5.未界踏破
※本編と大きく関わりがない内容なので飛ばしても大丈夫です。
——月曲九段の印象はいかがですか?
「とても充実されている棋士です。序盤中盤終盤隙がないと思います」
——戦型予想はいかがでしょうか?
「先後がわからないので断言はできませんが、おそらく角換わりになるのではないかと」
——本局への意気込みを聞かせてください。
「解説に私のことをねこっかわいがりするくそうるさいのが来ているので、とりあえず黙らせたいです」
——井上二段の印象はいかがですか?
「またすごい女が出てきたなと思っていました」
——戦型予想はいかがでしょうか?
「矢倉だと予想してきましたが、どの戦型にしろ激しい将棋になると思います」
——本局への意気込みを聞かせてください。
「早指しの棋戦なので時間に追われて焦ることのないようにしっかりと指したいです」
振り駒で井上二段が先手、月曲九段が後手となった。
「お願いします」の声と同時に間髪入れずに井上真姫が76歩と角道を開けた。月曲は飛車先の歩をつく。(女性には珍しい、居飛車党の本格派……)沢渡女流玉竜とのタイトル戦の棋譜は、月曲も見ていた。二連勝からの三連敗で獲得を逃したものの、内容は紙一重だった。奨励会員としての棋譜は公開されておらず、公開されている女流の実力者は振り飛車党が多くて相居飛車の将棋での井上の情報は少ない。油久絵さんが嬉しそうに「見込みのある子を弟子にとったんだ」と語っていたことを思い出す。それでも。
――井上真姫奨励会“二段”
奨励会の「三段リーグ」は、鬼の住処だ。そこにいる人間の実力は、プロの下位層と大きく変わらない、あるいは勝るものもいるだろう。
月曲は「次点二回」での昇段の権利を獲得して、それを放棄したことがある。師匠である上町七段に「きみの棋力ならば上がれるのは間違いないから、勝ち取って上がってきなさい」と言われたからだ。あそこにもう一期座るのか……? と絶望に似たものを感じたものはいまでも覚えている。
でも目の前の相手は、まだ「二段」だ。「三段リーグ」を経験していない。
プロの一歩手前まで届いていない。
月曲は盤面を見つめる。敵は角道を開けたあとまっすぐに飛車先の歩をついてきた。
「角換わり」の将棋とするか、「横歩取り」にするかの選択権は後手の月曲にある。月曲が歩を突いて飛車先を受けさせれば角換わりの。角道をあけて敵に歩を突かせれば横歩取りの将棋になる。
……後手“横歩取り”。空中戦法とも呼ばれる戦型だ。かつては月曲の名人奪取の原動力となった。井上はそこに真っ向から突っ込んできている。気に入らないな、と月曲は思う。井上二段が「矢倉」を指せるのは玉竜戦で見ている。それで先手の利得を充分に生かせるだろう。けれど井上はそれを避けた。
――青野流で、後手横歩取りは壊滅してるのよ。
――だからあんたは指せないでしょ?
