序・二
引き続きプロローグです。
昇が車を降りてカーブの向こう側を見に行ってから十数分が経っていた。
その間、紗慧は、圏外になっていて通信不能になっている自身のスマートフォンを胸元で握りしめて、彼の無事を祈っていた。勿論事故も誰かの不幸も、何事もない事も含めて、である。
だが、様子を見に行っただけなら、早くて数分で戻ってくるだろうと考えると、何事もなかった筈がない。
紗慧は心を決め、昇の車のエンジンを切り、車外に出た。
「ここにいてって言ったのにって、怒られちゃうかな……」
自分を励ますつもりで、紗慧は一人でそう呟いた。恐いという感情よりも、何があるか分からない不安の方が大きかった。
ハイキング用に、パーカーとジーンズのパンツ、スニーカーという格好が幸いして、身体は身軽だった。
道路の端に寄り、小走りに近い歩調で先へ向かった紗慧は、その後絶句する事になった。
昇が車を停めた場所から前方へ進み、カーブを曲がった先に広がっていたのは地獄の様な光景だった。
カーブの先はトンネルに続いていたが、その手前では、観光バスが横転し、他にも数台の乗用車と大型トラックが車線を無視した位置に乱雑に転がっていた。
そして、滅茶苦茶になった車の傍では、かつては人『だったもの』達の無惨な姿がそこかしこに散らばっている。ヒトの形をしていない者もいる。あちらこちらに血糊がこびりつき、息が詰まるような臭気に満ちていた。
それらを目の当たりにした紗慧は、何かを考えられる冷静さを失ってしまった。が、そんな状態でも、更に異常なモノが視界内にある事に気付いてしまう。
最初に頭を過ったのは、泥人形だ。
子供程の背丈の、黒っぽく歪な人型をした『何か』が、車輌や遺体の間をひょこひょこと行ったり来たりしている。ソレは一体だけではない。
……あれは一体何だろう?
目の前の惨状に思考が停止し掛けた紗慧の頭に疑問が浮かぶ。
そして、その泥人形のようなモノを眼で追うと――ソレは、バスの横で血塗れになって倒れたまま動かない人を、その場に屈み込んで齧り付き始めたのだった。他のモノも似たような行動をとっている。有り体に云えば、人の遺体を『食べて』いるようだった。
――口が、あるのだ。ソレらには。そして眼と鼻が。輪郭が歪でよく分からないが、耳もあるのだろうか。
この世のものとは思えない光景に、紗慧は目眩を覚えるが、倒れずにいたのは、恋人である昇の存在が頭にあったからだ。
昇はここへ来た筈だ。彼もこの泥人形の様なモノ達を見たのだろうか。
見回してみても彼の姿は見えない。どこへ行ってしまったのだろう。この、生物の範疇に収まるのか分からないモノ達が蠢く場で、彼を探す事は可能なのだろうか。
紗慧が震える脚を僅かに動かすと、じゃりっという思わぬ大きな音が出てしまった。
彼女があっと思うと同時に、一番近くで遺体を貪っていたソレが面を上げた。
〈何だ。まだ他にもニンゲンがいるぞ。生きてるヤツが!〉
ソレは、砂利を擦り合わせて出したような音で、意味のある言葉を話した。
「……っ!」
紗慧の中の本能は逃げろと叫びを上げている。だが、理性では昇を探す事を求めている。そのせめぎあいで、一瞬行動が遅れた。
彼女が後退る前に、ソレが身体に飛び付いてきた。彼女は後ろに倒れ、ソレが両腕を掴み覆い被さってくる。見た目よりずっと重く、はね除ける事が出来ない。
