第9話
「せっかくいい天気なんだし散歩でもしない?」
昼食後、紅杏からそう提案された静哉は、今後の予定も特に決まってなかったために二つ返事で了承した。
少女のペースに合わせながら隣を歩いて、公園からメインストリートとは反対側に向かって歩く。
しばらくは建物が建ち並び、裏通りのような場所もあって案外店も多かった。また友希と行ってみよう。
裏通りを超えると次第に建造物の数は減り、所々に木々が生えて緑が姿を見せ始めた。
友希と一緒にいるときは街が主だったからメインストリートの近辺ばかり寄っていたために、あまり街の外れの方は来たことがない。
完全に街を抜けると、道は石畳になりそのまま遠くに見える森へと続いていた。 左手には小川が緩やかかに流れ、右側はちょっとした草原のような場所になっている。
コンクリートが太陽光で温められて熱のこもった街とは違い、自然が増えるほど暑さは若干ではあるが落ち着いた。
――――でもやっぱり暑ぃ……
けれど暑ささえ我慢できればこんな晴れている日には持ってこいの場所だ。穏やかな風がここに吹き抜ければさらに心地よいだろうが、あの時以来、一切風が吹かなくなってしまっている。
山の麓にある街の外にこんな景色が待ち受けているとは思ってもみなかった。家の近くのお気に入りの場所からここは死角になって見えない。そのために静哉の知る場所が山ばかりなせいもあって、すぐ近くにこんなにいいスポットがあることは少々意外でもあった。
「へぇー、いいとこだな」
「でしょでしょ? 本来ならここは観光スポットの一つになってるんだ。と言っても、実際に見るものなんて一つもないんだけどね」
「でも、ここにいるも何か落ち着く気がする」
「うん。それが観光スポットになってる理由だよ」
周囲は木々に囲まれて、それでいて光が完全に遮られることなく穏やかな日差しが差し込んでいる。影にいれば気温もそこまでは高くはなく、過ごしやすい環境だ。
「また、友希と一緒に来たいなぁ……」
「ん、友希? 友希って?」
「あ、ごめん、何でもない!」
「むー、そんなに隠さなくたっていーじゃん! 教えてよー」
「別にそんなつもりは……」
まだ出会ってほとんど時間の経たない少女に話すのはどうかと思ったが、それでも静哉は話すことにした。そうすることで、自分の気が楽になるような気がしたから。
「友希は妹だよ。大切な妹。友希は体が弱くて一人にしておくのが心配なんだ。だから俺が友希の面倒を見てあげなくちゃいけないんだ。そっと傍に寄り添って、どんな時でも」
――そう、昔友希が俺にしてくれたように……
「いいお兄ちゃんなんだね」
「そう、かな?」
「うん、そうだよ」
紅杏は木に大部分を覆われた空を見上げ、遠い目をした。
「あたしにもお兄ちゃんがいたんだ。それこそ静哉くんみたいに優しくて、頼もしいお兄ちゃんだったよ。一緒にいると楽しくて、小さい頃は毎日のように遊んでた」
どこか覚悟を決めるようにして深呼吸した紅杏が、「でも」と繋ぎ、また間を空ける。
「……もう、いないんだ。あたしとお兄ちゃんがまだ小学生の頃にお兄ちゃんが事故にあって、いなくなっちゃった」
普段の紅杏とは少し声音が違うが、それでも決して負の感情というものは出していない。きっと言っている本人は辛いはずだ。
静哉にも、彼女の辛さはよく分かる。彼だって幼い頃に家族を失い、その原因が事故という点で共通しているから。
しかし、それでも明るく振る舞えるのは、彼女には強さがあるのだろう。
「だからね、妹からしたらお兄ちゃんはかっこよくて優しくて、永遠のヒーローなんだよ!」
「そう、なのかな。そうだと嬉しいけど……」
けど、本当はヒーローになんてなれてない。迷惑ばかり掛けていた自分にヒーローを名乗る資格はない。だけどせめて、これから友希のヒーローであれたらいいな。
密かに胸の内で思いを募らせながら川沿いに伸びる道を直進し、二人は森の方へと入っていった。
こうしている今だけは、不安や恐怖を忘れていられる。それはきっと、この少女との出会いも大きいのかもしれない。
横目で当の少女を見れば、相変わらず音の一つすらさせずに義足を使って自分のペースで歩いている。出会った時と同じように表情は優しい笑みを浮かべていて、彼女も同様に楽しんでいるのだろう。
十年ほど前の事故以来、孤独という状況に恐怖を抱くようになったが、幸いというべきか、事故の起こった場所である山や森のような場所に対するトラウマはなかった。むしろ以前よりも好きになっている。
とは言え、さすがにこの状況では別の意味で恐怖がある。
何もなければ普通に木々に囲まれて静哉好みの場所ではあるが、いつ自分たちが襲われるか分からないこの場において、視界の悪い場所は奇襲を行う絶好の場所だ。
裏を返せば隠れるにはちょうどいい場所ともとれるが、一度山で襲われている静哉にしてみればあまり気分のいい場所ではない。
