翳りの兆し・二
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――誠が『常世』が開いたのを感知してから、別行動していた郁人と連絡を取り、現場に辿り着くのに少なくとも十分は掛かってしまった。
場所は判っていたが、その時にいた場所からは距離があった。
誠は『闘身』になると、背中の翼を使って飛ぶ事が出来る。彼自身原理は詳しく知らないが、鳥の様に翼の羽ばたきや気流を利用して飛ぶ訳ではない事は確かだった。
彼の『飛ぶ』という意思に『闘身』の身体が応え、翼を羽ばたかせると彼の『気』が働き掛け、物理法則を超越した浮力を得られるらしい。空中にいる時は自由に動ける事に加え、飛翔スピードも可能な範囲内で自由にコントロール出来た。
『常世』が開いた現場まで距離がある時は、誠は空から向かった方が早い。今回もそうして、出来る限りのスピードで文字通り飛んで来たのだった。
現地に到着するより先に、常人より遥かに高い視力を持つ彼が、上空から視認した状況はあまり芳しいとは云えなかった。
現れた妖によって、既に町の一角が被害を受けていくつかの建物は半壊しており、数台の車が道でひっくり返っていたり潰されている。遠目にも、そこに居合わせたであろう人間が無惨な姿で何人も倒れているのが判った。
そこに生きている人間がいなくなったからか、その妖が移動を始めた時、進行方向に見知った者の姿を見つける。――孝明だった。
不味い、と、誠が思ったのと、妖が孝明に襲い掛かろうと構えたのはほぼ同時だったが、その瞬間に、誠は彼らの間に割って入りながら現場に到着を果たしたのだった。
彼は着地すると同時に、左手で力を加減して孝明を後ろへ突き飛ばしつつ、左脚を軸にして踏ん張り、その妖の胸の辺りを目掛けて身体を捻る様にして下方から思い切り蹴り飛ばす。
その一瞬の間に少しもしくじる事なく、孝明を救い、妖から遠ざける事に成功したのは、自分が器用でないのを自覚していた誠自身にとっても驚きだった。
少しでも力加減を間違えれば、或いは、着地する際に減速するタイミングが遅ければ、孝明を誠自らが殺してしまうところだった。また、割って入るのが僅かに遅れていただけで、やはり孝明は助からなかっただろう。
後から肝を冷やした思いの誠は、反射的に孝明に向かって叫んでいた。
「こんなとこで何やってんだ、おっさん!」
誠は蹴り飛ばした妖から注意を逸らさずに、背後に倒れた孝明が起き上がる気配を感じ、内心で安堵の息を吐いていた。
「――誠君……すまない。助けてくれたのか」
咳き込んではいたものの、彼は無事な様だった。
以前にも妖に遭遇した事があるとは云え、彼の状況判断能力は驚く程高く、冷静さを取り戻すのも早かった。
誠と孝明は必要最低限の会話を交わし、互いにするべき事に意識を移した。
――誠は改めて眼前の敵を見据え、自分に向けられる殺意に呑まれる事なく身構えた。
その敵は、誠の記憶にはない初めて見る妖だった。
黒い毛皮に覆われた大型の獣の様に見えたそれが、低く屈めていた身体を起こすと、まるで人間が狼の着ぐるみを着ているかの様に、二足で直立する姿に違和感を見つける事が出来ない。それは、妖を見慣れている誠の眼には異様に映った。
創作物の中では『狼男』などありふれた存在だが、現実では、犬科の大型獣の骨格と人間の骨格では相違点が多く、人間の体型と行動様式を狼が再現出来る筈もない事は明らかで、逆もまた然りだ。
妖である以上、現実では有り得ない姿形であっても不思議はないのだが、この妖は、妖としては不可解な程『人間的』だった。
孝明が、『もしかしたら退治屋なのではないか』と迷った様に、誠も、妖と云うより『闘身化』した退治屋の姿の方が近いのではと思う程だった。
狼の様な妖の、赤くぎらついた光を放つ瞳が誠を睨むと、瞳を縁取る上下の瞼が左右に引き攣れながら歪む。同時に、前に長く伸びた鼻先に深い皺が寄り、上顎の表皮が吊り上がって捲れ、口許から大きな牙を剥き出しにした。
狼にしか見えない容貌の奥から、不意に人間の表情が浮かび上がったかと思うと、『それ』は口を開いた。
〈……成る程。貴様、『雑ざりモノ』だな〉
「何……?」
獣の低い唸り声と、倍音を伴った太い男の声が重なり合った様な異様な声だったが、話し言葉の抑揚は人間のそれとほぼ変わらないものだ。
誠は警戒の構えを弛めずに、敵の言葉を聞き返していた。
〈貴様らの言葉では『半妖』と呼ぶそうだな。『混血』――いや、『雑種』とも言うのか?〉
『それ』は、挑発的な笑みを顔に浮かべて言った。
素養のある者にしか理解出来ない言葉を発する妖だが、妖と数多く接触してきた誠でも、ここまで流暢に聞こえる喋り方をする妖は初めてだった。
「犬に『雑種』呼ばわりされるとはな。随分『こっち』の事情に詳しいみたいだな?」
内心の怒りを抑えながら返した誠も、無意識の内に口角を僅かに上げて口許だけで笑みを作っていた。
