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彼方よりの。  作者: 秋生侑珂
第一章
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遥鳴堂旅館

本編の第一章が始まります。

 牧野まきの紗慧さえ遥鳴堂ようめいどう旅館りょかんで保護される事が決まり、同時に仲居のアルバイトをする事を決めてから二週間が経とうとしていた。

 最初の一週間は、紗慧の恋人であった柏崎かしわざきのぼるの捜索に彼女も行っており、更に、通っていた大学に休学届けの手続きをしに一旦都内に戻るなどしていた。

 都内に戻る際は、あきらが旅館の車を借りて行き帰りの道中を運転してくれた。

 真実を彼の両親にも告げられないまま、その両親と警察官達との捜索は紗慧にとって辛いものだった。結局一週間で打ち切られる事になり、一区切りがつけられる事になった。

 その後で、旅館の仲居のアルバイトが始まり、当初は、旅館の人達も皆、彼女の事を心配していたが、彼女にとってはアルバイトの仕事をしている方が気が紛れて助かる思いだった。


 人知れずあやかしなどと呼ばれる怪物を倒して生計を立てている高砂たかさごあきらは、元々自宅を持たず、遥鳴堂旅館の一室を間借りして拠点にしているらしかった。

 この遥鳴堂旅館の建っている土地は特殊な土地であるらしく、妖が入ってくる事が出来ない為、妖に目をを付けられてしまったと思われる紗慧が匿われる事になった。

 匿われてはいても、この二週間は何事も起きなかった。それはこの土地のお陰と知りつつも、紗慧にとっては、昇の事を引きずりながらも、社会勉強の一環でアルバイトをしている気分がどうしても強くなってしまう。

 仲居の仕事は、先輩である仲居達が代わる代わる丁寧に教えてくれ、まだ見習い期間ながら、少しずつ仕事の要領が分かってきたところだった。

 遥鳴堂旅館は、N県内でもかなりの田舎の山の麓にあり、天然温泉が湧いている事からも秘境温泉として認知されており、泊まりの客より町からやってくる日帰り入浴客の方が多かった。

 紗慧が仲居見習いとして客に接するようになると、客の第一声は、「とうとう大将が嫁を貰う気になったのか」というものだった。

 聞けば、旅館の主人である中原なかはら泰倫やすのりは、現在三十六歳なのだが結婚する気配がなく、常連客からも旅館の跡継ぎを心配されている状態らしかった。故に新顔である紗慧は、常連客の眼には『女将修行を始めた泰倫の婚約者』と映った様だった。

 客は紗慧の事情を知らないのは当然で、仕方のない事なのだが、その話題になる度に他の仲居も気を遣っており、紗慧は有り難くも申し訳ない気持ちであった。


 旅館には、宿泊客はオンシーズンでなければ、滅多にないと云って良い状態らしいのだが、そんな中で、誠を除いて一人長期滞在している客がいた。

 宮内みやうち孝明たかあきという名の、泰倫より僅かに歳上の男で、泰倫とは親友と呼べる仲なのだと泰倫本人が言った。

 彼は、時の小説家がそうした様に、自宅の代わりの常宿に暮らしながら文筆業を営んでいるらしかった。

 その事を知った紗慧は、今現在その様な活動の仕方をする小説家がいるのだと驚いた。

 紗慧が、アルバイトとして雇われた事を挨拶に行くと、彼は、「ふむ」と思案した後で、

「もしかして、高砂君絡みかい?」

と、静かに言った。

 紗慧に付いていた朋花ともかは、彼女に「この人は大丈夫」と、小声で教えた。ならばと、紗慧は彼の言葉に頷き答えた。

「はい。そうなんです。ですが、こちらでのアルバイトを疎かにするつもりはありませんので、宮内様も、私の事は仲居見習いとしてお使いください」

 孝明は、紗慧の言葉を聞くと、喉の奥を鳴らす様な笑い方で笑い、頷いた。

「爺様達が、『新しい仲居は泰倫の嫁だ』と勘違いして騒いだのも頷けるよ。若いのに随分しっかりしている。いっそ本当に嫁になって貰えたら、友人としては安心なくらいだ」

 孝明の言葉に、紗慧は一瞬返す言葉を失い、横で朋花が慌ててフォローしようとした。が、先に孝明の方から、すまなそうに前言を撤回した。

「いや、すまない。調子に乗ってしまったな。人には事情ってものがあるものな。今の言葉は忘れてくれ。――随分しっかりしている、というのはそのままで」

 昇の事があって『嫁』という言葉にはどうしても引っ掛かりを感じてしまう紗慧だが、孝明の謝罪は表面的なものではなく、そうした彼女の真の胸の内をまるで読んだ様な言葉として彼女に響いた。

