第11話
夢を見ていた。
自分の視界に映るのは幼き頃の自分と、一つ下の妹だ。
ベッドの上で正気を失ったような顔で目を半開きにして横たわっている少年に、わざわざ二階にある少年の部屋まで一つ下の妹が食事を持ってきてくれている。しかし、表情どころか体一つ動かさず、妹に対する反応は示さない。
この頃は確か八歳ぐらいで、事故から一年ほどしか経ってない頃だ。本来なら一年も経てば少しずつ落ち着いてきてもおかしくはないが、この時期はまだ回復の兆しすら見えていない。幼い子供にとってはそれだけ大きく強いショックだった。
そんな光景を、いるはずのない第三者として見ていることからこれ夢だと断言できる。
しかし、どうして今さらこんな夢を見るのだろうか。紅杏に過去の話をしたが、それならこれまでに何度か話をしたときにはこんなことはなかった。
――ならどうして。
そう考えかけたものの、静哉はこの機会に自分の過去を見つめ直すことにした。
「お兄ちゃん、ご飯だよ」
「…………」
「ほら、お口あけて」
「…………」
静哉は事故からずっとこんな調子で喋らなかった。それを一年間も見続けた友希は慣れた手つきで兄の口に食事を運んでいく。
「どう? おいしい?」
「…………」
幼い静哉は口に流し込まれた液状の食事を少し噛んで飲み込む。
こうして妹に食べさせてもらっているのを客観的に見ればすごく恥ずかしい。何の罰を受けてこの光景を見ているのかと疑問に思ってしまう。
しかし、目を背けることはできない。ここで目を離すということは、自分の過去からも目を逸らすということになるから。
口の中のものを飲み込んだ幼い静哉は紅杏を見つめて固まった。それをおかわりの要求だと判断したのか、友希はスプーンに二杯目を掬って幼い静哉に食べさせる。
「おいしい? よかった! 今日はゆきも手伝ったんだ!」
嬉しそうな友希を見ると、この笑顔は今と何も変わっていない。そして、この時から友希はしっかりしていた。静哉は、友希のその優しさに甘えていた。
静哉は自分の昔の記憶を思い出しながら目の前の過去を無言で見続けた。
しかし、突然視界の端が茶色く滲み始めた。その茶色いものは次第に焦げとなって周囲から中心へと押し寄せ、完全に視界は灰と化して消えた。
目を覚ました静哉はうっすらと自分の鼻腔をくすぶる異臭に眉を寄せた。
体を動かさずに見える範囲で辺りを見回すと、ここが静哉の借りているコテージの中であることから、夢などではなく現実だということが分かる。
しかし、この鼻につく臭いはなんだろう。どこか焦げ臭いような……。
「って、焦げ!?」
慌てて我に返り、物凄い勢いで体を起こして周囲を確認するように見回してみたが、特に変わった様子はない。ただの自分の思い違いかと思って安堵してふたたびベッドにダイブしたのも束の間、今度はガソリンのような臭いが部屋に充満し始めた。直後、爆発音のような音と共に天井から炎が燃え上がった。
「うそ……だろ……」
この部屋にコンロがあるにはあるが、ガスではなく電気のため火災が起こるはずかないのだ。ということは、静哉がここで生活し始めたことを知った誰かが意図的に静哉を狙った放火と考えていいだろう。
――そんなことよりも。
今この状況をどうにかしないとまずい。窓のないこの部屋では煙が充満するのは一瞬だ。そうなる前にどうにかしないと、もう時間の経たないうちに死に至る。
静哉は自分で『死』という単語を連想した途端に心臓が強く脈打った。そして次第に鼓動が早くなり、冷静さを取り乱していく。
「そ、そうだ。早く外に出ないと……」
それがおそらく静哉に残った最後の理性だっただろう。ふらふらと立ち上がると、外へ出る扉へと歩き出した。
丁度その時。静哉行く手を塞ぐかの如くタイミングで、彼の前に強く燃え上がった炎が壁となって立ちはだかった。ふらふらだった静哉さすがにそこに突っ込んでいくわけにもいかず、倒れそうになりながらもなんとか踏みとどまる。
これでほぼ詰んだ。逃げ場はなく、火を消すにもその方法が考えられない。このまま焼かれて死ぬのが先か、煙を吸って窒息死するのが先か。どちらにせよ、この先に待ち構えているのは間違いなく死だ。
その時静哉の頭の中には、事故の記憶が蘇っていた。
鮮明に残る両親の最後の姿。このままいけば間違いなく同じ結果を辿ることになる。
静哉は燃え広がる炎の中で呆然と立ち尽くす。
「友希……友希……」
