第16話
8
ビルはの中は完全に朽ち果てていた。
外観からは分からなかったが、視界に映るだけでも鉄筋が天井から欠け落ち、柱も所々が崩れかけている。フロアの正面にはエレベーターもあるが、とても使い物になるとは思えない。
このビルは元の世界にあったものだろうか。そうだとしたらかなり危険なビルだが、常識的に考えてありえない。街の端にあるビルと言えど、住宅街の一角だ。ビルがここまで廃れるとは到底思えない。このビルが誰にも使われなくなった時点で解体するか建て替えるだろう。露市に出会った地下といい、この世界の謎が深まるばかりだ。
静哉はいつ崩れてもおかしくない状況に怯えつつも隠れているかもしれない敵に気を配りながら静哉は直進してエレベーターに向かう。
一応、ボタンを押してみる。
チーン、と乾いたベルの音が静寂に包まれた構内に鳴り響く。露呈したエレベーター内部は、ビルの廃れ具合に全く似合わず正常に稼働していた。そのことに一安心して、静哉はただ何も考えずエレベーターに乗り込んで唯一ついているボタンで最上階を押す。
エレベーターが静かに動き出した刹那、静哉は自分のミスに気づいた。
エレベーターに乗ってしまえば、もうどこにも逃げ場がない。もし何らかの方法でエレベーターを止められたり、最上階に着いたタイミングを待って奇襲でもされれば静哉にはどうすることもできずに命を落とすことになる。
慌てて静哉は屋上手前のフロアのボタンを押すが、ビルが高くないことが不幸し、そのフロアには止まらず屋上へとエレベーターは進んでいく。
心臓の鼓動が高鳴るに連れて冷や汗が滲む。もうエレベーターを止める
「大丈夫だ、落ち着け……俺にはミラージュアイテムがあるんだ……」
覚悟を決め、顔を真っ直ぐ扉に向けた数秒後、エレベーターが止まった。止まった。
再び鳴り響くベル音と共に扉が開くと、釣れた獲物を逃がすまいと言わんばかりの強面の敵が静哉を殺そうと姿を見せる――ことはなかった。
いい意味で予想を裏切られた静哉は拍子抜けしつつも、顔を出して自分の目で敵がいないことを確認してから静哉はエレベーターを降りる。
意外というか予想外というか、爆発現場は一階と大差なかった。
全ての部屋を隔てる壁がなくなったフロアは静哉の想像よりも広かった。しかし、フロア中の瓦礫が散乱して、照明は一切存在しない。壁にある窓ガラスはすべて割れているかガラスすらない筒抜けになったものばかり。
「とりあえず隠れよう」
周囲を見回して自分がなんとか隠せそうな柱を見つけるのその陰に身を潜めた。
警戒心を強め、最大限に五感を研ぎ澄ますが人の気配がまるで感じない。
そんなはずはない。確かに爆発音はしたし、黒煙も上がっていた。あれが人をここにおびき寄せるためのフェイクだとしても、近くにいた静哉が来るより先に最上階から出てくることなんてほぼ不可能だ。
エレベーターの他に階段があるなら話は別だが、そうでないならまだこのフロアに敵がいる可能性は高い。
もう静哉がいることも気付かれていてもおかしくないはずだが、のこのこと敵の前に姿を晒すわけにはいかない。戦闘力の無いに等しい静哉にとってそれは、自殺同然の行為になるのだから。
ずっとこの場所にいるわけにもいかず、静哉は少しずつ移動を開始した。
まだ太陽は高い位置にあるために、視野が広いのが幸いだ。
念には念を重ねて自分の目で敵の姿がないことを確認して柱から柱へ素早く動く。
移動を繰り返していると、静哉の目飛び込んできた光景に絶句した。
なぜなら、部屋の一番奥には、天井から吊るされたロープに両手首を縛られ、足は壁から伸びる鎖によって拘束され、さらに無残にも衣服を剥ぎ取られて下着姿にされた紅杏の姿があったのだ。
全身に傷があり、頭を垂れる少女の姿に静哉は、彼女が自分を裏切って殺そうとしてきた人物であることすら忘れて一瞬で激昴した。
「紅杏!」
気づいた時には感情に任せて飛び出していた。
静哉の声は紅杏に届いたようで、少女はゆっくりと赤い髪を上げて顔を晒し出した。
「くれ…………」
もう一度、今度は彼女の無事に安堵して紅杏の名を呼ぼうとしたが、それは叶わなくなる。
「せいや……くん……?」