〈たかが百年足らずで死ぬ生き物の集まりの分際で、驕るなよ。ものを知らないのは貴様らの方だ〉
『それ』は、感情的ではなく淡々とした口調で静かに吐き捨てる。眼を微かに細め、見下ろす様に誠を見ていた。
「……へぇ? 犬も長く生きられれば、見下せる相手も出来るんだな。長生き出来て良かったな?」
誠も挑発的な態度で応えたが、胸中では、「何だ? こいつは」と、心理的な警戒も強くしていた。
妖の誠を見る眼には、怒りというより侮蔑に近い感情が宿っている様に見える。そして同時に、強い殺意を向けてきているのが明らかだった。
『人間的』な感情と理性、『獣』の様な獰猛さ、『妖』特有の人間とは相容れない思考――それら全てを、この妖から感じた誠は、やはりその異様さに内心で戸惑っていたが、一際異様なのが、この妖の『人間を見る眼』だった。
人間を一方的に虐殺し、破壊の限りを尽くそうとする妖は、人間をただ弱い生き物として見ているが故に見下した言動を取るが、人間の思考からすれば、低級な妖から高い知性を感じる事は殆どない。だが、この眼前の妖はそうではない。
人間であり退治屋であり、そして存在の半分は妖である誠を蔑み嘲笑する様からは、知性的な、何かしらの根拠を以てそうした態度を取っている事を感じさせる。
その言動に根拠があると感じるのは、誠の思考と相手の思考の間に何らかの共通点を見出だす事が出来るという事でもある。これは、孝明と誠が、『それ』が妖よりも退治屋の闘身に近いのではと瞬間的に感じた事の証左であり、その妖から受ける違和感の正体でもあった。
しかし、考えているだけでは状況は好転する筈もない。そう思い直した誠は、拭い難い違和感や敵に関する疑問を一度頭から追いやり、戦闘体勢に移った。
重心を落とし身構えると、彼は自身の身体に木気の力を纏い、パリパリと音を立てて放電させる。
〈……ようやく、か。我らを滅する者を名乗るのなら、証明して見せろ……!〉
妖は獣の咆哮を上げながら、ヒトと同じ言葉を使って吼えた。
「上等だ、バケモノ……!」
誠は低く唸る様に吐き捨てると、周囲の建物に注意を払いながら妖に向けて雷を落とす。
轟音を響かせながら、青白い閃光が妖を中心にして幾柱も落ちていく。周辺の電線が、その振動と衝撃によって大きく揺さぶられながらも、辛うじて千切れる事なく耐えていた。
妖は誠の落とす雷を、左右に素早く跳びながら避けていた。身体の大きさからは想像し難い程の俊敏さだ。
誠は町のライフラインである電線や地下の水道管を傷付けないように威力を調整しながら攻撃している為、それらに全く気を遣う必要のない妖の様には動けない。
誠の雷撃は、その二割程は妖に命中していたが、いずれも当たりが浅く大したダメージを与えられてはいないのが明白だった。
(これだから市街地は……!)
彼が内心で歯噛みしていると、跳び回っていた妖がにやりと笑い、次の瞬間には誠目掛けて飛び掛かってきた。
〈どうした、そんなものか! 退治屋!〉
狼そのものの音圧の高い咆哮を上げながら妖は叫び、太い爪を振り翳し誠を襲う。
誠は咄嗟に両腕で頭部を守りながら後ろへ退がり、敵からの攻撃を凌いだ。
大型獣さながらの筋力と爪による突撃は重く、しかしその威力はただの大型獣並みを軽く超えている。その爪は闘身になった誠の硬い表皮にめり込む様な爪痕を付け引き裂いてくる。
誠は敵の連続した突撃を腕で受けきると、最後の一撃を入れてきた妖の左手首を掴まえ、吼えると同時に掌から直接電撃を浴びせた。
妖は誠の電撃をまともに受けたにも拘わらず、間髪容れずに反撃してくる。
「――ぐッ」
妖の蹴りが胴体に入り、誠は奥歯を食い縛って耐えたものの、敵との必要以上の密着体勢を避けるべきだと瞬時に判断し、妖を遠心力を使って投げる様にしてその手首を離した。
再び妖は投げ飛ばされ、崩れた建物の残骸に叩き付けられた。
敵が起き上がる前に、誠は両腕の傷を素早く確認する。
左右とも前腕部に幾筋かの傷が出来ており、内側から捲れる様な状態の傷口となり血が滴っている。が、傷自体は表皮程の浅さに留まっており、闘身であれば戦闘を続行するのに支障はなさそうだった。
誠が構え直すのと時を同じくして、妖も起き上がって体勢を整えていた。
荒々しく咆哮を上げると、その鳴き声は先とはまた違う、金属を引っ掻いた様な不協和音が混じっていた。
誠が耳鳴りを覚え身を硬くすると、周囲の物陰から冥い気配が揺れる様に立ち上ぼり始める。
建物、建造物が崩れた瓦礫、ひっくり返った車、電柱、それらが作り出した『影』から、黒い靄の様なものが揺れながら現れた。
『靄』は黒い獣――狼の形に収束していき、その頭部に赤い大きな口と二つの眼が開くと、各々が禍々しい鳴き声を上げた。
「……手下を喚んだのか、造り出したのか……。厄介だな……」
誠は小さく呟きながら敵の出方を窺っていた。
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