こんな時に少年の口から出てくるのは最愛の妹の名。しかしここに妹はいない。誰も助けには来てくれない。唯一希望があるとするなら紅杏か姫名のあたりだが、我を無くしている静哉にそんなことを考えることはできない。
火の波は少しずつ中央へと押し寄せてくる。そして呼吸が苦しくなり、意識が薄らいできた。もう、後は時間の問題だ。
――死にたくない……死にたくない……死にたくない……死にたくない……。
――友希……。またあの時みたいに、俺を助けてくれよ……。一人は……嫌だ。
そうこうしている間に目前まで肉薄した炎の火の粉が静哉の顔に飛び散った。
「あっ……」
その暑さで僅かに我を取り戻した。
瞬時に自分の今置かれている状況を認識して、遠のきかけた意識も取り戻すと、自分が今危機的状況であることを知った。さすがに焦燥感は消えないが、それでもどうにかする方法を考えることはできる。
消火器のようなものはないが、水道ならある。だが、ここまで燃え広がってしまえば水をかけたところでどうにもならない。
「この臭い……ガソリン……?」
なぜ今まで気づかなかったのだろうと思うほど鼻につく臭いがコテージに広がっている。こうなってしまえば水を撒くのはなおさら危険だ。
静哉の知識では、火を消すには燃えるものを無くしてやるか、酸素を無くしてやるという方法がある。
けれどその二つの方法は使えないとすぐに判断した。
このコテージが木製だから可燃物を取り除くことはできないし、ここまで大きく燃え広がった炎を覆いかぶせるものなんてない。
「どうしたら……」
気化したガソリンがすでに充満しているからいつ爆発するか分からない。早く脱出しないといけない。
一つ方法を思いついてしまった。
「気化したガソリンがすでに充満してるからいつ爆発するか分からない。でも、それをうまく利用してやれば……」
爆発によって炎が消えるかもしれない。
だが、当然成功する確率はあまりに低い。でも、何もせずに死んでいくよりはよっぽどマシだ。
――とは言っても。死ぬことが怖くない人はいないだろう。静哉だって自分で思いついておきながら行動に移すには恐怖さえ感じる。
しかし、いつの間にか静哉の動悸は治まっていた。
そのことに静哉自身は気づく素振りはない。ただ必死に自分が生き残るための方法を考えていた。
「……よし」
静哉は一か八かの賭けをする意を決した。
ゆっくりと動いて、まだ幸い無事でいる宝箱から入手したアイテムを探る。
自分でも思ったより体の動きが遅い。気付かなかっただけで相当体にガタがきているのだろう。このままだとどのみち危ない。
「あった……」
静哉が取りだしたのは何に使うかまるで分からない食品添加物。静哉の部屋で見つけた宝箱に入っていたものだ。
食品添加物と書かれた背面に貼られているラベルの名称部分に目を通し、静哉は生き残る可能性を見出した。
「炭酸カリウム……もしかしたら!」
急いで静哉はコテージに据え置かれた大きめのボウルいっぱいに水を汲んで、そこに食品添加物を混ぜた。
炭酸カリウムは液体を噴射して火を沈下する強化液消火器の主原料だ。炭酸カリウム自体は汚れ落としとしても使われており誰でも簡単に手に入れることができる。
という、いつぞやに自分が得た知識を使えば消火できるとまではいかずとも、通れるぐらいに火勢を衰えさせることぐらいはできるかもしれない。
周囲を見回して一番壁が脆くなっていそうな場所を探す。
「こっち!」
周囲を見回して一番壁が脆くなっていそうな場所を探し、静哉が決めた場所は玄関だ。玄関は火の気が一番強い分、壁も脆くなっているはずだ。そこへボウルの水をかける。
「くそっ、一回じゃダメか」
静哉は水を汲み、食品添加物を混ぜては玄関の炎にかけるという動作を繰り返して三回ほどで、ようやくその効果が現れ始めた。
繰り返し水をかけ続けた場所の炎の勢いが弱まる。そこへ静哉は走り出し、勢いそのままに玄関の扉に体当りした。
扉に体が跳ね返られる感覚はなく、静哉は扉を破って外へ転がり落ちた。
その刹那、大きな爆発音と共に、強い爆風が静哉の体を打ち付けた。
「うぐっ」
その衝撃で静哉は森の中にまで飛ばされ、背中を強く打ちつけてその場に崩れ落ちる。
「うっ……」
意識はまだある。どうやら賭けに勝ったらしい。
全身の痛みを噛み締めながら脱出したばかりのコテージを見ると、未だ勢いは衰えず轟々と燃え続けている。
「ははは……。俺の……勝ち……だ…………」
そう発して引き攣った笑みを浮かべながら仰向けに倒れ込む。