どうやら静哉のことは認識できたようだが、彼女の目に正気はなく、顔には絶望が浮かんでいた。まるで生きている人間だとは思えないほどにまで、恐怖で染まりきっていたのだ。
「待ってろ。今助けに……」
「ようこそ三波静哉クン」
静哉が一歩紅杏に近づいたとき、第三者の声がフロア内に響き渡った。
同時に静哉とは反対側の柱から初めて見る少年が出てきた。
細く鋭く威厳すら感じる顔つきで、平均より高めの背丈、長く伸ばした男子のものとは思えないさらさらとした銀髪を持ち、見るからに男子だと分かるが、髪のせいでどこか中性的な印象を受ける。
途端、紅杏の表情が恐怖で酷く歪み始める。
「まさかキミが来るなんてね。てっきり死んだものだと思っていたよ」
「どうして、どうしてそれを知っている」
「気づいてなかったのかい? 僕も見てたんだよ。あの火災の終始をね」
銀髪の少年の言葉から推測すると、初めから静哉と紅杏のことを狙っていたということだ。それならば静哉の名前を知っていたことも説明はつく。
幾分長い間気づかれないように二人を付け回し、会話を聞いていたのなら静哉と紅杏のことをある程度は知っているだろう。だから紅杏が静哉を裏切ったのを見て、今度はこの少年が紅杏を狙ったわけだ。
「どうだい? 傑作だろう? 君を裏切った相手がこんな惨めな姿でいるんだからねぇ」
「……紅杏を放せ」
「おっと、君を殺そうとした相手を助けようって言うのかい? お人好し過ぎやしないかい?」
そんなことぐらい自分でも分かる。弱肉強食のこの世界。殺し合いにルールなど存在しない。だからこの世界においてそれも一つの手なのだろう。けれどどうしてか、静哉は紅杏を恨むことはできなかった。いや、本当はその理由が分かっている、紅杏が友希に似ているから。だから紅杏のことを他人だとは思えないのだ。彼女のことを信用することはできないが、このまま放置することもまたできない。
――やっぱりお人好しだな、俺は。
「それの何が悪い」
「悪くはないさ。でもここではそのお人好しが必ず隙になる。そんなことぐらい君は思い知ったはずだよ?」
「ああ、誰も信用なんてできない。だから俺は自分の力だけで元の世界に戻ってみせる」
言葉は強気でも、全身が小刻みに震えていることを自覚していた。いつ脳裏に事故の映像が流れ始めてもおかしくないほど強く脈打つ心臓を力づくで抑え込む。いい加減怖がってばかりじゃいられない。ちょうどいい機会だ。ここを乗り越えれば多少は戦闘に慣れることはできるだろう。
「そんなに強がらなくても大丈夫さ。どうせ君はすぐに死ぬんだから。ほら、今だって震えてるしゃないか。怖いんだろう? 初めての戦闘で戦い方すら知らない君が僕に勝てるか不安なんだよね? 死ぬのが怖いんだよね? 大丈夫、君はもう死ぬんだから」
静哉は歯を欠けそうになる程強く食いしばり、鎖を強く握りしめる。少しでも気を緩めたらすぐに過去の記憶の奔流に呑まれて膠着してしまいそうになる。
「俺は負けない。何としても元の世界に戻らないといけないから。宝なんてものに目がくらんだお前には負けたくない」
決意の硬い静哉の言葉に少年はふっ、と笑を漏らしただけで軽く受け流し、愉快げに喉を鳴らした。
「君はおもしろいね。自分の実力を知りながら挑もうとするんだから。いいよ。その威勢に免じていいことを教えてあげるよ。僕は必死になって戦ってる連中のように宝なんてものはいらない。僕の目的はこの世界に住み続けることだ。だってここは何にも縛られるものがない。どんなことをしても咎められない。どんなことをし
ても許される。最高の場所じゃないか! この場所自体が、僕にとって最高の宝だよ!」
――狂ってる。
憤りや不快さ、恐怖心のような感情を通り越して、静哉は目の前の少年に呆れてものが言えなかった。
法律の通用しないこの世界において何をするかも全て自己責任だ。権力で咎められるようなことはない。だからこそ、今の発言にこの少年の闇を感じざるを得なかった。
「ここはお前の玩具じゃない。自分が罰を受けないからってしてはいけないことぐらいあるだろ」
「じゃあ、こういうことはどうだい?」
挑戦的な態度で静哉に突っかかると、少年は紅杏に歩み寄る。
怯えて小さく紅杏が抵抗するも、力ずくで少年が紅杏の髪を乱暴に掴んで顔を寄せた。
「ひっ……」
紅杏の目が大きく見開かれた。
