そして明日はトーストに、イチゴのジャムを付ける
「ねえ、昨日はどこまで飛んでいったの?」
放課後の教室。私は自分の椅子に、まゆは私の前の人の椅子に座っていた。私はまゆの肩に掛かる黒い髪、凛としたと表現すれば一言だが、何処か遠くを見るような気配も持つ黒い瞳。それら二つが丁度よく整い、知的にも、儚くも、浮世離れした少女のようにも見える顔を黙って眺めていた。無言の霧が私達の間に充分満ちた後、まゆは形の良い唇を開いてそう尋ねてきた。私が首を傾げるとまゆは長い髪を揺らし、鴉みたいな黒い瞳でじっと見つめてくる。
私はその仕草で理解した。彼女からしてみればこの問いかけに答えが欲しいわけではない。毎日毎日汗を流して学校へと通い、友達に「学校やめたい」と言う学徒のように、事あるごとに「疲れた」とぼやきながら練習に励むグラウンドの皆さんのように、自分の大したことない気持ち。それを爆撃の如く放出したに過ぎないのだ。
だがしかし、爆弾を落とされた方は堪ったものではない。この絨毯爆撃、まゆは大した返答を望んでいないだろう。しかし、返答によっては失望を、最悪の場合絶縁という悲惨な焼死体に私は変貌しかねない。会話のキャッチボールというのはそれくらい凄惨極まりない、ニトログリセリンをミキサーにかけるようなものなのだ。私はまゆとこれからも生クリームのような滑らかで甘い関係を維持したい。爆弾処理班私はこの血も涙も夢も結婚予定の婚約者も帰りを待っている娘もいない戦場を全力で駆け抜ける必要が生まれたのである。
「ねえ、昨日はどこまで飛んでいったの?」
私はまゆの言葉を頭の中で反復する。彼女は間違いなくそう言った。私の昨日は至って普通の一日だった。朝、目を擦りながら電車に乗り、遅刻をせずに高校へ到着。授業を一通り受けた後、放課後少し友達と喋り、朝来た道を真っ直ぐ帰宅。寄り道なんてしていない。
家では「どこからでも切れます」と書かれた切り口のような俳優が奈良で散歩する番組を、姉と二人で無味乾燥とした大地を歩く旅人のような気持ちで眺めた。大したことのない日常。物語では語る必要のない、線路に飛び出すわけでも、学校の屋上から落ちるわけでも、蠟の翼で飛んだわけでもない、つまらない日常だった。
ふと、まゆは昨日の学校の授業について聞きたくなったのではないかと思ったが、昨日彼女は「世界で最も美しいものって何かしら?」と前の席の新井さんに授業が終わる度に問いかけていたことを思い出し、それは違うと確信した。別にまゆは昨日学校を休んでいたわけではない。放課後、最近流行りの曲について「まるでウェーバーとミルの悪い所を纏めたみたい」というまゆの感想に新井さんと二人で「まあ、そういう意見もあるよね」と当たり障りのない意見で完結したことも脳内に残っている。私はまゆをちょっと変わったお嬢様のように見ているが、最近の曲も知っているミーハーな部分もあるのだと、何故か粉塵爆発を始めて目にした子供のように感心してしまった。
先程私は「つまらない日常」と形容したが、こうして俯瞰し、空に浮かぶ星のように追想すると、意外と面白いことがあったかのように思える。これは新発見。今すぐ飛び跳ねて目の前にいるまゆや、職員室に残っている先生諸君に報告したくなってきたが、そんなことすれば空から降ってきた爆弾に直撃してしまう。質問されたのに無視して全く別の話をする人間など論外だ。まゆに不機嫌な顔をされ、明日から「あら、焼死体さんごきげんよう。それとも頭蓋骨さんの方が良かった?」なんて言われかねない。問いかけは言った本人が気付かない程重要な意味を持っている可能性があるのだ。私はまだこんがり炭肉になりたくも、頭だけになって盃代わりになりたくもない。
ここで私は「答えが欲しいわけではない」と言った浅慮で愚かな私の早計な判断に気が付いた。「疲れた」「学校やめたい」その軽く放たれた言葉の中に、深い悩みが沈殿している可能性があるのだ。つまりまゆのこの問いかけには炭がダイヤモンドと同じ成分で出来ているように、頭蓋骨は二九という素数で構成されるように、隠された神秘が潜んでいる可能性が存在するのだ。……もしかしたら水晶髑髏のように神秘もへったくれもないかもしれないが。
ここに気が付いてしまった以上、私は無知という楽園には帰れなくなってしまった。爆弾の嵐を気付かずに歩けたらどれだけ良かっただろう。ただの生クリームだと思ってミキサーにかけられたらどれだけ幸せだろう。「知恵を得てしまう」それに対する罰は余りにも大きい。
ああ、なんと嘆かわしい。私は人並みの好奇心を持っている人間だ。けれども会話の途中にふと目を離すと、突然黒板を消している新井さんのスカートを捲り始めることがあるまゆ程、危険を顧みない子猫のような可愛らしい知的好奇心と臆せず進む勇気を持っている訳では無い。
いや、ここで臆しては駄目。ポジティブに考えよう。「私は知恵を手に入れられたのだ」楽園を失ったが武器は手に入った。まゆは私に何かを伝えようとしているのかもしれない。それに気付けた。まゆの純粋無垢な問いかけに無遠慮な言葉を返し、まゆから言葉の大爆撃に曝され、炭となった私をダイヤモンドにして、「穢いあなたでもこんなに綺麗になれたわね、どんな気持ち?」と心を徹底的に抉られる危険性に気付けたのだ。これは前進に違いない。
それでも私が窮地に陥っていることに変わりない。……少し整理しよう。まゆの発言を思い出す。
「昨日はどこまで飛んでいったの?」――「昨日」「どこまで」「飛んでいく」文章を細切れにし、一つ一つを潰していく。「昨日」――私の思いつく限りの昨日の記憶は引き出した。しかしヒントになりそうなものは何処にもない。「どこまで」――距離/私は遠出どころか寄り道もしていない。「飛んでいく」――意味不明/飛行機になんて人生一度も乗っていない。蝋の翼も、ましてや天使の翼なんて生えていない。地面とはずっとくっつきぱなしの私の足。完全なる二足歩行の陸上生物。しばらく宇宙旅行とは縁は無さそうだし、地上を離れるのは二一グラムまでスリムになった時くらいだろう。
……その時、私は衝撃を感じた、爆弾の直撃とは違う、空の雲が全て生クリームと化し、ダイヤモンドの雨が降って来た日のような新鮮と衝撃と興奮と恐怖と狂乱と慈悲がミックスされたような歓喜。まゆの質問が分かったのだ。「飛んでいく」これは別に肉体の事を言っているわけではない。人間は俯瞰することが出来る。心を、魂を――二一グラムを切り離して、己の姿すらも、つい先ほど気付いたことではないか!