外は、明るかった。
目に映る空は木々に遮られているために範囲が狭いが、木々の隙間から朝焼けの空が見える。もう朝で間違いない。
そのことを実感するだけで、絶体絶命の危機を乗り切ったという安堵感で緊張の糸が解ける。
「たす……かった……のか?」
未だ荒い呼吸を繰り返しながら、静哉は呟いた。
自分の命を守るためにとにかく必死だった。一度発症しかけたPTSDは、そのおかげで未然に防がれている。
絶体絶命の状況を乗り切った静哉はこの時、完全に気を抜いていた。だから、火災が不自然なものであること同時に、近寄る人影に気づくことができなかったのだ。
「へぇ~。まだ生きてたんだ」
間近で聞こえた声に、少年は戦慄させられた。なぜならその声は、この世界に来てから一番よく聞いた声で、それでいて一番信頼していた声でもあったからだ。
声のした方へ視線を向けると、まずは左脚の義足に気がついた。そこから少し視線を上にやると、いつも着ていた白のワンピースに、赤髪のツインテールを黄色い羽の髪留めをした人物の姿があった。信じられないし信じたくもないが、静哉の予感は確信に変わる。
「紅杏……どうして……」
「まさかあの火の中で生き残るとは思ってもみなかったなぁ~。やっぱりさすがだよ、静哉くん」
「なんでこんなことを……」
「なんでって、そんなのあたしと静哉くんが敵同士だからに決まってるじゃん!」
いつも通りの笑みを浮かべるながら言う、紅杏の言っている意味が理解できなかった。昨日、同盟を組もうと提案したのは紅杏の方で、静哉がそれを承諾した。だから敵などではないはずだ。
なのに、彼女は何を言っているのだろうか。
ただでさえ頭が回らないほどに衰弱しているのに、追い討ちをかけるようにして紅杏の言葉が混乱させてくる。
「もしかして、本当に同盟を組んだって思ってた? あたしの言葉を全部信じ込んで? 残念だけど、そんなわけないじゃん」
これまでになかった、皮肉のこもった言い方に静哉は苛立ちを感じるのではなく、深い絶望を抱いた。
「よく考えたら分かったとおもうけどな~。だってあたしが静哉くんと同盟を組んじゃったら、あたしは争いを放棄したことにはならないじゃん。だからお宝を手に入れるためにはいずれは殺し合いをしないといけないんだよ?」
「でも……元の世界には戻りたくないって……」
「うん、そうだよ。お宝を手に入れてもラビリンスから出れるわけじゃないからね。それとこれとは別だよ」
「だったら……最初からそのつもり……だったのか?」
「うん。そうだよ? あたしははじめからこの戦いに参加してる。だから静哉くんと会ったとき、どうやって殺そうかって思ったよ。幸い、静哉くんはまだこっちに来たばかりで何かに怯えてるようだったから、これは簡単だって思ったんだ。だから、その弱みに付け込んであたしは静哉くんと仲良くなってしまおうって考えた。そしたら絶対に静哉くんはあたしを疑わないって思ったから。それは狙い通りに事は進んでくれたよ。思ったより早く仲良くなって、あたしは計画を実行に移した。静哉くんに貸したコテージ。あれは最初から燃やすつもりで、よく燃える木製の建物を選んだ。そして寝ている間にガソリンを巻いて点火しておけば静哉くんは必ず死ぬ。そう確信してね。あたしは、こんな極悪非道で腹黒いんだよ? 静哉くんが思ってるほど綺麗な存在じゃないよ」
一息に言った紅杏の自白に静哉は何も返せなかった。出会ったときから、彼は紅杏の手のひらの上で踊らされてたということだ。
彼女のことを疑わなかった静哉にも落ち度はあるが、紅杏だってそんな人には見えなかった。いや、これも紅杏の思惑の範疇なのかもしれない。
何にせよ、彼女が言う通り静哉は少女のことを信じきっていた。彼がこの世界に来た時は色々とあって弱っていたために、優しく話してくれる彼女のことをすぐに信じてしまった。その結果がこれだ。
「ただ一つ予想外だったのが、あの火の中で静哉くんが生きていたことなんだよ。ねぇ、静哉くん、どうやって生き残ったの?」
すでに紅杏に何を言っても通じるような状態ではない。
――狂ってる。
それが静哉の感じた素直な言葉だ。姿は同じでも、口調や態度がこれまでとまるで違う。紅杏が自分でも言っていたように猫を被っていたと言うならこれが本性なのだろう。
それでも――
静哉は視線を紅杏から外し、木々に遮られた隙間から見える空を仰ぐ。
脳裏に蘇るのは昨日までの紅杏との思い出。