彼女の頬を左手の指がなぞりもう片方の手では少女の顎を軽く持ち上げる。銀髪の少年の右手は顎から胸、腹部を通って大腿部に辿り着く。
「やめろっ!」
少年が手を止めてにたっと不気味な笑みを見せると、顔を紅杏の顔に近づけ、彼女の頬を舐め上げた。
それが静哉の限界だった。
「やめろおおぉぉぉぉっっっっ!」
意識せずとも走り出していた静哉は、自分の感情に抗うことなく紅杏に凌辱しようとする銀髪の少年との距離を詰め、拳を振りかざす。
鎖をを使うこともできたが、どうしても自分の手で一度殴っておかないと気が済まない。
静哉のパンチが頬にクリーンヒットすると、数歩後ろに後退し、紅杏との距離ができる。すかさず静哉は紅杏を庇うようにして二人の間合いに入った。
「静哉……くん…………どう……して…………わた……しを…………」
背後から聞こえてきたか細く震え気味な声に静哉は振り返らず答える。
「そんなこと、決まってるだろ。友達だからだよ。それ以外に何があるんだ」
小さな息遣いがギリギリ静哉の耳に届いた。そして僅かに間を空けて鎖を揺らす音と紅杏の声がした。
「でも……わたし……は……だまして……たんだよ……? ころそうと……したんだ……よ……?」
「ああそうだな。俺もすっかり騙されたよ。露市に助けてもらってなかったら確実に死んでたな。そのことを許してはないけど、それでも俺は紅杏を友達だと思ってる。その友達がこんな姿にされて、辛い思いしてるのを、助けちゃいけないのか?」
その言葉が効いたのか、紅杏は黙り込んだ。
「いったいなぁ~。今のは宣戦布告と見ていいんだよね?」
「…………」
もう引き返せないし引く気もない。
静哉は頭をフル回転させて戦術を練る。紅杏を庇っての戦闘は制限がかかりすぎるため不利になる。この状況を打開する策がなければ静哉は死ぬ。
そんな矢先、戦闘態勢に入った少年は懐から黒い球体のようなものを取り出した。刹那、必死になって打開策を考えていた思考が停止した。
明らかな自分の異変を感じたものの、状況が状況なので、気のせいだと自分に言い聞かせるが、やはり何も考えられなくなっている。
原因は自分でも分からない。どうして自分が何も考えられなくなったのか。きっと敵の武器を見てしまったのきっかけではあるだろうが、それだけでどうしてこんな状態に陥ってしまったのだろうか。
静哉の状態を知らない銀髪の少年の少年は指をポキポキ鳴らしながら言葉で圧をかけてくる。
「ケンカを売られたら買うしかないよね。知らないよ? 僕を怒らせると、どうなるか分からないからね? ああ、久しぶりだから腕が鳴る」
少年の挑戦的な言葉でさえ、今の静哉にはは入ってこなかった。
次第に静哉からは余裕がなくなり、焦りが出てくる。
何か考えろ。この状況を何とかする方法を! それが見つからなかったら、あっという間にリタイアだ。そんなのは納得できない!
静かな廃ビルのフロアに、銀髪の少年が歩み寄る足音が響く。
一歩、二歩、三歩。
小さくだが確実に接近する足が、床に転がっていたコンクリート片を蹴飛ばす。乾いた音を立てて静哉の足に当たる。
それでようやく静哉は気づいた。
自分の足が、体全体が震え、額には冷や汗が浮きだしていることに。そしてその原因が、未だ拭いきれぬトラウマと、死への恐怖だということに。
小刻みに震え続ける手のひらを見下ろせば、いつの間にか強く手を握りすぎて、爪痕が残りうっすらと赤く滲むものがある。
同時に静哉は自分の情けなさを恨んだ。
友希には返しきれないような借りがある。借りを返しきることか困難でも、友希が静哉を許さないとしても、それでも友希の元に帰って、借りを返すと決めたのだ。そのためには戦うことも辞さないとも、決意した。
なのに、踏み出せない。
「なんだい? あれほどの大口を叩いておきながら身体が震えてるじゃないか。やっぱりビビってるんだね」
銀髪の少年に何も言い返すもどかしさに静哉は歯ぎしりした。
自分の決意は、覚悟はこの程度のものだったのか? 友希に対する思いは上部だけ取り繕ったこんなに軽いものだったのか?
これまで自分の身を削ってまでも静哉を救ってくれた妹に何一つ恩を返すこともできずに、静哉はここで無様な姿を紅杏に晒して死んでいくのか?
