5.未界踏破
リアルに帰ってきた俺は跳ねるようにして起き上がった。と、目の前に真姫先輩がいた。顔が近い。先輩は驚いて固まっていた。目が赤かった。えっと、泣いてた……? 「ジングウジは」と俺は言おうとしたけれど、ノドがひくついて言葉にならなかった。体が重い、というか、硬かった。先輩がナースコールを左手で強打した。
白い部屋。簡素なテレビに、引き出しのついた小さなラック。カーテンで仕切られた空間。
病室、だった。なんで? 状況がわからずにただあたりを見渡す。医者が看護師引き連れてやってきて「自分の名前はわかりますか?」だとか簡単な質問を幾つか俺にした。俺は掠れた声で「先に水をください」と言った。
一ノ瀬陽介。高校一年。十五歳。誕生日は九月十三日。誕生日が同じ有名人は松坂大輔。
それから自分がどういう状態だったのかを教えられる。ゲームプレイ中に原因不明の昏睡状態になり、八月二十三日から一か月の間入院していた、らしい。
諸々の検査が終わって病室に戻ると、先輩が俺を待っていてくれていた。
「薊は?」
訊ねると「あんたより先に退院した」つっけんどんに答えてくれる。
「DDでなにがあったの?」
「ええと」
「あんたと同じ症状で入院したやつらが百何人かいて、大騒ぎになってる。大多数はもう回復したけどいまでも一部の人は意識不明のまま。でもDDのサービスは止まってなくて、以来同じ事故は起こっていないけど有志がログインしないように呼び掛けてる。事情を聞こうにも会社の住所はダミーでもぬけの殻。サーバーは行方不明。お飾りで製作会社の社長やってたなにも知らないやつがいま袋叩きにあってるわ」
俺は少し考えて「……すみません、俺にもよくわかりません」と言った。
「そう」
先輩は俺を信用していない目で睨んだ。くっ、鋭い……
「つかぬことをお聞きしてもよろしいでしょうか」
「なによ」
「ジングウジってプレイヤー、知ってます?」
「黎明期からやってたプレイヤーならだれでも聞いたことある名前だと思うけど。『必要悪の境界』のジングウジでしょ?」
「もう少し詳しいところを」
「風の噂程度よ?」
俺は頷いて先輩を促した。
「製作者側の人間だったんじゃないか、って」
「……」
「DDの製作の関わったゲームプログラマーの神宮慈明じゃないかって噂があんのよ、あいつ。討伐したボスの数がありえなかったから、なにかしら正規の方法では手に入らない情報を握ってたんじゃないか? って。で、やっぱりDDでなんかあったのね?」
「いえ。そんなことは」
「意識不明のままよ」
「え?」
「神宮が。自宅でDDのヘッドセットつけたままぶっ倒れてるのを発見されて救急搬送されて入院してる。意識不明のまま、今もまだ回復してないわ。今回の事故で一番症状が重いのがそいつ」
……十中八九そいつがジングウジだったんだろう。
不意に、こんこん、と病室のドアが叩かれた。
「はい?」
俺が答えると横開きのドアががらがらと音を立てて開き、制服姿の薊とゴスロリ服の、背の低い暗い雰囲気の女の子がなかに入ってくる。
「よーちゃん、よかった」
「おう」
俺は隣の女の子に視線を移した。中学生くらいだろうか?
薊の現実の知り合いは大抵俺も知っていると思うが見たことがない子だった。
“アザミ”の、つまりはネトゲ内での知り合いだろうか?
「その子は?」
「カンミヤアイと申します」
かんみや、あい。
漢字を思い浮かべる。
神宮、愛……?
「あい、じん」
神宮さんがこくりと顎を引く。
「え、じゃあジングウジの妹さん?」
「兄のことを知っているのですね」
「例のことで話があって、訪ねてきたんだって」
「どうやって俺たちのことを?」
「薊さんのプレイヤーネームをインターネットで検索したらSNSが出てきました。そこから連絡をとって。驚きました。灰原薊って、本名だったのですね」
「薊……」
本名でネットやるなと口が酸っぱくなるほど言ったんだが、こいつSNSまで本名でやってたのかよ。
「えへへへへ……」
薊が力なく笑う。
まあ今回の場合は怪我の巧妙なのだろうか?