キョロキョロと周囲を見回して奇襲の機会をうかがう敵がいないか警戒していると、静哉の視界の端にこれまでとは違う何かが目に入った。
「ん?」
興味をひかれた静哉は吸い寄せられるようにその何かの方に歩み寄った。
「どうしたの、静哉くん?」
静哉の行動に疑問を抱いた紅杏がついてくるが、静哉は気にせずし視界の端に映ったものに近づいてみる。
すると、森の中に不自然に開けた場所があり、その中央に祠のようなものがちょこんと置かれていた。
さらに近づいて祠をよく見ると、石材の土台の上に置かれる小さくてどこにでもあるような祠だ。ちゃっかり賽銭箱と本坪まである。
こんなところで祀るものなんて何があるのか。疑問に思っていると、静哉は石材の土台の部分に何か文字が掘ってあるのを見つけた。
「なんだこれ?」
小さすぎて遠目からでは読めない文字列を読むために、静哉はかがみ込んで顔を近づけてみる。
『この世は満たし、さまよえるものを戻すとき、見つけた者に扉は開かれる』
「なんだこれ?」
首を捻って数秒前と同じ言葉を反芻した。
「何かと思ったら、ただの祠でしょ?」
「そうなんだけど……この文がちょっと気になるっていうか、普通祠にこんな暗号みたいなこと書かれてないだろ?」
「うーん、そうなの? 分かんないや!」
考えるのを放棄した紅杏は軽く肩をすくめた。
静哉はもう一度台座に書かれた文章を読み直し、この文がどういう意味を持つのかを考えてみる。
しかし、全く意味が理解できない。そもそも扉というのはどれを指しているのかすら分からない。
一応祀られているものを覗き込んでみるが、観音開きの戸のようなものは何もなく、筒抜けに仏像が祀ってあるだけだ。
この祠が祀っているものと関係しているのだろうか?
「まったく分からないな。もう少しヒントがあれば考え方ぐらいは分かるかもしれないけど、文の意味をどう読み取ればいいのやらさっぱりだ」
「元から意味なんてないかもしれないよ? こういうのって飾りっていうか、祀ってあるものからの言葉っぽく後から作られたものだろうし、気にする人なんていないよ」
「そんなものかな……?」
好奇心をくすぶられた静哉としてはもっとじっくり考えたいのだが、考えても分かりそうにないため調査は断念することにした。
「ほら行こ? まだ森に入ったばっかりだよ?」
「……そうだな」
紅杏に促され、静哉は未練がましく横目で祠を見ながら森の奥へと進んでいく紅杏に続いた。
紅杏の後ろを歩いているときも、静哉は祠の文のことで頭がいっぱいだった。
――どうもあの文が気になるんだよな。絶対に何かの意味を持ってると思うんだけど……まぁ普通に考えると祀ってあるものに関連している何かだろうか。ってことはつまり歴史の知識がいるのかな?
静哉の知る限り台座にこんな意味深なことが書かれているものはない。しかし、頭に入っている歴史関係の知識で文に掠るようなものはない。
一応基礎的な知識については身に着けたつもりだが、静哉の知らない知識なんて無数にある。その中の一つがこの文かもしれないが、もしそうだとしてもそれを知るすべはない。
いつの間にか表情が強張ってしまっていることに気付いて静哉は頬の力を抜いた。
と、そのとき、前を歩く紅杏が突然立ち止り、彼女の小さな背中にぶつかった。
「うぉっ、紅杏ごめん」
謝っても紅杏から反応はなく、静哉は不審げに声をかける。
「どうした?」
「ねえ、あれ……」
紅杏が指さす方向に視線を向けるが、特になにも――いや、遠目に、薄暗い森の中でも黒くよく映えるものがあった。
目を擦って自分の見ているものが本物か確認するがどうやらそれは消えない。気になった静哉はそれを確かめるために慎重に近づいてみる。
「静哉くん?」
後ろから後を追ってくる少女の声を無視して静哉はその黒いものの方に歩み寄る。
かがんでいるから小さく見えるが、あれは間違いなく人の髪だ。黒いものに見えるのは、腰まで伸びた黒髪のロングヘアが後少しで地面に付こうかとしているからだ。
そして、その人物静哉は心当たりがあった。
「あいつ……って、ちょっと!」
そこにいるのは間違いなく静哉を殺しかけた黒髪の少女だ。だからつい反射的に身構える。
何の躊躇もなく黒髪の少女の元に向かう義足の少女に静哉は今度は別種の戸惑いを覚えた。
つい先ほどの自分の行動と同じように紅杏は静哉の言葉を聞かずに近づいていく。
地下では一応アドバイス? 的な言葉をかけてくれたが、どうしても一度殺されかけた印象が強く、警戒心の方が勝ってしまう。
だから静哉はどうするべきなのかよく分からず、とりあえず二人に近づき会話が聞こえる辺りまで慎重に近づいてみる。
「ねぇ、キミ、何してるの?」
ないとは思ったが、紅杏が最悪襲われそうにったら静哉は駆けつけるつもりでいた。もしそうなったとしても黒髪の少女に勝てる算段はないが、黙って彼女がやられるのを見ることはできないから。
