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彼方よりの。  作者: 秋生侑珂
第二章
19/34

翳りの兆し・一

前回の更新から時間が経ってしまいましたが、続きを投稿させていただきます。

 彼にとっては、それは『休日』だった。

 城之内じょうのうち孝有こうというペンネームで文筆業を営む彼――宮内みやうち孝明たかあきは、他に本業や副業と呼べる職には就いていない。

 大学時代に意気投合して親友になった後輩である中原なかはら泰倫やすのりが親から継いだ遥鳴堂旅館ようめいどうりょかんの一室に住み着き、こなせる量の仕事をネットを介して引き受け、書く事を日々の生活の一部として過ごす。

 旅館のある御代多賀みよたかまちは県内でもかなりの田舎だが、田舎故に役場や病院・警察・消防などの公的機関から各家々が孤立しない為に、ここ十年の間にインターネット回線が整備されており、パソコンがあればどこでも出来る仕事である文筆業に支障はない。

 しかしそうなると、『書く事』と生活時間を自分で意識的に区切らなければ仕事と私生活の境界は曖昧になり、精神衛生的にはあまり良い状態とは云えなくなる。

 孝明は自身の性格を、怠惰で不真面目だと自認しているが、文筆の仕事は書ければ書けるだけ続けられてしまう為、今以上不健全な生活に陥らない為にも、自分で休日と決めた日はパソコンや調べものからは距離を取って過ごすように心掛けていた。


 御代多賀町からバスを使って南下し、以前紗慧(さえ)郁人いくとが買い物に行った坂見さかみよりももう少し人口密度の高い町である中依濱なかいはまちょうへ、彼は来ていた。

 紗慧が恋人であったのぼると観光旅行に訪れた多賀依濱たかいはまちょうは、彼女らの様な観光客が比較的多く、県内北部の中では観光業が盛んな部類の町だ。

 それに対して中依濱町は、地元の地域住民中心の構成の町になっており、娯楽施設も観光客向けではなく、やはりその地域に住む人々に向けた施設が多い。

 地方都市と呼ぶにはまだ規模が小さいものの、山岳部が含まれる県内北部の町の中では比較的栄えていると云える町である。

 孝明は、『休日』にここを訪れる事が多かった。

 理由は単純で、日常を野山に囲まれた旅館内で過ごしているので、気分転換の為には、少しでも人の多い場所で普段しない事をしたいからだった。

 中依濱町の主な娯楽施設は、土地の広さを活用した大型のショッピングモールや映画館、コンサートホールや多目的ホールを備えた公民館、冬の間アイススケートリンクになる公営プール、図書館、美術館、などだ。昔ながらのゲームセンターも残っている。

 大人の娯楽施設としてはパチンコ店が賑わっているが、孝明は若い頃からギャンブルの類いに興味がなく、娯楽としても面白いと感じた事がない為、N県に来てからも近付く事すらなかった。

 映画館や美術館などは気紛れに入って時間を過ごす事もあったが、ショッピングモールに関しては、日用品や衣服などを買う以外に目的はなく、スポーツに興じる趣味もない彼は、この町に足を運んでも大してする事もないのが実情だった。

 それでも、旅館に引き籠っているだけの生活では得られないちょっとした町の活気は、気分転換としては充分でもある。


 この日も彼は、いつもと同じ様に、この町へ来た時に立ち寄る喫茶店でのんびりと食事をしながら、夕方までどう過ごすか考えていた。考えるものの何も浮かばず、町をぶらつきながら人間観察に終始する『休日』も多い。