――いやだ。
そんなのは嫌に決まってる。こんなところで死にたくはないんだ。友希と再び笑い会える日が来るまで、何があっても死ねない。
でも、身体は静哉の言う事を聞こうとはしなかった。
昔の事故が、その後の絶望が、十年経った今でも記憶に残って呪縛となり、静哉を未だに拘束し続ける。
いつまでもこのままではいけないと、頭では分かっていても、身体は正直だ。足は前に踏み出すことを拒み、腕は鎖を構えることを許さない。
紅杏の前でこんな無様な姿を晒している自分が悔しい。少女一人助けることができないのに、何が勝ち残るだ。何が元の世界に戻るだ。こんなんじゃ、静哉の目的は夢のまた夢で終わってしまう。
「そんな様子じゃ本当に無理そうだね。やっぱり僕は止められない。弱いのに、でしゃばるから。大人しく見てれば命を奪うこともなかったのにな」
もう静哉に手が届く所まで銀髪の少年が距離を詰める。
「せいや……くん……」
力ない紅杏の言葉で静哉の硬直は解けた。
直後、身の危険を感じて静哉はすぐに横へと飛び退く。すると、さっきまで静哉のいたところへ銀髪の少年が黒い球体を放り投げた。
その球体が地面に着地すると、轟音を響かせて爆発し、黒煙がフロア内に舞う。
爆風は静哉の回避した場所にまで及び、もしあのままいれば無事ではなかった。
「紅杏! 無事か!?」
自分で叫んでおきながら間近で身動きが取れない状況で爆発を受けたのだから、無事では済まないことぐらい想像はついた。けれど、今の一撃が重症に繋がるとは思えない。
ひとまずは目の前の敵に集中しようと、気持ちを切り替えたが、それでも黒煙に紛れている敵の居場所が掴めない限り迂闊に移動することもできない。
少しでも早く黒煙を払う方法をと考えたが、道具も何もない状況ではさすがに方法を考える以前の問題だ。
早く晴れろと焦がれる静哉は僅かな時間が長く感じた。一刻を争う時に一秒たりとも無駄にはしたくない。今この時にだって紅杏が狙われているかもしれないし、もうすでに襲われている可能性だってある。
黒煙さえ晴れれば鎖を使うことだって……。
「紅杏……」
「ちょっとは自分の心配をしたらどうなんだい?」
静哉が完全に気を抜いていたときに、聞くだけで憎悪が止まらなくなる声が聞こえた。
反射的に黒煙から距離を取るが、黒煙の中から突如姿を見せた爆弾までは回避しきれず、直撃を受ける。
「ぐぁ…………」
灼熱の痛みを伴って一瞬の空中浮遊は壁にぶつかる衝撃によって強制終了させられる。
ただでさえ崩れかけの壁がさらに崩れ、いつ崩壊してもおかしくない。
そんな壁の下で倒れ込む静哉は動くことができなかった。服は熱でところどころが破け、一部が血で染まっている。それでも暁人の鎖だけは手放さなかった。
身体に力を込めようとしても全然力が入らない。それどころか痛みが広がっている気がする。また新たに発生した黒煙が視界を遮るが、床に響く足音で銀髪の少年が近づきつつあるのが分かる。
なのに立ち上がれない。紅杏を助けようとして、自分がこんな姿になるなんて、無様にもほどがある。
戦うと決めたのに、それすらできず、挙げ句の果てには何もすることなくやられるのを待つだけ。最早悔しさを越して自分がただただ情けなくて、もがくのをやめて目を閉じた瞼の間から涙が出てきた。
敵を目の前にして自分の身体が言う事を聞いてくれない。想像していたのと全然違う。その中には静哉の過去のトラウマもあったが、乗り越えるつもりでいたそれすら不可能だった。
戦うということは、こういうことなんだ。そう強く痛感した。
「やっぱり口程にもないね。ここまで弱い相手は初めてだよ。まだ爆弾二つしか使ってないし、攻撃という攻撃はなかったよね?」
言葉を返すことができない。
「これじゃなんにも楽しくない。もっと期待してたのに、期待外れだったね」
眼下に倒れる静哉を一望して、だから、と言葉を紡ぐ。
「もう、殺すよ?」
彼の言葉に特段恐怖は感じなかった。
静哉は自分自身に失望してもう抵抗しなかった。
銀髪の少年が爆弾に点火。
短い導線があっという間に燃え尽きる。
そして高熱と強い衝撃が身体を襲う――