そこで私の魂はどこまで飛んでいったのか考え出す。学校、近所――いや、そんな近場ではない。私は確かに旅行があまり好きではないが、私の魂だけはもっと遠くへ行った筈だ。ならば……夢だろうか。私は昨日の夢を思い出せない。今この時まで気にもしなかった。なんでも寝ていると想い人の元まで魂が飛んで行ってしまうことがあるらしい。いや、流石にこれは不確定すぎる。そんな曖昧な情報をまゆに教えてしまったら怒られてしまう。そんな事ではユング先生に顔向けできない。となると……
そう思った瞬間、頭に思い浮かんだ一人の男の顔。それによって私は解を得た。私の魂は昨日どこまで飛んでいったのか。私はここで答えを見つけたのだ。
質問の正体見たり地味俳優。あなたの「どこからでも切れます」といった顔。姉は好きではないと夕食の度に主張してきてうんざりだが、今日この一瞬位は感謝しようと思った。
問題はこの答えをまゆが受け入れてくれるかだ。人間というのは答えを当てすぎると怒られてしまう。相手の服が流行周回遅れでも褒めなければならない時があるように、完全解が正しいとは限らない。まゆは私が間違えて、まゆの使ったスプーンでカレーを食べても「あら、私のスプーンで食べたけど、何か変わるの?」と可愛らしく首を傾げる程度で、人に嫌悪を抱くという言葉からほど遠い存在だが、油断は禁物。私の得たこの解を聞いた時、拍子抜けしてしまうかもしれない。がっかりしてしまうかもしれない。時には「ワルキューレの騎行」を高らかに鳴らし、過酸化アセトンをつい投げてきてしまうかもしれない。それは困る。
口を開こうとした瞬間、唇が震える。雪の中に埋まってしまっているかのように体中に鳥肌が立つ。まゆに嫌われたくはない。
私は彼女と……ずっと友達でいたいのだ。
「き、昨日は……」
「昨日は?」
まゆの質問から約三秒後。体感時間約五時間の末に紡ぎだされた私の震え声に、まゆの形の良い、時々指でなぞってみたくなってしまう唇が動く。教室の窓から夏の風が吹き、まゆの黒い髪がふわりと揺れる。私の目にはそれがカメラの連射で撮ったようにゆっくりと動き、その全てが網膜に焼き付いていく。
「昨日は、鹿」
「え?」
私の言葉にまゆはポカンと口を開け、鴉みたいな黒い目も大きく見開いた。風は止み、私との間に沈黙が薄い霧の如く溢れた。言ってしまった。私が見つけた答えを。この答えはまゆにとっての解では無かったに違いない。まゆは満足げに頷くわけでも、微笑みもしない。
私は外したのだ……まあ、あの答えでは当たり前か。そもそも何が俯瞰だ。何が二一グラムだ。幾ら焦っていたとしても飛躍にも程がある。
「……ぷっ」
私が心を異端審問にかけ、十字架に火をつけようとしていた時、まゆの口から声が漏れた。
気付くと彼女は笑っていた。大笑いするわけではなく、思わず漏れたような小さな笑い声。
「……そう、じゃあ、今日は私ね」
まゆはそう言うと機嫌よく立ち上がり、バレエの如く軽やかにスキップをして教室から出ていく。
私は慌てて椅子から立ち上がり、彼女の後を追う……「今日は私」どういう意味だろうか。よく分からないが、私は解を引き当てたのだろうか……いや、あれはまゆにとっても想定外の解だったに違いない。
そもそも質問が、ダイヤモンドだったのか、水晶髑髏だったのか、結局私には分からず仕舞いだ。それでも、彼女は喜んでいるので良しとしよう。
「今日は何処かに寄り道しましょ。私は一昨日出来た駅前のカフェが良いわ」
そう言いながらまゆは私に振り向く。彼女の髪とスカートは大きく舞い上がり、私は思わず風の中で踊るまゆの姿を幻視する。私が呆然としながら首を縦に振ると、まゆは満足そうに微笑んだ。
窓の外はまだ日が高く、何の雨も降って来る気配は無さそうだ。
友達との会話の時、ちょっと返答に困ったことがあると思います。これは、それをとっても大げさにした「一瞬の物語」です。




