嬢」
その声は澄んでいて、どこか悲しげな響きを含んでいた。
「帝国との戦いは避けられぬだろう。そして……君の妹、リリス嬢の“適合率”は、あまりにも高すぎる」
俺は無言で立っていた。剣の柄に自然と手が伸びていた。
王子はそれを見てもなお、まっすぐに続けた。
「よって、王家としての保護と統制の意味をこめ、リリス嬢に正式な婚約を申し込む。俺との」
一瞬、空気が止まった。
リリスが、震えた。
俺は、一歩、王子の前に進み出た。
「……断らせてもらう」
「アッシュ!」
王が声を上げる。
「その申し出は、妹を戦略資源と見なすものに等しい。俺の妹は……人間だ。ましてや、誰かの道具でも、盾でもない」
セイラン王子は、目を細めた。
「君もわかっているはずだ、アッシュ。彼女は帝国から狙われている。王都の庇護下に置くことが、彼女の──そして王国のためになる」
「だったら、庇護するだけでいい。婚約など必要ない」
その瞬間、リリスが俺の後ろから声を上げた。
「お願い……わたしを閉じ込めるための優しさなんて、いらない!」
彼女の声は、涙混じりだった。けれど、言葉は震えていなかった。
「私は、お兄様と一緒にいたい。王子様、申し訳ありません。でも、私は……誰かに選ばれるために生きているんじゃないんです」
しばらくの沈黙。やがて、王子が小さく息を吐いた。
「……そうか。ならば、仕方がない」
その声音に、怒気はなかった。
「君が心から拒むのなら、それ以上は言わない。ただ……俺は、帝国の狙いが“君”だけで終わるとは思っていない。アッシュ。君にも」
「その覚悟は、もうできている」
俺は答えた。
王が立ち上がった。
「よかろう。アッシュ・ランデル、リリス・ランデル。王国は君たちの意志を尊重しつつ、その力を必要とすることに変わりはない」
謁見のあと、王城を出たあとも、リリスは黙っていた。
でも、その手は、俺の袖をしっかりと握っていた。
「ありがとう、お兄様」
「……何があっても、お前の自由は守る。誰が相手でも」
王子の婚約案を断ったことで、王都の一部からの反発は避けられないだろう。
だが、それでも。
俺の隣に立つ彼女の笑顔を見れば、後悔はなかった。