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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編とか

あなたに会いたかった

作者: 吉冨

 ここに3分間だけ、死者を蘇らせることのできるお香がある。

 俺はたった1人、部屋でそのお香に火をともした。


 カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中、白い煙に懐かしい姿が透けて見えやしないかと俺は目をこらす。


************


 いじめられるほうにも原因がある。

 大いに結構。理屈としては納得できたし、俺も若い頃はそうやって自分を納得させて、嬉々として加害者の立場になっていた。


 中学生の頃だ。まだ思春期真っ盛りの幼い俺たちは、自分たちの正義がすべてだと信じていた。

 輪を乱す同級生に制裁を加えることだって正義だったし、少し様子のおかしいやつを多少過激に可愛がることもその範疇にあった。

 いじめにあうやつには、それなりの理由がある。それが俺たちの持論だった。


 だが、あの頃の俺と今の俺では違うものがある。


 俺は今年四十路になる。

 いや、なれないかもしれない。多分、なれないだろう。

 内臓を蝕む病巣は、あと数か月で俺の命を奪う予定になっていた。


 俺には家族がある。

 高校を卒業して3年後に中学校からの馴染みと結婚した。何度も別れたりよりを戻したりして、結局子供ができたことを機に籍を入れた。

 生まれてみれば子供は可愛かった。妻への愛おしさも増した。仕事へのやりがいもできた。


 もうすぐ娘は成人する。

 今でこそ元気に大学に通っている娘だが、高校の頃にいじめにあって、一時期いわゆる引きこもりというやつになった。

 自分の因果が廻ったのだとは思わなかった。娘にも原因があるのだと思った。

 だがよくよく話を聞いてみれば、いじめの原因は三者面談に行った際の妻の香水のきつさが発端になっていた。

 幼い頃の自分を思い出す。あの頃はそんな些細な原因すら本人の責として、俺たちは迫害の理由にした。


 持論が揺らいだ。

 そして、思い出した。

 俺が執拗にからかった女子生徒が高校のときに亡くなったことを。


 彼女は俺と同い年で、幼稚園から中学まで同じだった。

 家が近所だったから、幼い頃は一緒によく遊んだものだ。

 小学校高学年あたりから、彼女が急に冷めて見えてつまらなくなって遊ばなくなった。

 今ならわかる。彼女は俺よりも一足先に成熟を始めた年頃で、泥にまみれて猿のように遊ぶ俺たちの幼さについていけなくなっただけだと。

 だが当時の俺には、彼女の態度の変化はただの裏切りにしか映らなかった。


 いじめというほどのものもではなかった。

 いや――どうだろう。本人はどう感じていたか。

 小学校のうちは、ありがちな男女間の対立程度だった。

 俺が何を言っても周囲の女子と結託したように冷たい視線だけが返ってきた。


 中学校になって人間関係が変化したときも、俺はいつものように彼女をからかった。

 胸がふくらみ始めた彼女を、他人と比較して貶めた。

 癖のある黒髪を卑猥なものに喩えた。


 彼女はやはり何も言わなかったが、それを見た他人の目まで俺は考えていなかった。

 彼女のクラス内でのカーストは徐々に下がり、何を言ってもいい対象に落ちるまで時間はかからなかった。

 俺が部活で忙しくなって彼女のことを忘れた頃には、知らないクラスのやつらが俺が一度だけ口にしたことのある卑猥なあだ名で彼女を呼んでいた。


 謝ろうと思った。

 何度も思った。

 だが彼女は俺の顔を見ただけで逃げるようになり、謝罪の機会は訪れない。

 短絡的な俺は彼女を逆恨みし、彼女にもいじめられる理由があるからしかたがないと結論付けた。


 俺たちの関係性は中学を卒業するまで変わらなかった。

 途中から彼女は登校さえしなくなり、高校どうするんだろうと思った頃には、他県の寮付きの学校へ行ってしまった。

 聞けばその高校は全国から成績優秀者を集める有名校であり、彼女は逃げたのではなく、俺が置いて行かれたに過ぎなかった。


 やがて彼女のことも忘れた頃に、母親から彼女の死を伝えられた。

 家が近所だったし幼馴染だったから、親に引きずられるようにして葬式に行った。

 交通事故だったのだという。

 棺の中の彼女はそのわりに綺麗な顔をしていて、陳腐な言い回しだが、本当に眠っているようにしか見えなかったのだ。


 罪悪感で死にそうになりながら焼香をした。

 祖父母ですら健勝な俺にとって、初めて触れる「死」だった。

 知識として知ってはいても、理解はしていなかった。

 彼女と俺をつなぐ絆はとうの昔に切れていたのに、ほんのわずかに残っていたかもしれない可能性すら、死は容赦なく奪い去った。

 謝罪の機会もない。贖罪の余地もない。

 死はいっさいを断ち切るものなのだと、そのとき初めて理解した。


 謝りたかった、と泣きたくなった。


 俺が余命宣告を受けたのと、死者を蘇らせるお香と出会ったのはほとんど同じ時期だった。

 遺言だのなんだのといった自分の死後の法的な手続きを済ませ、娘にも余命を伝え、妻にも感謝を伝えた。

 すでに仕事は退職していたので、人間関係の整理も楽だった。皆、励ましの言葉を送ってくれて、見舞いにも来てくれた。やつれた俺を見て驚いてはいたけれど、それでも会えただけ嬉しかった。