二段無勢に、そう言われている気がした。
月曲は角道を開けた。互いの角が向かい合う。横歩取りの定跡に突っ込んだ。にぃ、と井上が凶悪な笑みを浮かべた。互いに飛車先の歩を突きあい、井上が横歩をとった。月曲が33角と上がる。——「33角型空中戦法」。かつて、この空は、月曲のものだった。飛車角桂馬の飛び交う空中戦で必要とされるのは「大局感」と「バランス」だ。少しでも均衡が崩れればそこから一気に決壊してしまう。月曲のそれは他の棋士よりも優れていた。誰も月に手を届かせることができなかった。月曲の奏でた将棋は、“将棋界の神”をすら魅了した。
けれど、将棋ソフトが月曲の空を壊した。億を超える手を読むソフトが重力を強めて、空を泳いでいた月曲の足を掴み地に引きずり落とし、縛り付けた。「大局感」や「バランス」と言った、人間的な「勝ちやすさ」は暴力的な量の演算によって破壊されてしまった。
不意に盤面の向こうに、悪魔のようなあの四奈川義行が座っていて月曲を冥府へと手招いているのが見えた。月曲は思わず瞼をこする。「井上二段、考慮時間を使い切りましたので、残りはありません」記録係の声で幻が消え去る。なんてことはない。まだ年若い、長い黒髪の女が座っているだけだ。
(……盤面に集中できていないのでしょうか)
月曲は膝の上に手を置いて、目を閉じた。ピアノを弾くように指を動かす。幼少の頃に習っていたピアノをいまでも趣味にしている。曲目はベートーヴェンピアノソナタ月光第三楽章。めまぐるしく動く指にあわせて頭の中で軽やかに連続した音が鳴り響く。頭の中がクリアになる。まっさらになった頭の中で盤面を見つめ返す。駒がよく動いてくれる。局面が見えてくる。
いくつかの筋を読んで、こちらに悪い変化を切り捨てて読みを打ち切る。こちらに良すぎる変化が見えてこの手は相手が選ばないとやはり切り捨てる。「読みの省略」、将棋の変化は膨大すぎて、とてもではないが人間には読み切れない。だからある程度のところで悪いと見た筋は切り捨てなければならない。すべての手を読み切ることは人間の演算能力では不可能なのだ。だから人間と人間の対局では最終的にはどちらの「感覚」が優れているか、という勝負になる。
「楽しそうね?」
井上が小さな声で呟いた。
「その余裕、剥ぎ取ってやる」
言葉と裏腹に、井上は月曲が「こちらが良すぎるから切り捨てた」変化に飛び込んだ。(読めていないのか……? いや、ちがうものが見えているのでしょうか)月曲が読みなおそうと盤面を睨んだが「月曲九段、考慮時間を使い切りましたので残りありません」の言葉が耳に飛び込んでくる。秒に追われて、月曲が指す。そして数手が進み、(勝ちましたか)と月曲は思う。先手玉には55金の簡単な詰めろが掛かっている。26の銀が46の玉の逃げ道を縛り、66の角と75の龍が先手玉を包囲している。先手の67の金が角にあたっているが、この角を外したところで同龍以下の詰みがある。55桂と打ち付けて金打ちを防いでも、44金で縛って退路を塞げば詰めろが継続する。ふっ。井上が鼻で笑ったのがわかった。彼女が飛車を持った。(飛車?)背筋を悪寒が登ってきた。井上二段の唇が声を吐き出さずに し ね と動いた。――45飛車。玉の頭にそっと置くようにして、指した。
(……なんですか、この手は?)
55金の詰めろは消えている。同龍は馬を引かれて寄らないし、角取りが残ったままになる。どうみても寄せがありそうな局面なのに、金と歩の持ち駒では寄りが見えない。こんな局面で金駒を持っていて寄らないなんてことが、あるのか……? いや、そもそも彼女はいったいいつから、この局面が寄らないことを見切っていたのか。月曲は直前になっても寄せがあるとみていたのに。この局面を正確に読むことを切り捨てていたのに。
月曲は対面に座っているのが、四奈川義行だと一瞬錯覚した。
——月曲が切り捨てた局面を、より深く読んで勝ちを探し出した。
——人間の頭脳に将棋ソフトの「感覚」を搭載した新しい世代の人間。
(……ああ、彼女もそうなのか)
月曲が撃ち込んだ29飛車に井上が77手目39金とよせあてた。
月曲が天井を仰いだ。傍らに置いてある湯飲みを取り、喉を潤す。駒台に手を置き、「負けました」と言い小さく頭をさげた。
途端に井上が両手を畳の上について顔を伏せて、むせた。
「や、その、ごめんなさい。これで足りてるか、不安だったのか、糸が切れて……」
しばらくの間、井上はうなだれて瞼の上に手の甲を置いていた。解説の油久絵さんが飛び込んできて「やったねえ! 真姫くん、やったねえ!」と彼女の肩をバシバシと叩いてようやく彼女は顔をあげて「あぁ、もう、うっざい!」その手を振り払った。
参考棋譜
AlphaZero - elmo 100番勝負 第14局




