翳りの兆し・五
前回からの続きになります。
前回の前書きにも書きましたが、間が開いてしまっているので、確認が必要な方は下記をご参照ください。
内容や現在の展開の把握をざっくりするのであれば、序章は一部・二部と五部・六部、続く一章の七部、今回に続く展開は二章の十九部から二十二部まで、という感じで読んでいただければ最低限の把握が出来るかと思います。
誠は遥鳴堂旅館に戻る前に、置いてきたバイクの許へ向かうつもりだった。
――先程まで闘っていた人狼の様な姿の妖を、倒せず逃がしてしまった事は大きな気掛かりではあったが、今は何も出来なかった。
人間は妖の棲む常世へ渡る事は出来ない。
そちらへ逃げ込まれてしまえば、次にこの現世に現れるのを待つ他ない。
その『次の機会』が、またこの地である保証はなく、そして、それが再び訪れるという事は、少なからず人間や土地に被害が出るという事でもある。
妖の出現とそれによる災厄を未然に防ぐ事は、退治屋であっても基本的に不可能である。人間が人間である限り常世に干渉する事が不可能だからだ。
だからこそ、現れた妖は確実に倒す事が肝要なのだ。そうやって、後手であろうが対処を続けていくのが退治屋の仕事であり、使命だった。そうしなければ、人間が安全に暮らせる場所は、いつか現世からも奪われてしまう。
妖が常世へ渡ってしまった後、誠も郁人も淡々と事後処理へと意識を移したが、二人共妖を取り逃がした事を軽んじている訳ではなかった。
寧ろ、その責任の重さを感じているからこそ、この後の事を考えるしかなく、また、自責の念に足を取られる事を嫌うのだ。
常に仕事熱心な郁人のその態度は当然のものだったが、勿論誠も同様だった。
彼は元から自分の考えや感情を表に出す事が少なく、感情的になるのは怒りが一定以上になり抑えきれなくなった時にほぼ限られていた。その分、後悔や自責の念はより内側へ向かう。
誠自身は殆ど自覚していないが、今彼は気落ちしているのに等しい心境なのであった。
――郁人と別れ、誠が足を向けた先は、妖が出現した町から山手へ向かう方向だった。
彼は町中の街道沿いにここまで来たのではなく、町周辺を囲う様に広がる山に敷かれている山道自動車道を走っていた際に常世が開く気配に気付き、車道脇にバイクを停め、そこから闘身に変じて空中を飛んで現場まで直行したのだ。故に、旅館へ帰るには一度山道へ徒歩で戻り、そこから帰路へ着かなくてはならなかった。
郁人は町全体を貫く大通りを通って現場近くまで来ている筈だが、行政への報告も残っており、病院にかかるとも言った事から、乗ってきた車で町の中心部へまず向かおうとしている様子だった。
誠は大通りは使わず、山側へ向かう為に幾つか敷かれている道を辿るつもりだ。土地勘もある為、順路は既に頭にある。
闘身になる際に窮屈になる上着を先に脱いでいた彼は、右腕に腫れの残る大きな生傷をつけたまま、しかも上半身は裸という格好だ。騒動で人気のなくなった辺りとはいえ、出来るだけ早く町中から離れたかった。
闘身にならず生身のまま飛べたらどんなに楽かと、心中でぼんやり思っていると、建物の脇の路地から人影が差した。
「――おお、誠君!」
それは孝明だった。
彼は誠が現場に到着した時点で妖に襲われており、すんでのところで誠に命を救われ、その後逃げた筈だった。
「……おっさんかよ。とっくに逃げたんだと思ってたぜ。何でまだこんなとこうろついてるんだよ?」
誠が溜め息混じりに言うと、孝明は彼の様子から、周囲に危険はないと察したのか、僅かに苦笑を浮かべながら、
「いやあ、なかなかすぐに遠くへは行けなくてね」
と、頭を掻きつつ返したが、誠から見ても言葉の通りに逃げ遅れていた様には見えなかった。
では何故、と、誠が訝しく思っていると、孝明は彼の表情に顕れた疲れと腕の傷に気付き、顔色を変えた。
「誠君……大丈夫か?」