静哉にこの世界について説明してくれたり、一緒に食事したり、散歩したり。時には肉まんをくれたり貴重な食料を分けてくれたこともあった。
それも全て、紛い物の姿だったのだろうか。
――そんなはずはない。
紅杏にすれば静哉を騙すためだけに行った芝居だとしても、少なからず静哉には彼女が本音で話し、心から素直に笑っていたように見えた。例え一部であっても、取り繕ってないありのままの紅杏だった部分もあるはずだ。
今唯一動かすことのできる顔を動かして紅杏を睨みつけ、現状の最大限の力を体に込めて叫ぶ。
「紅杏は……極悪非道で腹黒なんかじゃない!」
「うん?」
「もし紅杏の言ったとおり、俺を騙すための、演技だったと、しても、本気で楽しんで、笑ってたはずだ。それに……義足のことを、教えて、くれたのは、君の、優しさだろ?」
一瞬だが、紅杏の返しに間が空いた。彼女の目には戸惑いが浮かび、動揺が走った、ように静哉は感じた。
だがすぐに紅杏は普段の表情に戻る。
「そんなこと、あたし以外に分かるはずないよ。あれは演技だし、静哉くんが騙されてるだけなんだから」
「本当に、そうなのか? 出会ってすぐに色々と、教えてくれたり、散歩に誘ってくれたりしたのは、君の、善意じゃ、ないのか?」
またしても紅杏が言葉に詰まった。
今度は言い返してくるような素振りを見せず、しばらく押し黙る。
静哉は手応えを感じていた。紅杏に向けて言った言葉は半ば本気だが、残りの半分は自信すらなく、ただカマをかけようと言ってみたのだが、この反応からするとどうやら図星らしい。
「だから、今度こそ俺に、協力して、ほしい」
これでどうだと言わんばかりに静哉は紅杏に自分の思いを伝えた。
後は彼女の答えしだいだ。
「あたしだって……」
この数日で聞いたことのないほど低く落とした声に危うく聞き落としそうになる。
「あたしだってそれができるならとっくにしてるよ! それができなかったから……あたしはこうして一人に残ろうとしてるの! あたしだって、もう試せることは全部したもん!」
静哉は唇を噛み締めた。
きっと今の言葉が紅杏の本音なのだろう。表情と言い、口調と言い、今日始めて見せたいつもの彼女の姿が、静哉の言葉が届いた証拠だ。ただ、その内容は少々重いものがあった。
紅杏は元の世界に戻りたくないのか、と、静哉が問いかけた時、彼女の返答は命を落とすリスクが高いなら帰りたくない、というものだった。この会話をしたのが確か、紅杏と出会った初日だったはずだ。この時にはすでに静哉を騙そうと企てていたのかもしれないが、きっと本心は彼女だって戻りたいに違いない。
だから静哉のしようとしていたことを先に考え、すでに行動していた。その結果、平和的に解決する方法は見当たらなかったらしい。
それでも、諦めるつもりなどさらさらない。
寝ている間に少し回復した力を使って静哉は起き上がる。とは言え、まだそれが限界で、それ以上の動作はできそうにない。それに、まだ思考が停止したままだったりする。紅杏と言い合っているのは湧き出る感情に身を任せているからだ。
「だとしても、俺は諦めない。ここに突然連れてこられたんだから絶対に何かあるはずだ。だから今度こそ一緒に協力しないか?」
「うん。あたしもそうしたい。だってそれが一番なんだもん」
「それじゃあ……」
「でもね?」
喜び、握手を求めようとした静哉を紅杏が遮る。彼女の声のトーンはまた普段よりも低いものとなり、それだけで怯んでしまい差し出しかけた手を下ろす。
「そんなのは理想郷に過ぎないんだよ。もしあたしたちが元の世界に戻る平和的な手段を探そうとしても、周りの《《敵》》はそれを見逃してくれないじゃん。あたし、死にたくない。だからさ……」
紅杏から放たれた次の一言に戦慄を通り越して恐怖を覚えた。
「静哉くん、あたしのために死んでよ?」
見たことのない紅杏の不敵な笑みに静哉は瞠目した。その大きく開かれた双眸には恐怖が宿った。
そして、収まったはずのPTSDが発症し始める。
「あっ……あっ……」
体が小刻みに震えだし、言葉すらうまく発生できなくなる。これほどの強い症状は、この世界に来たときに露市に殺されそうになったとき以来、二度目だ。
恐怖で次第に何も考えられなくなっていき、全身の痛みすら感じなくなっていく。
――だめだ。今意識を失えば、確実に、殺される……。
最後に自分の理性で感じたことを思いながら静哉の両瞼が落ちていく。
視界のなくなった彼が最後に聞いたのは甲高い金属音だった。
 