「すみません、部外者の方は外していただけませんか」
神宮さんが先輩に向かって言った。
「は?」
先輩が筆舌に尽くしがたい表情をした。こわい。あとからきたのはてめーだろうがてめーの方が失せろよ、死ね。と言い出しそうなのを「すみません、先輩。あとで埋め合わせするんで、いまは外してくれませんか」と、俺が両手をあわせて頼んで押しとどめる。奨励会やら女流棋戦やらが控えた先輩を巻き込みたくなかった。
先輩は今にもブチギレそうにさらに顔を歪めたが「あとで覚えときなさいよ」と言って、病室から外に出ていった。
「ええと、それで、なんか聞きたいことはいろいろあるような気がするんですけど」
「はい、お話します。≪アークノア≫と、そして兄のことについて」
兄は、ゲームプログラマーでした。神宮慈明といえば業界ではちょっと知られた名前です。
ある日、兄の元へ一通のメールが届きました。仕事の依頼です。電脳空間に現実と見分けがつかないような現実よりも優れた虚構を創る。兄はおもしろそうだとその仕事を受けました。プロジェクト名は「DLIDDRW」。作られた世界は≪アークノア≫と名付けられました。
「ん? “DLIDDI”じゃなくて?」
「はい。製品版になって改名されましたが、本来はこういう名前のはずだったんです。If you “don’t like it don’t do Real World”(現実世界が嫌ならやめていい)」
「はぁ……」
「製作者側だからボス討伐であんなに結果出せてたんだね」
「いえ、それは違います。兄の担当は主にグラフィック面でした。モンスターやスキル関連の調整を行ったのはまったくの別の人間で兄はそれには関与していませんし、情報を受け取ってもいません。兄がゲーム内で他のプレイヤーよりも先んじていたのは、ただ廃人だったから。時間をより多くかけて研究していたからです」
「あ、はい」
「続けます」
兄たちのプロジェクトチームは順調に世界を作り上げていきました。
最新のCG映像を使って現実と変わらないグラフィックを作り上げ、ヘッドセットを介して脳波を読み取り身体感覚とキャラクターの動作をリンクさせる方法を生み出し、プレイヤーの意識をそこにダイブさせることに成功した。
ですが、いくつかのことがらについては失敗しました。
その一つは、味覚です。
もっとも感覚を完全にリンクさせることについては、一部のメンバーから強い反対があったようです。例えばショック死しかねないような強い痛みを≪アークノア≫内で受けたときに現実の身体へのフィードバックがどうなるのか。さらにいえば現実世界と完全に同じ身体感覚を≪アークノア≫内で得てしまえば、現実と≪アークノア≫を混同する人間が出てしまうのではないか。メンバーの中でこの感覚のリンクに専門的な知識を持っていた「ヴィジ」という方がこういった点について懸念を強く持っていたために、身体感覚については最低限のリンクだけに留まりました。
それから兄たちがもう一つぶちあたった壁が、資金面の限界です。
金はいくらあっても足りなかった、と兄は言っていました。
最初は支援してくれていたスポンサーが、開発の遅れや山のように積み上がった課題を前にして、次々に降りていったそうです。そうして兄たちの手元には、開発途中の≪アークノア≫の、次なる楽園へ飛び立つための船の、成り損ないだけが残りました。
それを応用して作られたゲームが、DLIDDI——If you “don’t like it don’t do it”
あなたがたがよく知るDDというゲームです。
「じゃああのバグは」
「おそらく開発メンバーの、≪アークノア≫を諦めることができなかった誰かなのでしょう。彼らは計画が頓挫してDDに切り替わって、それがリリースされたあとも秘密裡に開発を続けていたようです」
「誰かは、わからないの?」
神宮さんは首を横に振った。
「私は兄ではありませんから。彼らは“シュウ”や“ミキ”、“ジン”みたいなコードネームで呼び合っていたので具体的な個人名は私も知りません」
「……一つだけ気になってたんだけどさ」
俺は気になったことを訊いてみた。
「はい」
「どうして俺たちのところにきたんですか?」
神宮さんは答えづらそうに声に出さずに動かして、視線を外して考えをまとめた。
それからまっすぐに俺の目を見た。
「私は、兄を助けたいのです。手伝ってくださりませんか」
「≪アークノア≫って世界から、ジングウジの意識を救出する方法があってそれには俺たちの協力がいる」
俺たちは現実世界ではどこまでもふつうの高校生だ。
ということは、つまり。DD内での戦力が必要なのだろう。
「まだわかりませんが。おそらく最後には。あの『双頭の究極龍』を倒す必要があります。そして私が事情を明かせるプレイヤーは限りなく少ない。こんな話を信じてくれる人が多くいるとは思えません」
「でも相手がだれでなんなのかも今一つわかってないんでしょう? どうするの?」
「……一人だけ顔も名前もわかっている人物がいます。どうにかしてその人にコンタクトをとってみようかと」