珍しく動揺を見せながらこちらを窺う孝明に、誠は思わず舌打ちして応える。
「別に大した事ねえよ。ったく、どいつもこいつもうるせえな……」
面倒そうに顔を逸らす誠に、孝明は困った顔で頭を振った。
「い、いや……。気を悪くしたなら謝るが……そんな大きな傷――」
「放っておいてくれ」
孝明の言葉を遮って無感情に突き放す誠だったが、彼の予想に反して孝明は悲しそうに肩を落とした。
「……すまない。怪我が珍しくない仕事なのだろうし……守られている身でそれを眼にして驚くのも失礼な話だよな」
「はあ? 何言ってんだあんたは」
今度こそ孝明の言葉の意味を測りかねて、誠は眉根を寄せて首を傾げた。
孝明は何か言いたげに視線を泳がせるが、その眼は再び誠の腕に寄せられ、そして誠の顔へと戻る。
「……郁人君は? 一緒じゃないのか?」
変わらず心配そうに眉を顰めたまま尋ねる孝明に、誠は微かに溜め息を吐いて答える。
「仕事は終わった。いつまでも一緒にいる理由がない」
「そ、そうか……。彼は……彼も怪我をしたのか?」
誠は顔を顰めながら頭を乱暴に掻いた。
「……今あんたが言った通り、それが退治屋の仕事だよ。あいつだってそう柔じゃないだろうが、心配なら本人に訊いてくれ」
彼の胸中は、不愉快というより戸惑いの色が強かったが、その感情を正確に表現しようという気はなく、刺のある言葉が口をついて出た。
「……すまない」
孝明は彼の言動に腹を立てた様子はなく、眼を伏せる様にして軽く項垂れた。
誠は彼の言葉の意味を探ろうとするのは止め、彼の身体の様子をざっと見た。
先の妖が孝明を襲おうとしたのを助けた時、咄嗟に彼を突き飛ばしたが、力加減を誤らなかったかが改めて気に掛かった。
彼は、衣服が汚れているものの出血する様な怪我は見当たらず、どこかを痛めた様子も見られない。声に疲れを滲ませてはいるが、内部に異常を感じる調子ではない。
彼の『気』を見ても、激しく弱っている徴候はない。
全体的に、直後に確認した通りの状態で、あれから大きな変化があった訳でもなさそうだった。
見えない場所に痣や擦り傷が出来ていたり、後から痛みが出る場合もあるだろうが、詳しい知識を持たない誠の眼には、彼の身体に問題はなさそうに見えた。
『闘身』を解いて通常の精神状態でそれを確認した誠は、改めて彼が無事である事に安堵した。
孝明が何を思うにせよ、誠にとっては彼が無事だった事が分かればそれで充分だった。
「……ともかく、この後来る警察やらに捕まりたくないなら、あんたもこんな所いつまでもうろついてんなよ」
言いながら、誠は向かおうとしていた方向へ足を踏み出した。
「――ああ、そうだな……。彼等も仕事なのは分かるが、聴取になれば時間も取られるものな」
視界の端で苦笑する孝明を見、誠は逡巡しながらも小さく告げる。
「……あんたは後からでも怪我や痛む場所が見つかったら病院に行けよ。どう見ても、頑丈そうには見えないからな」
孝明は彼の言葉に、複雑そうな表情で頷く。
「ああ。ありがとう」
その「ありがとう」が何に対してのものなのか、誠にはよく分からなかったが、特に追及する事もなく、彼に背を向けて歩みを進める。
戦闘が終わって静まり返っていた町に、パトカーや消防車、救急車のサイレンの音がようやく響き出していた。
野次馬が増える前にと、誠は足早にその場を後にした。
その後は特に何の障害もなくバイクの許へと辿り着き、その愛車に乗って人の多い道を避けて通り、誠は遥鳴堂旅館まで帰ってきた。
陽は既に沈み始めており、風の冷たさと共に、辺りに夜の気配が近付いているのを感じる。
誠は服を着直す際に、元々羽織っていた上着に血が付くのを嫌い、七分袖のシャツだけを着たのだが、その格好では負傷した部分は隠れていない為、自室に帰り着くまで旅館の者にも会いたくはなかった。