 泰倫は言動も顔立ちも柔らかいが、孝明は対照的にやや骨張った渋さを感じさせる面差しと声色だ。だが、心根は泰倫と同じく、繊細な優しさを持ち合わせている人間の様だと、紗慧は感じたのだった。


 孝明の部屋を辞すると、朋花が紗慧に孝明のペンネームを、『城之内じょうのうち孝有こう』と言うのだと教えた。

 紗慧は、彼が自分からペンネームを名乗らないのは知られたくないからなのだと思ったが、朋花曰く、『恥ずかしいから』なのではないかという事だった。実際、旅館の従業員の殆どが彼のペンネームを知っているようだった。その上で『宮内孝明という一人のにんげん』として接しているのだ。

 紗慧は、こうした旅館の従業員達の細やかな気遣いや気性を、とても快く感じていた。

「実は美咲みさきさん、元から宮内さん――城之内孝有先生のファンなの」

 美咲さん、とは、同じ仲居のはら美咲みさきの事だ。二十三歳である朋花の四つ歳上だ。

「そうなんですか。それじゃあ、嬉しいでしょうね? 直接お話し出来る事も、この旅館でお仕事されている事も」

 紗慧が美咲を思い浮かべて言うと、朋花も頷く。

「多分ね。でも、美咲さんシャイだから。

サインは貰ってたみたいだけど、邪魔にならないようにって、あんまり話し掛けたりはしないみたい。まあ、仲居としては正しいけど」

 遥鳴堂旅館の仲居は元々は六人いる。二十代から四十代の間の女達だが、全員の関係は良好だった。

 そして板前が、見習い一人を合わせて六人おり、こちらも問題なく回っているようだ。

 庭木の手入れなどは、町から職人を呼ぶらしいが、基本的には旅館の管理は主人である泰倫と彼らでやっている。

 紗慧の眼には、皆世話好きの良い人ばかりに映る。

 彼女が見舞われた数日前の惨事についても、興味本意で何かを言ったり訊いたりせず、時々一人になる時間を作ってくれる。

 紗慧は、昇を亡くしてからまだ一度もきちんと泣けていない。ショックと悲しみが深過ぎて、心も身体も追い付かないのだ。

 そんな紗慧を、皆心から心配しているのが、彼女にも感じられた。

 本来は大学生ではあるものの、本当に就職するなら良い職場だと、紗慧は思った。


 こうして遥鳴堂旅館で暮らし始めて二週間が経過した。

 ちょうど三週間目に入った日曜日、旅館の駐車場に黒い四駆が停まった。

 リネンの洗濯を終えたばかりだった紗慧は、廊下の窓から見慣れぬ車を見つけ、客が来たのだと思い玄関まで急いだ。

 玄関ではすでに、仲居の中でリーダー的存在の佐藤さとう真奈美まなみが二人の客を出迎えていた。

「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」

 真奈美は丁寧に腰から折ってお辞儀し、落ち着いた調子で挨拶した。

 後から来た紗慧と朋花も、同様に挨拶する。

 二人の客は男女一組だったが、恋人同士には見えなかった。

 男の方は、平均より長身で、髪の色は茶色に近かったが染めた色には見えない。体型は細く見えるが、よく見ると鍛えられたアスリートの様な体格だった。

 女の方も、まるでスポーツ選手かジムのインストラクター染みたしっかりとした身体付きで、さらっとしたショートカットヘアがよく似合っている。

 紗慧は、その二人組を見た瞬間、胸の奥の方が、どくん、と大きく脈打つのを感じた。そして、その感覚には覚えがある。初めて妖を見た時はもっと嫌な感覚だったが、その時と確かに似ている感覚だ。誠との初対面時もそうだった事を思い出す。

 紗慧が、その感覚にそわそわしないよう意識していると、女の方が口を開いた。

「すみません、中原さんはいらっしゃいますか?」

 すると、真奈美が「大将にご用事ですか?」と、尋ねる。

「ええ。すみませんね。お客じゃなくて」

 彼女は涼しげな声でさらりと言う。その語調から、嫌味には聞こえなかった。

「いえ、恐れ入ります。では、応接室へどうぞ」

 真奈美の案内を受けて、二人は応接室へ向かっていく。

「私、大将呼んできますね」

 朋花は真奈美にそう告げると、泰倫がいるであろう離れに向かった。

 お茶を用意する為に、紗慧も動こうとした時、男の方が紗慧をじっと見ていた事に気付いた。眼が合うと、男はにこっと笑い、そのまま真奈美に連れられていった。

 紗慧は、先の感覚の正体は分からないものの、何かが起こりそうだと感じ、胸をざわつかせていた。

読んでいただきまして、ありがとうございます。

ここから少しずつ物語も動いていく予定ですので、よろしければこの先もお付き合いください。

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