序・六
引き続きプロローグです。
紗慧が誠に連れられて遥鳴堂旅館に来て一夜が明けた。
朝食を済ますと、誠が紗慧の部屋を訪ねてきた。
紗慧は、旅館の仲居である朋花の私服を借り、浴衣から着替えた後だった。
「話がある」
誠は無愛想にそう言って食卓の前に座った。
「はい……。昨日の事、ですよね?」
紗慧は彼の対面側に座り、居住まいを正した。
「……っ――」
誠が話し出そうと息を吸った時、部屋の入り口の扉がノックされた。
「お茶をお持ちしました」
扉の向こうから朋花の明るい声がし、紗慧が「どうぞ」と声を掛けるとすぐに扉が開いた。
朋花は二人分の湯飲み茶碗と急須と小さな茶菓子の籠を載せた盆を持って入って来た。
「ありがとうございます。二ノ宮さん」
「いえいえ。あら? どうしました? 誠さん」
いつもに増して不機嫌そうな誠に気付いた朋花は、お茶の用意をしながら首を傾げた。
「何でもねぇよ」
彼はそう答えたが、明かに間が悪かった事が原因である。紗慧も何も言わなかったが、朋花は特に気にする様子もなくてきぱきと仕事をこなした。
「お茶のおかわりは、そこの電気ポットのお湯をお使いくださいね」
そして朋花は、間を置かずに続ける。
「それから、後から大将も来ると言ってましたよ」
「結局来るのかよ」
小さく毒づく誠を気にせず、朋花は二人分のお茶を淹れ終えると、「それでは、失礼しますね」と、立ち上がって退室していった。
改めて二人になると、誠はやや気まずそうに口を開いた。
「まず、あの化け物の事だが、あれが『妖』だの『妖魔』だの言われてるってのは言ったよな?」
「はい。……妖怪と認識されているモノっていうのも入るんですか?」
紗慧は、民宿での話を思い出して訊く。
「実在するヤツはな」
誠は否定せず頷いた。そして続ける。
「奴らは、『こっち』の住人じゃない」
「『こっち』?」
「『現世』って言い方すりゃ、何となく解るか?」
紗慧は軽く頷いて返す。
「『現実の世界』って事ですよね?」
誠も頷いた。
「『現世』の裏には『常世』って呼ばれる半分異世界みたいな世界がある。裏というより、折り畳まれてるイメージらしいがな」
「『現世』と『常世』……」
紗慧が呟くと、誠は湯飲み茶碗を手に取って一口啜ってから再び口を開く。
「二つの世界は繋がってる。人間には往き来する事は出来ないが、奴らは境を越えて来る事が出来る。それで、こっちへ来ると……人を襲う」
誠は、昨日の事を思い出した様に、紗慧から眼を逸らした。
紗慧は俯いたが、耳を塞いだ訳ではない。
「……妖怪の話は、創作だと思ってましたけど、実在したんですね……」
相槌代わりに紗慧が言うと、誠は何故か眉根を寄せ、首を擦りながら応える。
「その辺は俺もよくは知らないが、創作上のそれは、実在する妖とはまた違って、人間が『常世』のイメージを無意識に感じ取って創った話、とか何とか……」
最後は言葉を濁したが、紗慧にも彼が言わんとしている事は何となく分かった。
「ああ、それでだな。普通の人間には奴らを倒すどころか闘う事も出来ない。奴らには、人間からの物理的な攻撃が出来ない様だ。接触も向こうからの一方的なものになる事が多い」
誠の言葉に、紗慧は無言のまま頷いた。
「こちらから奴らに攻撃を加える唯一と言って良い方法が、人が奴らの側に近い存在になる事だ」
紗慧は、昨日の誠を思い出していた。
一目でそれが普通の人間ではないと感じさせる姿。だが紗慧はあの時、誠を化け物だとは思わなかった。見た目は違っていても、確かに人間だと感じさせる何かが、彼にはあった。
誠は紗慧を見つつ、眼を合わせないまま続けた。
「人間の本能の奥底には、異形が居る。その人間の本質が『かたち』を持った姿だ。それは奴らに『近い』状態だ。……詳しい理屈は俺もよく知らない。だが、奴らに近づく事が、奴らに対する対抗手段になる」