「なんて人?」
「月曲箱彦さんという方です」
「月曲?」
思わぬ名前が出てきて俺は首を傾げた。
「よーちゃん、知ってる人なの?」
「知ってるっていうか、有名人っていうか、知らないやつのがもぐりっていうか、にわかっていうか」
珍しい名前だから、同姓同名ってこともないだろうし。
月曲箱彦、……九段。
将棋の棋士だ。タイトル保持歴は名人を三期持っている。いまは四奈川現名人に奪われて無冠だ。順位戦はA級、ようするに最高位で戦っている。最近はタイトル戦にこそ顔を出していないが、挑戦者決定戦には何度か絡んでいた。押しも押されぬトッププロの一人だ。かつては「後手横歩取り」の名手として知られていた。空中戦法、とも呼ばれる横歩取りは大駒の飛車角と桂馬が派手に飛び交う、一つのミスがすぐに致命打に発展するスリリングな戦型だ。月曲九段はそれを研究と読みの力でこじ開けて、名人獲得の原動力とした。現在では先手の方に「勇気流」や「青野流」といった有力な形が研究されたり再発見されたりで横歩取りの後手を持って指そうとする棋士は少なくなっているが。
……口にさがないネットのやつらは月曲九段のことを「最後の人間の名人」と呼ぶ。
月曲九段は、いまは廃止になった雷鳴戦という「将棋ソフトvs人間」の最後の対局で、大差で敗北した経験を持つ。現在のように将棋ソフトによる研究が全盛になる前の、人間が独力で棋譜を作っていた時代の最後の名人。
月曲九段から名人位を奪った四奈川名人は、ソフト研究を中心にしていて「人間相手の研究会」を行っていないことで有名だ。四奈川名人には序盤で相手のわずかな隙をついて細かな攻め筋を繰り出して勝った「ソフトのような攻め」と形容される対局がいくつもある。天才と呼ばれる人間の頭脳に将棋ソフトのパワーを上乗せしたような、そんな将棋を指す。また「知っている局面」に時間を使わないことでも知られている。どれだけ難しく見えても研究済みの局面ならば一瞬で指してしまい、時間に差をつけて後半で読みをいれて相手を置き去りにする。月曲九段と四奈川名人が戦って、四奈川名人が勝った対局を見て「人間が勝てる相手じゃないよ」と冗談交じりに四奈川名人を表した棋士がいた。月曲箱彦は人間だから勝てないんだ、と。
カタン、と病室の外でなにか動いた感触がした。
なんだろ? 扉によりかかってた人が体を離したような、そんな感じの音だったけど。
誰かが耳ひっつけてたとか? ……まさかな。
「月曲九段がなんでまたゲーム開発に?」
「元々は天才の脳の解析ということで招かれたそうですが、のちに個人スポンサーになって多額の資金援助を行ってくれていたそうです。動機はわかりません」
「ジングウジが言ってたんですか?」
神宮さんが頷いた。
「テレビで、一時期すごく将棋のことが取り上げられていたでしょう?」
「ああ」
“史上五人目の中学生棋士”が二十九連勝していた時だ。
「そのときに月曲九段がテレビに映っていて兄が言ったんです。“あれ? キョクじゃん?”って。それで私がいろいろ聞いてみて、彼のことについてだけ話してくれました」
…………
テレビで思いだしたが、テレビ棋戦のMHK杯があって出場者の中の「女流棋士枠」で井上真姫二段が沢渡好美女流五冠を破って出場を決めていた。その二回戦の相手がたしか、月曲九段だったはずだ。
コンタクトを取る――いや、なに考えてんだ。あの人はあの人で勝つか負けるかに人生懸かってるんだ。先輩に余計な重荷を増やすべきじゃない。
「あの、もしものときには、助けていただけませんか」
神宮さんが泣きそうな目で俺と薊を見上げた。
「協力、できません」と俺は言った。
「俺たちにはジングウジを助ける義理はないし、もしもの時に≪アークノア≫とかいうやつから出られなくなるのは、俺たちにとってはリスクが高すぎます。そんなのに巻き込まれるのはまっぴらごめんです」
「よーちゃん」
「おまえもやめとけよ。ネトゲの揉め事じゃすまないんだ。下手すりゃ命に関わるんだぞ」
薊は少しの間迷っていたけど、そのうちこくりと顎を引いた。
「連絡先だけは教えてください。もしもなにかあったら報告はします」
「……はい」
神宮さんとアドレスを交換する。
「では、そういうことなら、私はもう帰ります」
神宮さんが病室を出る前に、振り返って、言った。
「ふふふっ、そうですよね。兄があなたたちを助けたからって、あなたたちが兄を助けてくれるとは限らないんですよね。ふふっ。あいつらもあなたたちも、みんな呪われればいいのに」
……神宮さんが出ていく
「よかったのかな?」
薊が呟く。
「選択の余地ないだろ。リスクが高すぎる」
「うん。だけど……」
「おまえももう帰れよ。起き抜けだからちょっと疲れてるんだ。ねむい」
「……わかった」
薊も病室から出ていった。
薊の足音が遠ざかったのを聞いてから俺は「薊がいる手前であいつを巻き込むのは嫌だったからああ言いましたが、協力したいです。なにかできることがあれば言ってください」と俺は神宮さんにメッセージを送った。




