第14話
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「はぁ……」
大きく息を吐き出すとともに静哉は自分の胸に手を当てた。静哉の心臓は鼓動が耳に届くほど強く脈打っている。暁人に隙を見せないようにと強がってはみたものの、内心冷静ではいられなかった。でもどの道このままじゃいられないのだ。変わっていかなければいけない。自分の過去を乗り越え、どんな状況でも取り乱さないだけの精神力を手に入れなければ元の世界になんて戻れないのだから。
「でもこれからどうしようかな」
完全に状況が振り出しに戻ってしまった静哉に行く宛がない。完全な安全圏というのが存在しないが、せめて眠る場所ぐらいは確保したい。
しかし、静哉の周囲にあるのは似たような木ばかりで自分がどこを歩いているのか検討もつかない。街の方に向かっていればいいのだが、何せ今出てきた小屋がどこにあったのかも分からないのだ。どっちが街の方角かが把握できないために最悪街とは反対に森の奥の方へ進んでいる可能性だってある。
疑心暗鬼になりながらも歩みを止めずにいると、木々の間から道のようなものが見えた。
「これは……」
自分の目を信じることができず、滴る汗を拭って視覚を通じて脳が判断している光景が幻想などではないことを確認する。
そして、現実だと受け入れると、次第に小さな喜びへと変わっていく。
静哉の見た景色。それは、彼が何度も通ったことのある山道の道中だった。前回ここを通ってからまだ一週間も経ってない。街と、自宅とを繋ぐこの道には、嬉々たる思い出もあれば、逆に苦痛で思い出したくもないほどのものもある。それら含めて思い出の道だ。
ここに来て静哉は当たりを引いた。建物からどの方向に進めばいいか想像もつかない所から、勘で方向を決め、その先にあったのは見慣れた知っている光景。
右に下れば昨日までいた街へ。左に登れば自宅へ。
静哉は躊躇なく山を登り始めた。
そしてすぐに、隣に人の気配を感じた。
「友希!?」
一瞬警戒したが、振り向いたそこにいたのは静哉と肩を並べて歩く最愛の妹で……いや、違う。友希の姿をしてはいるが、体は半透明に透けている。あからさまに生身の人間ではない。
そしてすぐに気づく。
隣にいて、兄と一緒に歩く妹は、静哉の記憶が創り出した幻想にすぎないのだと。
恐らくこれは、静哉がこの世界、暁人の言い方を借りればラビリンスに来る直前のものだ。発声こそしないが、兄に心配そうな目を向けたり、かと思えば笑ったり、感性豊かな表情を見せている。
だが、実際は触る事はできないし、言葉を交わすこともできない。
それでも構わないと思った。
例え幻想の姿でも、友希は友希だから。
仮想の友希の姿に目をやる事はなく、ただ隣で妹の気配を感じながら静哉は歩みを進めた。その表情にはどこか幸せそうで、満足げなものを浮かべて。
これまでになく早く思えた自宅への道を登りきった静哉は、自宅の黒い屋根を見た途端に体から力が抜けていくのを感じた。同時に、すっと静かに妹の姿は消えていった。
「必ず戻るから、だから俺に力を貸してほしい」
消滅した幻体の友希に祈ると静哉は家の中に入った。
見慣れたはずの自宅は、二日間しか空けていないというのに郷愁を覚えた。それだけここ数日は現実離れした濃い出来事が多かったのだ。
いっそのこと、家の中で全てが終わるまで穏便に暮らしていけば……。
「って、前も考えたっけ?」
相も変わらぬ自分の思考に苦笑を漏らした。
でも今はそれじゃあダメだ。静哉が望むのは生き残る事じゃなくて、元の世界に戻ること、友希に会うことだ。もしあの二人と戦うことになっても絶対に戻る。
静哉は真っ先に階段を上り、ほかの部屋には見向きもせず友希の部屋に入る。
扉を開けた途端、仄かな甘い香りが鼻孔をくすぶる。
ピンクに染まった部屋は当たり前だが二日前と何ら変わらない。だからこそ、ここに入れば友希のことを感じられるような気がした。
部屋の中に進み、静哉が目に留めたものは机の上に置かれていた写真立て。それを手に取り写真を見れば、写っていたのは楽しげにはっちゃけている幼い一人の少年と少女。そして、二人の両親と思しき若い男女が幸せそうな笑顔でピースをしている。背景にある公園は、家族四人で旅行に行ったときに見つけた場所だ。
「こんなこともあったな……」
両親が生きているということはつまり、事故以前だ。多分、これが両親と共にどこかへ行った最高だった気がする。
まさか友希がこんな写真をまだ飾っているとは思ってもみなかった。当時の友希の年齢を考えると、この旅行を友希が覚えているのかも定かではない。
静哉が懐古していると、写真立ての後からから何かが落ちた。
「ん?」
新たに出てきた写真を拾い上げ、静哉は言葉を失った。
今度は一枚目の写真よりも静哉と友希の兄妹は成長している。が、そんな変化は些細なものだ。
大きく異なっているのは写っている人物。二人と並んで立つのが両親ではなく、別の男性なのだ。そして、撮影場所は茶色いレンガ造りの家の前。二人の背後には切り株の上に巻が置かれているという、どこか昔くさい光景を背景にしていた。