誠は再び湯飲みに手を伸ばす。紗慧も、頭で話を整理しながらお茶を飲んだ。
「退治屋って言うのは大昔から存在していて、その『奴らに近づく力』で妖と闘ってきた。その力って言うのが、昨日の俺の姿だ」
紗慧は誠を見つめながら問う。
「変身……って言っていいんですか?」
誠はちらとだけ紗慧の眼を見、すぐに眼を逸らして答えた。
「あの姿の事は、『闘身』と呼ばれている。自分の本能の奥底に存在する異形に、自分自身が『なる』んだ。その素養を持っている人間にしか出来ないけどな。『闘身』がどんな姿になるのかは、その人間による」
「そうなんですか……」
紗慧は少し俯いてお茶を飲んだ。
「それで、あんたの話だ」
急に自分の話だと言われ、紗慧は、「えっ」と声を上げて顔を上げた。
「あんたが奴らに眼を付けられたのには訳がある」
誠は、今までと変わらないトーンで告げた。
「退治屋が『闘身』となって闘うにはリスクがある。向こう側に近付きすぎて『戻ってこれなくなる』事だ」
「戻ってこれなくなる?」
誠は頷く。
「心身共に元に戻れなくなるんだ。
『闘身化』すると、『闘身』を形成する精神的性質に合わせて人格も変化する事が多い。どの程度変化するかは、個人差がある様だが。
心身が異形化したまま戻れなくなると、もう完全に『向こう側』――妖と化する」
「そんな……」
「そのリスクは退治屋全員が抱えているものだが、その、『戻ってこれなくなる』リスクを軽減させられる能力を持った人間が稀に存在する」
紗慧は黙って彼に続きを促す。
「結論から言うと、あんたはその能力を持った人間だ。まだ完全に能力に目覚めていないみたいだけどな」
「わ、私が?」
驚きながらも紗慧は、泥岩の巨人が、『他のニンゲンと違うチカラを持ったヤツの匂いがする』と言っていた事を思い出していた。その事だろうか、と、誠を上目遣いに見た。
誠は紗慧の無言の問い掛けに応える様に頷いた。
「あんたは、奴らが何を話しているのか、その言葉を聞き取れていただろう? 能力を持たない人間には、奴らの言葉は言葉として聞き取れない」
「そうだったんですか……」
まだ驚きながらも紗慧が頷くと、誠はお茶を一口飲んで言った。
「妖はその特別な能力を持っている人間を食うと、より強い力を得る事が出来るらしい。だから、その人間を見つけると狙うんだ」
「そう……なんですか……」
紗慧がショックを受けた様に口を噤むと、数瞬誠も黙った。
「退治屋は、その能力を持った人間を『調整師』とか『調律師』と読んでいる。闘う力は持っていないから、見つかれば退治屋が保護する事になっている」
誠は淡々と続ける。
「この旅館が建っている場所は特殊な土地で、土地自体にまた特別な『力』が宿っている。その『力』のお陰で奴らはこの土地に入ってくる事が出来ない。念の為に『結界』も張ってあるんだけどな」
「それで……――私を保護する為にここへ連れてきてくれたんですね。休学するように言ったのも、その為なんですね」
頷きながら、紗慧は言った。そして、少々不安げに、
「という事は、昨日高砂さんが……妖を倒してくれてもまだ安全じゃないという事なんですか?」
と、訊いた。
誠は俯く様に頷いた。
「昨日の連中は、あんたを、自分達よりも上位の奴の処に連れていこうとしていた様に見えた。しばらくはここで身を隠していた方が良い」
「そういえば、『あの方に献上する』とか言っていた気がします」
「ああ、やっぱりか。ガーゴイル――最後に倒した奴も最初の様子からそんな感じの事を匂わせていた」
紗慧は湯飲み茶碗を両手で包む様に持って呟いた。
「休学か……。仕方ないですよね……。親には、昇さんの事で、気持ちを整理したいと話す事にします」
誠は黙って頷いた。
「――お茶、おかわりしますか?」
ふと、二人の茶碗が空になっていた事を気にして、紗慧が尋ねると、誠は「どっちでも」と、ぶっきらぼうに返事を寄越した。