「いやっ、離して!」
反射的に悲鳴を上げた紗慧だが、ソレとまともに意思疏通が出来るものなのかは不明だった。
〈んん?〉
ソレは、耳に不快な音を発しながら、紗慧の顔をしげしげと見つめてくる。
眼と鼻の先で見ると、ソレは顔も歪にぼこぼことしており、眼と口の部分は横一文字に切れ込みを入れて開いたような相貌だった。眼球も備えているようで、毒々しい赤く鈍い光を放っているようだ。
そして、もうひとつ耐え難いのが、その臭いだった。
人の血肉を貪ったであろう口許は、当然血生臭く、だがソレ自体の臭いも酷いものだった。不潔に澱んだ泥水が生乾きで放つ臭いに似て、嗅いでいるだけで、吐き気を催すような臭いだ。
〈コイツ喋ってるぞ?〉
紗慧にとって意味の分からない事を呟いたソレは、彼女を押さえ付けたまま頭を持ち上げ、大声を上げた。
〈お頭! このニンゲン喋ってますぜ!〉
「な、何……?」
紗慧が思わず声を上げると、ソレは彼女をじろりと睨んだが何も言わなかった。
紗慧にのし掛かっているソレの声に応える様に、横転したバスの向こう側から、泥人形の様なソレらの三倍はありそうな巨体が現れた。
その巨体も人型で、やはり体表がゴツゴツとしており、脚は太く短く、腕も太いが長く、地面に届きそうな長さをしている。
〈喋ってるだと? 殺してないだろうな?〉
野太い声で巨体が言う。ソチラは、排水口が詰まったようなごぼごぼとした音を発して話している。
ずしんずしんと音をたて、巨体が歩み寄ってくる様を見て、紗慧は、辺りの道路のあちこちヒビが走っている事に気付いた。咄嗟に、先刻の大きな揺れと音を思い出す。彼らが関係しているのではと。
紗慧は、自分がまだまともなのか、それとも既にパニックに陥っているのか、よく分からなくなっていた。
泥岩の巨人は、押さえ付けられたままの紗慧の顔を覗き込んでくる。凄まじい悪臭が彼女の嗅覚を苦しめる。
〈……ああ、コイツかもな。アイツが言ってたのは。他のニンゲンとは匂いが違う。『チカラ』を持ってるヤツの匂いだ〉
低く重い、腹の奥に響くような、それでいて不快な声で巨人は訳の分からない事を言っている。それとも、紗慧の耳にそう話しているように聞こえるだけで、本当は全く違う事を話しているのか。
「な、何なの、アナタ達は!?」
気力を振り絞り、ようやく紗慧は叫ぶ様にして巨人に言葉をぶつけた。
すると巨人は、ぼこぼこした瞼に埋もれた赤い眼を更に細めて紗慧を睨んだ。
〈エサは黙ってろ〉
巨人が言うと、いつの間にか周囲に集まっていた泥人形達も、跳ね回りながら、
〈ダマッテロ、エサ! ダマッテロ、エサ!〉
と、囃し立てる様に口々に叫んでいた。
(餌? 人間が……?)
紗慧は、ソレらの放つ言葉の衝撃に加え、その腐った泥水の様な臭いと人の血や脂の臭いの入り交じる空気を呼吸し、堪えきれず咳き込んだ。
〈アイツ、あのニンゲンに匂いをつけたヤツを探すとか抜かしていたが、ここにいるじゃねぇか。あの間抜けめ〉
そう言った巨人は、口からごぼごぼと音を発して肩を揺らしている。その仕草はまるで笑い声を上げているようだ。
(『あのニンゲンに匂いをつけたヤツ』? 今私の匂いがどうとか言っていた事と関係が……?)
紗慧はそこまで考えたところではっとする。
(まさか、昇さん……?)