看板の出ている門付近や旅館の表には誰も見当たらず、呼び止められたりしなかった事に安堵しつつ、彼はそのまま玄関扉を抜けて中へと入る。
玄関ホールに上がったところで、受付の奥から泰倫が顔を出した。
「お帰りなさい――誠……その怪我は?」
彼は誠の右腕が血に塗れている事に即座に気付き、心配そうに歩み寄る。驚いた顔をしているものの、彼は取り乱す様な事もなかった。しかし、それでも誠は面倒そうに顔を顰める。
「仕事だよ。分かるだろ」
「それはそうだけど、いつもはそんな大怪我してこないだろう」
「大怪我? 大袈裟なんだよ、あんた達はいつも」
泰倫は一瞬何かを言い掛けたが、思い直した様に小さく息を吐いてから再び口を開いた。
「……その様子なら大丈夫という事なんだろうけど、こっちは心配もするさ。賀茂橋君は?」
「本人に訊けよ」と、誠は言おうとするが、孝明と違って泰倫は旅館の従業員に指示を出す立場であり、その為にも把握している方が良いのだと、遅れて察する。
「……あいつは後始末を済ませてから病院に行くらしい。戻ってくるのはその後だろ」
「そうか」
頷いた後、泰倫は、
「二人共そんな大きな怪我をするなんて、大変な相手だった様だね。ニュースでは中依濱の方で大きな事故が複数あったと速報が入っていたから、妖かとは思っていたけど……」
と、表情を曇らせながら言う。
妖に関する事案は一般市民には秘匿されているが、泰倫や孝明は事実としてそれらを知っている。泰倫達だけでなく、旅館の従業員達も同様だ。故に、報道からの推測も早い。誠はその話の早さを有り難く思ってはいた。
「……しかし、病院嫌いも考えものだよ。無事だったのは勿論良かったけど、普段負わない様な深傷なら、そういう時位はきちんと診て貰えば良いじゃないか」
「深傷じゃねえ」
頑なな彼の返事に、泰倫は聞こえる様に溜め息を洩らす。
「皆も心配する。それを分かってくれると良いのだけどね」
「……部屋を汚すつもりはないし、見苦しい傷も、他の奴の眼に触れる前に処置はする。それで良いだろ」
「そういう心配を言っているんじゃないよ」
泰倫は呆れた様な顔で、軽く髪をかき上げる様にして頭を掻いた。
「それ以外に何を心配するって言うんだよ? 客商売だろ、一応」
平然と言う誠に、泰倫は再度溜め息を吐くが、彼は言葉も態度も改めるつもりはなかった。
「もういいだろ」
そう言って、彼は泰倫の横を通り抜けようとするが、思い出した様に立ち止まって振り返る。
「――ああ、泰倫の部屋の風呂貸してくれ。血はもう止まってるが、客用の浴場が汚れたり、俺が入ってる時に客が入ってきたら良く思われないだろうからな」
旅館内の住み込みの従業員は、基本的に従業員用の共同浴場を使うが、代々旅館を取り仕切ってきた中原家の人間の私室には、個人用の内風呂が備え付けられている。泰倫も、手早く済ませたい時などはそちらを使う事があった。
「構わないよ。でも――」
「風呂掃除も勿論する。別にあんたの部屋のだから汚して良いとは思ってない」
「……だから、そういう心配はしていないって。好きに使ってくれて構わないから、きちんと身体を休めなさい」
泰倫の言葉に、誠は曖昧に頷き返すと、その後は振り返らずに奥へと進んでいった。
彼の背中を見送ると、泰倫は四度目の溜め息を吐いて胸の内で呟いた。
(……何年経っても他人行儀なのは、なかなか変わらないな……。まあ、こればかりは強いてどうにかなるものでもないけど……)
泰倫は複雑な思いで立ち尽くしていたが、その後の段取りの為に意識して思考を切り替えた。
従業員達への指示を頭の中で素早く組み立てながら、郁人の携帯電話にメールを送っておこう、と、考えを巡らせ、泰倫は事務室へと引き返すのだった。
読んでいただきまして、どうもありがとうございます。
不定期更新ですが、出来る限り続けていきますので、お付き合いいただける方がいらっしゃいましたら、宜しくお願い致します。