紗慧が急須に二人分のお湯を注いで蒸らす間、二人共無言だった。
紗慧は頭の中で今後の事を考えていたが、彼女から見た誠は、何を考えているのかは分からなかった。
「……昨日の事を、事故として報道したり、警察の方の処置とかもあると思うんですけど……。退治屋さんは、秘密組織みたいな感じなんですか?」
お茶を淹れると、内心で、「それこそ都市伝説だな」と思いながら、紗慧は訊いた。
「ある程度の組織化はしてるみたいだが、漫画やなんかみたいな秘密結社染みた組織にはなってない。退治屋も、政治家、警察側も表沙汰にしたくないのは同じらしい。
俺が昨日の現場を見つけて連絡した相手も、そういう状況でいつも連絡する相手ってだけだ。そういう形で回るようになってる」
二煎目のお湯に口を付けて、誠は答えた。
「何だか掴み所がないですね」
紗慧が小さく言うと、誠は頭を振って、
「俺は特に向こうとは関わりが薄い」
と、面倒そうな表情で応える。
少しの間、二人は沈黙した。
不意に、紗慧は、先の説明で覚えた違和感を思い出し、それを口にした。
「あの、一番最初に私を助けてくれた時、高砂さん、普通の姿でしたよね?」
すると、誠は頭を掻きながら顔をしかめ、すぐには答えなかった。
「あ、あの? 訊いちゃいけませんでしたか……?」
不安になった紗慧は、肩をすぼめて恐る恐る尋ねる。
ややあって、誠は口を開いた。
「俺は純粋な人間じゃなくて、妖と人間のハーフなんだよ。だから素の状態のまま能力が使える」
「ハーフ、ですか……」
紗慧は、驚きはしたものの、どこから見ても人間にしか見えない誠を否定するつもりも当然なく、だが、他に何を言って良いか分からずそう呟いた。
誠は居心地の悪そうな表情でお茶を啜り、やはり紗慧と視線を合わそうとしない。
「……あの、訊いて欲しくない事を訊くつもりはありませんから」
紗慧はそれだけ言ったが、誠は大して興味が無さそうに顔を背けただけだった。
紗慧は、内心では、今しがた説明されたばかりの『妖』と人間のハーフというのが成立するという事に、疑問はあるものの、そこはプライベートな問題である。それを土足で踏み入って知ろうというつもりも全くなかった。
と、そこで、部屋の扉がノックされた。
「中原です」
その声に、紗慧は「どうぞ」と言いつつ扉を開けようと腰を浮かせた。
泰倫は、部屋に入ってくると、立ち上がりかけていた紗慧に、
「あ、どうぞそのままで」
と、言って手振りでも座るよう言い、テーブルまできた。
「お話は一段落しましたか?」
泰倫が座りながら訊くと、誠はやはり無愛想に、
「大体な」
と、頷いた。
「あの、しばらくこちらのお世話になる事になりましたが、改めて、よろしくお願いします」
紗慧が泰倫にも頭を下げると、彼はにこやかに頭を下げ返した。
「こちらこそ、よろしくお願いします。費用については、昨日も言いました通り、ご心配には及びませんからね」
泰倫は落ち着いた声でそう応えて言う。
「あの、その費用というのも、その、退治屋さんの――組織というか、そういったところが負担してくださるんですか?」
紗慧は、誠と泰倫の双方に向かって尋ねたが、答えたのは泰倫だった。
「はい。そんなところです。退治屋の方達の組織というか、コミュニティについては、私も、私自身が必要な範囲の事しか知りませんが」
紗慧が、「そうなんですか」と、応じると、誠が不機嫌そうに割って入る。
「俺も詳しく知ってる訳じゃねぇよ」
すると、泰倫は穏やかなまま軽く誠を睨み、窘める様に言う。
「もう少し言葉遣いを何とかしたらどうかと、いつも言っているだろう。だがら、誤解されるんだよ、君は」
「ふん。誤解って何だよ。あんたには関係ないだろ」
「そう言うのを減らず口と言うんだよ」
二人のそのやり取りは、まるで歳の離れた兄弟のように、紗慧の眼には映った。同時に、ずっと他者を遠ざけるような態度ばかりとる誠にも、こうして接する人がいるのだと分かり、紗慧は、知り合ったばかりながら嬉しく思ってしまう。