これは事故後に撮られたものだ。この時期のことは、静哉の記憶からは消去されているが、二人と一緒に写っているのは、事故時に兄妹を救い、住むところを与えてくれた恩人だ。この男性がいなければ今頃兄妹に命がないのは言うまでもない。
それだけであれば普通の写真だ。静哉が言葉を失うことはない。
彼が衝撃を受けたのは、メインで写っている兄妹がどう見ても常軌を逸しているからである。
兄の静哉はどこも身体が不自由なわけでもなく、外的には特に異常もない。なのに車椅子を使用しており、力なくもたれている。さらに、少年の目には生気が宿ってなく、とてつもなく暗い表情は恐怖さえも与えてしまいそうだ。
そんな兄の隣では心配そうな目を静哉に向けて伏し目がちな妹がいるという、不思議な構図になっている。
「なんでこんな写真……」
暗い写真を持っていても誰も得はしない。なのになぜ、昔の明るい写真の後ろにこんな写真を持っているのだろうか。
友希の中でもどうするかの葛藤はあったのだろう。それはいくつかの折れ目と、それを補正するために貼られたセロテープが証明していた。
静哉が自分で見ても当時の自分は異常としか思えない。友希に心配をかけていたのは知っているし、写真に写っている友希の表情こそが、当時の自分に接しているときのものなのだと予想も付く。
だからこそ、静哉は過去の自分の失態を痛感させられた。
まだ疑問は解消されないままだったが、これ以上心が抉られないうちに写真を元あった場所に戻した。
そして直後に、静哉はまた違和感に気づいた。それは、机上にあった一冊のノートだ。
一見すると何の変哲もなく、普通の光景なのだが、この部屋には他に見回しても学校で使うような教科書やノートはどこかに仕舞われていて全く見当たらない。なのに一冊だけノートが出されたままだというのは不自然すぎる。
ただ単に勉強をしていただけと言われるとそれまでではあったが、気になった静哉はノートの中を開いた。
『これからにっきをかくことにした。
きょう3人ででしゃしんをとった。お兄ちゃんはまだ立ちなおれないみたい。ちょっとこわかった。』
『いままでどうりわたしがお兄ちゃんをかんびょうする。だからお兄ちゃん、早くもとにもどって。』
『お兄ちゃんがぜんぜんごはんをたべてくれなかった。やっぱりもうだめなのかな。』
『お兄ちゃん。どうしちゃったの?
ちょっとずつひどくなってるよ。このままだったら……。』
『どうしよう。ほんとうにしんじゃうよ。やだよそんなの。お兄ちゃん。がんばって。』
『どうしよう。わたし、このままでいいのかな。もう、よくわからないよ。』
『やった!
お兄ちゃんがいつもよりたくさんごはんをたべてくれた!
やっぱりわたしのしてきたことはただしかったんだ!』
『きのうわすれてたけど、またにっきをかくことにしたよ。お兄ちゃんがいいけーこうにむかってるって、おじさんがいってた。もうちょっとでまたお兄ちゃんとはなせるのかな?
『びょーいんの先生がきて、ちょっとよくなってきたっていってたんだ。わたしもこのままがんばる。お兄ちゃんもがんばって。』
『お兄ちゃんがしゃべった!
ことばはまだあかちゃんみたいだったけどはなせたんだ。なきそうだよ。』
『やっと。やっとお兄ちゃんとはなしができた。すごくかんどうした。
さいこうのクリスマスプレゼントをありがとう。お兄ちゃん。』
「友希……」
途中まで内容を呼んだ静哉はそこでノートを閉じて胸に抱えたまま崩れ落ちた。
もうこれ以上は読んでいられない。彼にとっては重い内容だった。
文字、内容、書き方から推測するに、これが書かれたのは静哉がようやく言葉を取り戻したとき。つまり、事故から一年後程経った小学生低学年辺りのことだ。
友希については小学校入学前後にこの日記を書いたことになる。所々にある誤字や平仮名は年齢相応のものだ。
その年齢で、こんな内容の日記書いていたことに雷に打たれたような思いだった。
事故以前では自分の病弱さに苦難を強いられてきた妹が、静哉の知らないところで抱いてきた想い。兄が元の状態に戻ることを夢見て、自分のことのように一喜一憂して本気で心配してくれていたのだ。
今でも決して告げられることのない当時の友希の心情に、静哉は自分のしてきたことの情けなさを痛感させられた。
ショックを引きずり続けてきた静哉は友希のその気持ちに甘えてきたのだ。面倒を見てくれることをいいことに、あの事故を言い訳にし、静哉は自分の過去と向き合おうとはしなかった。現実を受け入れなかった結果、一年間も友希と言葉を交わすことすらできず、多大な迷惑をかけた。妹の想いすら知らないで。
ある程度はそれを自覚してきて、だからこそ恩返しをするつもりで友希と接してきた。しかし、そんなものじゃ足りなかった。静哉の思っていた以上に、友希に対して迷惑をかけ、辛い思いをさせ続けていたのだ。
「ごめん……ごめんな、友希……」
静哉の目から零れ落ちた涙が床を濡らす。突きつけられた現実があまりにショックすぎて、しばらく静哉は動くことができなかった。