「花」
顔を上げて立ち上がり、視線を交わらせる二人の少女。黒髪の少女の足元にはピンク色の野花が咲いていた。少女はそれを指差し、
「花を、見てた」
安定の無表情、無感情の声音で淡々と告げる彼女は、紅杏の問いかけに答えていた。
呆気にとられながら静哉は出ていこうかと迷った。やはり黒髪の少女から戦意は感じられない。
「ほんと、綺麗な花だね」
「…………」
「キミは花、好きなの?」
「わから、ない」
「そっか、あたしは好きだよ。綺麗だし、見てると元気が出るんだ」
「そう……」
「キミ、よくお花を見てるの?」
「花は、落ち着く」
「そうだよね。だからあたしも小さい頃はよく見てたなぁ」
感慨深く言いながら紅杏は黒髪の少女の隣に歩み寄んでしゃがみ、しみじみと野花を眺めた。
「こうしてると、おかれている状況なんて忘れちゃいそうだよ」
「花も、頑張ってるから」
「そうだね、一人ぼっちなのに凄いよね。あたしじゃ絶対無理だよ」
それきり二人の会話は止んだ。
二人のやり取りは普通の会話になっているように思えるが、冷静になって聞いてみれば会話は噛み合っていない。黒髪の少女が感情を見せないから本人の意図をうまく汲み取れないだけかもしれないが、それをうまく会話にしてるのは義足の少女の器量とコミュニケーション力がゆえだろう。
二人はしばらくピンク色の野花を無言で見つめていた。二人の間に静寂が生まれ、心地よい時間が流れる。
謎多き黒髪の少女に振り回されてる感がどうしても拭えないが、黒髪の少女は常に自分のペースでいる、そんな正確なのだと分かり始めた。
草原に強く咲く一輪の花と、それを見つめる二人の少女。傍から見ていてその光景はとてもいいものだ。性格はどうであれ、決して二人の見た目は悪くない。その光景を静哉はもうしばらく見ていたかった。
その時義足の少女が何かに思い至ったようにぱっと、黒髪の少女に顔を向けた。
「ねぇ、キミ。肉まん食べる?」
「…………?」
「あつあつもちふわでおいしいんだよ」
紅杏はいつも肉まんを持ち歩いてるのか?
そんな疑問を浮かべる静哉をよそに、黒髪の少女は差し出された肉まんを手にした。
「どう? おいしい?」
ウキウキした口調で訊ねる紅杏に、小さな口で食べることに夢中になっていた黒髪の少女は無言で控えめに首を縦に振った。
「そっか、よかった! じゃああたしは帰るね。バイバイ」
手を振ってその場から離れる紅杏を見ながら黒髪の少女は黙々と肉まんを食べ続けていた。
その少女の姿は、静哉を襲った人物とはまるで異なり、小動物のようだと思わずにはいられなかった。
しかし、そう思ったのも束の間で、少女は機敏な動きで紅杏を庇うように前に出た。
「誰……?」
彼女が見据える先は静哉の九十度右の木。その一点から視線を動かそうとはしない。
「隠れてないで、出てきて」
いつもと変わらない淡々とした、それでいて何故か強く聞こえる口調で少女が呼びかけると、木の物陰に隠れていた少年が姿を見せた。
木の陰から現れたのは、これまた静哉たちと同じぐらいの歳の少年だ。少し大人しそうな顔立ちに眼鏡をかけた少年の印象はどこかなよなよしている。身につけているのはジーパンにチェック柄のワイシャツというラフな格好で、動きやすさを重視したものだ。
「気配を消したつもりなんですけど、気づくとはなかなかやりますね。僕は長嶺李央って言います。それで、お願いがあるんですが……死んでくれませんか?」
表情一つ変えずに言い切ると、李央はクナイを懐から取り出すと問答無用で黒髪の少女に投げつけた。
「きゃっ!」
黒髪の少女の背後にいる紅杏が悲鳴をあげて反射的に顔を背ける。
少年の狙いは黒髪の少女の首筋を性格に切りにきていて、本気で殺意を感じる。
その光景を傍から見ていた静哉は、一切の手加減もない本気の殺し合いだということを改めて思い知らされた途端に動悸がした。戦闘が始まったら、自分が直接参加してなくても巻き込まれて、十年ほど前の時のように命の危険に陥るかもしれない。
「死にたくない……」
――いやだ、死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくないシニタクナイシニタクナイ。
強く生を望んだ途端に静哉の身体が金縛りにあったかのように硬直した。身体も震えだし、呼吸も荒くなっていく。
早くどこかに隠れないと殺されるというその焦りから冷静さを失い、余計に体は動かなくなる。
そこからは早かった。
静哉の鼓動は一層強さを増し、冷や汗が浮かび始めて恐怖で視界が奪われていく。次第に意識も薄れていく中静哉が縋ったのは、この世界にはいない家族だった。
誰か、助けて……母さん……父さん……友希……嫌だよ、こんなところで、死にたくないよ……
静哉の目から涙が零れ落ちる同時に彼の意識は途絶えた。