「すみませんね。貴方にも随分失礼な態度を取っているんじゃありませんか?」
泰倫が心配そうに紗慧に訊くが、彼女は首を横に振り、
「そんな事ないですよ」
と、応える。誠は紗慧をちらと見たが、結局何も言わなかった。
泰倫は誠に対して呆れた顔を向けてから、紗慧に向き直り、
「お心の広い方で、私も安心しました。ですが、叱ってやって良いですからね。貴方方は同年代の様ですし」
と、にこやかに言う。
「高砂さんはおいくつなんですか?」
紗慧が訊くと、誠はぶすっとしたまま答えず、代わりに泰倫が答えた。
「二十二歳ですよ」
「あ、それじゃあ、同い歳なんですね」
彼女の言葉に、あはり泰倫が頷き、
「それなら、敬語で話さなくても構いませんよ。ねぇ、誠。呼び方も『誠』で充分ですよ」
と、すらすらと告げる。
「でも、高砂さんが嫌なら無理には……」
紗慧が控え目に言うと、あくまで堂々と泰倫が首を振る。
「いえ、大丈夫ですよ」
紗慧はそれでも誠に確認を取るように、視線を送った。
「好きにしろよ」
視線に気付いたのか、誠は投げやりに答えるが、紗慧の方は見なかった。
「分かりました。じゃあ、誠さんって呼ばせて貰いますね」
その彼女の言葉には、誠は何も答えなかった。
その態度にも、泰倫は不満な様子だったが、紗慧は、違う話題を彼に振った。
「あの、費用についてなんですが、やはり、ただお世話になるだけというのも気が引けるので、こちらでアルバイトさせていただけませんか?」
すると、泰倫は驚いた顔をし、
「気にしなくても良いんですよ。事情が事情ですし」
と、慌てて言った。
誠もまじまじと紗慧を見て、怒ったように聞こえる声音で言う。
「匿うって言ってるのに、なんでアルバイトなんだよ?」
紗慧は、真剣な表情で二人に言う。
「匿っていただくのも守っていただくのも、本当に有り難いと思っています。でも、何もせず、ただ『して貰うだけ』っていうのは、私自身辛いです。何かさせて貰えませんか?」
すると、泰倫は少し考え込み、その後で深く頷いた。
「分かりました。貴方がそう仰るならそれも良いでしょう。仲居のアルバイトでも構いませんか?」
「はい。ありがとうございます」
紗慧は微笑んで、泰典に頭を下げた。
「……変な奴」
誠が横で呟くのも構わず、泰倫は紗慧の手を取って握手する。
「真面目なお嬢さんで、私も嬉しいですよ。こちらこそありがとうございます。これから、よろしくお願いしますね」
「よろしくお願いします」
紗慧が改めて頭をさげると、泰倫は顎に手を当て、今後の事を思案し始めた。
「では他の従業員にも、その旨を話しまして、それから彼らをご紹介しますね。その後で仕事内容についてもお教えしていきましょう」
泰倫がてきぱきと段取りを決めていくと、誠は呆れ顔で、もう何も言わなかった。
「旅館の従業員の方達は、誠さんがお話ししてた様な事は皆ご存じなんですか?」
紗慧が訊くと、泰倫は頷いた。
「ええ、その上で働いて貰っています。ほぼ皆住み込みでね。まあ、妖怪はここに入ってこれない様だし、安全面でも問題ないかと思います」
「それじゃあ、私も、『住み込みの従業員』として扱ってください」
泰倫は再び頷く。
誠は、黙って聞いていたが、そこで、
「牧野の安全が保証される範囲内で、だからな」
と、釘を刺すのを忘れなかった。
「勿論」
泰倫が頷くのに合わせて紗慧も頷いて返した。
――こうして、紗慧のそれまでの日常は突然終わりを告げ、非日常と隣り合わせの未知の日常が始まるのだった。
読んでくださってありがとうございます。
長くなりましたが、これでプロローグは終わりになります。ここまでお付き合いいただいた方に感謝致します。
本編になる次の話以降も頑張りますので、よろしければ読んでいただければと思います。