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差し込む影

 その朝、私は工房の片隅で、兄が作ってくれた短剣を見つめていた。


 赤く輝くルビーの石が、窓から差し込む光に反射してきらきらと揺れる。

 少し、重い。でも、安心する。

 これは――私の名前を、初めて呼んでくれた人が作ってくれたもの。


 そして、昨夜、私は見た。

 庭の奥。あの木立の影に、確かにあの人がいた。


 あの女。


 冷たい目で、私を見ていた。

 口元は笑っていたけれど、あれは、優しさではなかった。


(帝国の……あの女……)


 記憶が揺れる。

 昔の、静かすぎる館。

 誰も口を利いてくれない、白い回廊。

 そして、扉越しに響く、あの女の声。


『あの子はただの器。どこに渡すかで価値が決まるのよ』


 あの声が、私を人間として見ていなかったことを、幼いながらにわかっていた。


 私は、帝国の娘。

 側室の子。

 異国の血。

 誰も、私の名前を呼ばなかった。


 でも――今は違う。


「リリス!」


 扉の向こうから、メイドの叫び声がした。


「リリス様、隠れてください!敵です、帝国の刺客が――!」


 言葉の途中で、ドン、と壁が砕けた。


 黒衣の女が立っていた。


「久しぶりね、リリス」


 笑っていた。


 私は、叫び声を上げることもなく、短剣を手に取っていた。


「来ないで……」


「随分と、育ったじゃない。感情も、言葉も、まともになって」


「……来ないでって言ってるのに!」


 足が震えていた。

 でも、踏みとどまった。

 逃げない。もう、逃げないって、決めたんだ。


「あなたの器でも、資産でもない。私は――お兄様の妹です!」


 その一瞬、女の表情から笑みが消えた。


「感情か……やはり王国に染まったか。ならば、強制回収に移行するわ」


 女の手が動いた。空気が歪む。

 瞬間、リリスの目の前に黒い影が躍り出る。


 黒獣のような召喚獣が牙を剥く――!


「リリス、伏せろッ!」


 突風が吹き抜けた。


 目の前に立っていたのは、風を纏う影。

 兄だった。


 アッシュは、無言で剣を振るう。

 斬撃が獣の頭部を裂き、壁に赤黒い血を散らす。


「無事か、リリス」


 「う、うん……!」


「よかった」


 安心の吐息。けれど、目は鋭く、女を睨んでいた。


「帝国の手の者か。俺の家にまで入り込むとはな」


 女は肩をすくめた。


「マナ実験の素体にしては、情緒が過ぎるわね。……手間がかかる」


「二度と、リリスに触れさせない」


 アッシュの声が冷たくなる。


「俺の妹に、二度と、名前以外の価値を押し付けるな」


 剣を振り上げた。風が巻き起こる。


 女が呪文を紡ぐより早く、突き出された風刃が肩を掠める。


「くっ……次は、こうはいかないわよ」


 魔法陣が開き、女の姿が霧と共に消える。


 静寂。部屋には兄と私だけが残った。


「リリス、大丈夫か」


「うん……でも、怖かった。ずっと、また“あそこ”に戻されるんじゃないかって」


「戻さないよ。絶対に。俺が、守るから」


 アッシュは私の肩に手を置いた。


 その温もりで、やっと、私は安心した。


「……でも、私も、戦えるようにならなきゃ」


「リリス……?」


「今度は、私の力で“あの女”を追い返す。そうじゃないと、いつかまた来る」


 私は短剣を見つめた。


「だから、お兄様。教えて。強くなる方法を」


 アッシュは黙っていたけれど――その目は、優しかった。


「……ああ。じゃあ、明日から特訓な」


 私は大きく頷いた。


 次の日、朝靄のなかで、私は兄の工房にいた。


 まだ外は肌寒い時間帯。けれど、工房の炉はもう赤々と燃えていて、金床の前には兄が立っていた。


「おはよう、お兄様」


「……おう。早かったな。昨日の今日なのに、気合い入ってる」


「約束、したから」


 そう。私は決めたのだ。

 ただ守られるだけの妹じゃなくて――隣に立てる、妹になるって。


 兄はいつもどおりの無表情で、けれど少しだけ目元が緩んだように見えた。


「よし。じゃあまずは基礎体力からだ。重りを巻いて、庭を十周」


「重り……何キロ?」


「リリス用だから軽いよ。両足に五キロずつ」


「……へ?」


 兄は軽々とそれを手渡してきた。


「私の体重、たしか三十キロちょっとなんだけど!?」


「大丈夫。リリスならできる。……無理なら抱えて走ってやってもいいけど」


「やります!! 一人で走ります!!」


 兄の顔を見たら、何かもう負けられなかった。

 ……いや、むしろ甘やかされるほうが危ない。


 私は重りをつけて、庭へと出た。風が冷たい。でも、足は温かくなっていく。

 体はすぐに悲鳴を上げたけれど、それでも走った。


(あの女に、触れさせない。私の居場所に、手を出させない)


 そう、強く思いながら。


 十周目の終わりに、足がもつれて、地面に倒れそうになったとき――


 兄の手が、私を支えた。


「よく頑張ったな。初日からやりすぎだ」


「……ぐす。ほめられると、涙がでそう」


「でていいよ。がんばったから」


 そう言われたら、がまんしていたものがこぼれた。


 私は兄の胸に顔をうずめて、涙を落とした。


 午前の訓練のあとは、工房の片隅で休憩。

 兄が淹れてくれたミントティーが、体の中にじんわりとしみこんでいく。


「リリス。剣の訓練も少しずつやっていくぞ。あくまで護身用だ。無理はさせない」


「うん。でも、魔法も……できるようになりたい」


「魔力の制御には、時間がかかる。でも、やってみるか?」


「やりたい。魔法でも、兄の剣を支えられるなら」


「……頼もしいな、ほんと」


 兄が頭をくしゃっと撫でてくれる。

 ああ、この瞬間のためなら、何回でも走れる気がした。


 夕方。訓練と錬金実験を終えたころ、執事が工房に駆け込んできた。


「アッシュ様、リリス様。至急、屋敷へ。王都より使者が来ております」


「王都……?」


 兄が顔をしかめた。私も思わず立ち上がった。


「王都の使者が、こんな早く……」


 兄と並んで屋敷へ戻ると、応接室には見慣れない制服を着た青年が座っていた。

 王立諜報局――そう胸元の徽章が語っている。


「ご多忙のところ失礼いたします、ランデル侯爵令息アッシュ様。そして……リリス様」


「用件は?」兄の声が低くなる。


「帝都よりの魔物侵攻事件に関連し、王城より召喚状が発せられました」


 青年が差し出した文書には、重厚な封蝋とともに、王印が押されていた。


「陛下自らの要請です。明後日までに王都へ」


「……俺だけか?」


「いえ、リリス様もご同行いただきたく。詳細は、直接陛下よりと」


 私は、兄の袖をそっとつかんだ。


 嫌な予感がした。帝国。適合者。昨日の文書。――そして、今日の“急な召喚”。


「リリスには関係ないだろ」


「いえ。先の襲撃で、リリス様が“帝国の特級回収対象”であると確定いたしました」


 室内の空気が、一瞬にして凍った。


 兄の手が、私の肩に伸びる。


「俺が行く。リリスを連れて、な」


 そう言った兄の声が、とても静かで、とても、強かった。



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