確かな予測とは云えないものの、巨人の言葉を繋げて想像する限りでは、そう思えた。そして彼がこの場にいないとすれば、巨人の言った『アイツ』という存在が彼の居場所を知っているのではと、紗慧は瞬時に考えた。
(昇さん、生きていて……)
紗慧は身動きがとれないまま、眼を閉じて祈るしかなかった。
紗慧は泥岩の巨人に担がれる様にして運ばれた。
無惨な遺体が放置されたままの車道から離れ、山の斜面になっている森へ入り、奥まった場所で降ろされた。自分がどの辺りにいるのか、見当もつかない。
巨人や泥人形達は、やはり紗慧を逃がすつもりはないらしい。十体程の泥人形が、彼女の周囲を囲み常にうろうろしていた。
紗慧がそこへ連れていかれてからすぐ、森の更に奥から、もう一体の巨人が現れた。
そちらは体長はもう一体と変わらないが、体型が大きく違う。ずんぐりした体型のもう一体と比べ、肩幅は広いが胸の下辺りでぐっとくびれており、手脚も大分スマートと云えた。
〈デンズよ、見つけたのか?〉
〈おうよ。スージンがどこまで行ったかは知らんが、無駄足だな。匂いからしてコイツで間違いないだろう〉
デンズとは名前だろうと推測出来る。呼ばれたずんぐりむっくりは、濁った音で鼻を鳴らして答えた。
紗慧は座り込んだまま震えていたが、ソレらの会話は聞き漏らさないよう注意していた。昇の事や逃げる為のヒントになるような事が話されていないか、懸命に耳を傾けていた。
〈お頭、ちょっと位味見をしてもいいのでは?〉
泥人形の一体が、耳まで裂けた口で舌舐めずりしながら言った。
〈馬鹿め! 味見だと? 出来る訳がないだろう! コレは言ってみれば献上品だ。少しは頭を使って考えろ!〉
そう怒鳴ったのは細身の方だった。
(『献上品』? 私が?)
何の事を言っているか分からないなりに、紗慧は自分が今すぐにでも殺される心配はないのでは、と考える。その後の保証は全くないのだと理解しつつ、状況を把握する事で少しでも事態を好転させる事を必死で考える。
「……ねぇ、『献上品』って、どういう事? 私をどうするつもりなの……?」
紗慧は、恐怖に掠れる声でソレらに向かって尋ねてみる。
ずんぐりむっくりと細身の巨人は、一瞬紗慧に眼を向けた後、吐き捨てる様に言った。
〈餌は黙ってろと言ったはずだ。……コトバが通じる事がこれ程面倒とはな〉
〈ニンゲンは喉の一部を失うと喋れなくなるようだが……死ぬかもしれんしな。あの方に献上するまでは生きたまま運ばねばな〉
紗慧に、というより自分達だけで会話をし、その後は眼もくれなかった。
大した情報は得られず、紗慧の気力も萎え掛けるが、ここでただ怯えているだけでは何も変わらない。そう自分を何とか鼓舞しようと紗慧は必死だった。
「私の……何が必要なの? 食べるのだとしても、献上して何が得られるの?」
本当は昇の安否が知りたかった。しかし、先刻の言葉から察するに、このずんぐりむっくり達も、彼の行方を知っているとは思い難かった。
〈ウルサイゾ! ダマッテロ!〉
すかさず、小さい泥人形の方が口々に叫び、紗慧の顔許に頭を突き出すように脅してくる。
改めて見ると、本当に不気味な生き物だった。赤い眼がギラギラと光り、鋭く小さい歯がびっしり生えた口は耳許まで裂けているようだ。ぼこぼこした黒い体表は泥で固めた様にも見えるが、てらてらと鈍く光ってもいる。昔、子供の頃に見た映画に出てきた怪物にどことなく似ている気がした。
〈スージンの奴、いつも偉そうに指図しやがるが、見つけたのは俺だ。あの方の処へ俺達だけで持っていくのはどうだ?〉
ずんぐりむっくりは、細身の方に向き直って言った。
〈……合流前にここから帰れば奴も黙っていないだろう。それはそれで面倒だ。あのニンゲンも逃げられはしないのだ。奴が戻るのを待つのが良かろうよ〉
細身の巨人は、右手を持ち上げ顎をさすりながら応える。
〈糞っ。兄者が言うなら仕方ねぇが……。気に入らねぇな〉
どうやらこの二体は兄弟の様だ。紗慧がそう思った瞬間だった。木々の間から見える晴天に、稲光の様な強い閃光が走った。
「見つけたぜ! 化け物共!」
そう叫ぶ男の声を、紗慧は確かに聞いた。 だがそれは、すぐ傍で何かが爆発したような轟音に掻き消されてしまう。しかし、本当に驚くべき事が起こるのは、これからだった。
読んでいただきましてありがとうございます。
物語が動き出すまで少し掛かりますが、宜しければお付き合いください。