 そんなときにとあるやつの口から聞いたのが、そのお香だった。

 冥途の土産に分けてくれと頼むと、冗談めかして「横浜の中華街で買った本物だよ」と言いながら分けてくれた。

 もし彼女に出会えたら、俺はその3分間ずっと土下座でもなんでもしようと決めた。

 

************


 医者に頼み込んで一時退院させてもらい、久しぶりの自宅だ。

 娘は大学で、妻は仕事に出ている。

 俺が死んだ後もこの2人はこの日常を続けていくのだと思うと、寂しくもあり、空しくもある。


 だが、俺は死を受け入れねばならない。

 俺とこの世界の関係性は、数か月後には否応なしに断ち切られる。


 だからこれは最後にやり残したことだ。

 俺はお香に火をともした。

 心底本気にしたわけではない。どうせ眉唾物だろうと心の半分は思っている。

 しかし残り半分は――


 カーテンを閉じて薄暗くなった部屋に、白い煙がゆっくりと立ち上っていく。

 三角形のコーン型のお香から立ち上る煙は、拡散することなく、まっすぐに上へ立ち上って行った。


 お香というのに何のにおいもしない。

 首を傾げたとき、異変に気付いた。


 まず、異様な臭気が鼻を突いた。

 豚肉を常温で放置して腐らせたときのことを思い出した。

 生臭く、吐き気を催すようなにおい。


 ついで、煙が座った俺の目線のあたりで固まり始めた。

 ボールのように丸まったそれはくるくると回転しながら徐々に大きさを増し、やがてお香が燃え尽きる頃には俺と同じくらいの大きさになった。


 どちゃ。


 何が起きたのかわからなかった。

 湿った音とともに、女がテーブルに落ちたのだと、目の前で起きた出来事を何度も目を瞬かせて認識した。


「……中川、か?」


 俺の呼びかけに、女はゆっくりと顔を上げた。

 癖のある黒髪の向こうから、乾いた目がこちらを見ていた。


「中川だな……すごいな、本当に会えるんだ……」


 俺は半ば腰を抜かしたままつぶやいた。

 それに呼応するように女の唇が動く。


「……3分だけ甦ると聞いたの」


 ああ、彼女の声だ、と俺は懐かしさに目頭が熱くなった。

 今なら素直に認められる。

 俺は彼女の声も、目も、髪も、すべてが好きだったのだ。


 俺は泣きそうになりながら、彼女に向けて深々と頭を下げた。


「中川、すまん。すまなかった。俺は本当はおまえがずっと好きだったのに、ずっとひどいことばかり言った。謝りたかったんだ。すまない。本当に、ごめん」


 彼女の細い息遣いが部屋の中に響いた。

 俺はついに涙をこらえることができずに鼻をすすった。

 この言葉を言うのがあと30年早かったら。

 25年でもいい。

 そうしたら――お互いに違う人生だったかもしれない。

 彼女は生きて俺の前にいたのかもしれない。


 彼女は俺の謝罪に対してしばらくの間無言だった。


 だがゆっくりと立ち上がり、テーブルから床へ足を下ろした。


「それを言うために私を呼んだんだ?」


 彼女はキッチンのほうへと足を向けたようだった。

 俺は顔を上げることもできず、彼女の声を耳に刻み付ける。


「……そうだ。ずっと後悔していた。謝れたら、と」

「そっか」


 かた、と何かの音がした。


「実は、私も大沢くんに会いたいと思ってたの」


 彼女の足音がこちらに近づいてきた。

 俺は恐る恐る顔を上げた。

 土下座をする俺のすぐ前に、彼女が立っていた。

 あの頃と変わらぬ眩しいほどの笑顔を浮かべて。


「たくさん、言いたいことがあるんだよ。でも時間がないから――」


 彼女が俺に覆いかぶさるように顔を近づけた。

 腐ったような臭気が一層強くなる。


「会えて、本当に嬉しい」


 俺も嬉しかった。

 そう答えようとしたそのとき。


 彼女の手が動いた。

 首に殴られたような衝撃。

 俺は体勢を崩し、視界の端で赤い液が噴水のようにほとばしって壁に散るのを、どこか他人事のように見た。


「あんたなんか、死んじゃえ」


 漫画のように首から噴き出していく血煙の中、彼女の体がぼんやりと薄れて、そして消えた。


************


「彼、末期癌だったんです」


 妻が警察に語っている。泣きはらしたようで目が真っ赤になっていた。


「痛みに耐えかねての自殺、かぁ。切ないものですね」


 まだ若い刑事は手を合わせて死体を拝んだ。

 血の海に沈む死体の手のそばには文化包丁が1本落ちており、それが男の命を奪ったことは明らかだった。


「ホスピスで末期治療を受けるという話もあったんですけど、娘にお金を残したいからってそれを断って……でもまさか……」

「……責任感の強い方だったんですね」

「……そう、ですね。若い頃から明るくて、ムードメーカーで……うう……ごめんなさい……」


 とある住宅で起こった男の不審死は、事件性なしと判断されて自殺として処理された。

 末期癌で数か月苦しみながら死を迎えるよりも、一瞬の痛みで終わることができたのは、むしろよかったのかもしれない。彼の妻はずいぶんたったのちに、そうつぶやいたのだという。

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