 特に目的があった訳でもない彼は、結局何も思い付かないまま昼過ぎの長居を切り上げて店を出た。

 その時、それは起こった。

 商業施設中心の地区と住宅地の境に位置する喫茶店を出て、何の気なしに商業地の方へ足を向けると、向かおうとした先から尋常ではない叫び声と物音が響いてきた。

 建築物が崩れた様な、コンクリートが激しくぶつかり合った時に出す音やガラスの割れる音、そして、決して少なくない数の人の悲鳴や怒号。

 続いて、音のする方向から沢山の人が、何かから逃げる様に走ってくる。皆一様に、恐怖や混乱を顔に浮かべ、殆どパニック状態に陥っているのが一目で判った。

 孝明がその状況から想起したのは、以前眼にした『あやかし』が出現して暴れるさまだった。

 彼は即座に喫茶店に引き返し、店内に設置されたテレビを眺めていた店主や数人の客達に向かって叫んだ。

「おい! 向こうで事故か何かあった様だぞ! この辺りにも影響があるかもしれない。すぐに逃げた方が良い!」

 孝明に店内中の人間の眼が集まった。皆一瞬戸惑った表情を浮かべ、窓から外を見やる。

「な、何だ?」

 既に表の通りを逃げ惑う人々が次々と走り抜けていくのが、店内からも窺える。

「怪我人がいるのも見えた。何かあってからじゃ遅い。とにかくこの場所から離れるべきだ」

 孝明は普段出さない声量で、店内の人間を諭す様に言う。

 彼本人はリーダー気質の人間とは掛け離れているが、妖を知っているが故の凄味を感じさせるその呼び掛けが功を奏したのか、店内の人間も頷き合って従った。

 人々が逃げて行く先に向かえば、少なくとも『事件現場』からは遠ざかる筈だとして、彼らを促した後、孝明はその場に残り様子を窺った。

 逃げ遅れた者がいないかが気掛かりだったからだが、孝明自身何が出来るという訳でもない。自分が巻き込まれて死んでしまえば元も子もない。そろそろ自分も逃げなければと、方向転換しようとした時だった。

 逃げてきた人々が来た方から、大きな影が差した。

 T字路になっている道路の、右側の曲がり角だった。建物に阻まれ見えなかったそれが、姿を現したのだ。

 それは、二メートルを越える巨躯だったが、概ね人間ヒトに近い体型と云えた。

 全身に黒々とした毛を纏い、頭部は狼の様に見える。頭の大きさに対して肩幅はやや広いが、左右に張り出した形ではなく、四足歩行型の獣が後ろ脚だけで立った時の様に撫で肩で、しかし両腕は人間の様に身体の両側に位置している。

 姿勢は僅かに前傾しているが、それは脚も狼の様に、膝下が後ろへ下がり発達した大腿部が前へ出ているせいだった。

 その風貌を一言で表するなら、『狼男』だった。

 孝明が、それでもすぐに逃げ出さなかったのは、『それ』に人間ヒトを思わせる『何か』を感じたからだった。

 彼が見た事のある妖は、一目で見た者に生理的嫌悪を抱かせる歪な姿形をしていて、振舞いも、知能がある事は窺えても秩序立った理性があるとは思えないものだった。

 しかし、眼の前の『それ』は、見た目こそ『狼男』の様な獣と人間を交ぜ合わせた様な異形だが、その姿にはある種の『調和』を見出だす事が出来た。

 人間の姿をした獣なのか、獣の姿をした人間なのか、どちらなのかは判然としないものの、体型バランスは奇妙にも均整が取れていると云え、妖特有の歪さはむしろ感じない。

 そして何より、『それ』から滲み出る雰囲気の様なものに、孝明は直感的に知性や理性を感じたのだ。

 孝明は、妖を知っていると同時に、退治屋の存在と彼らが闘う為の姿である『闘身』というものを知っている。

 『闘身』は謂わば人間ヒトが妖と同じ土俵に上がった状態だ。『闘身化』した退治屋は、根本が人間ヒトである為、例えば紗慧や孝明の様な感性を持った者の眼には、化け物然として映らない。

 孝明が知る退治屋の『闘身』の姿は、あきらのそれだけだ。知り合いである郁人の『闘身』は知らず、他の退治屋の姿は見た事がない。

 それ故に、彼は、『それ』が郁人や他の退治屋の『闘身』かもしれないと、迷いながらも考えた。――既に誠以外の退治屋が到着していて、現れた妖を討伐した後なのでは、と。

 しかしそうでなかった場合、『それ』は妖で、妖に見つかった自分は為す術もなく殺されるだろう、と、彼も分かっていた。

 孝明は、常日頃、陰ながらに危険を冒して人々の為に闘う退治屋達に尊敬の念を抱いている。もしも、『それ』が退治屋の誰かであったとしたら、今逃げ出すという事は、その尊敬している退治屋を妖――『化け物』だと勘違いして逃げるという事になり、それは孝明自身にとって許し難い行為だった。妖も退治屋の存在も知らない者なら仕方ないと思えても、孝明は自分がそうした間違いを犯す事は許せないのだ。

 『それ』が退治屋なのか妖なのかを判別する方法は、普通の人間である孝明には一つしかない。

 普通の人間には、妖の話す言葉は理解出来ない。こちらから声を掛けてみれば、答えは判る筈だ。

 相手が妖であれば、自分は死ぬだろう。そう覚悟して、孝明は『それ』に向かって声を上げた。

「……おい、君――」

 曲がり角から現れた『それ』が、くるりとこちらを向くのとほぼ同時に声を掛けた孝明は、『それ』と眼が合った瞬間、自分の判断が間違っていた事を悟った。


 その眼には、知性を感じさせる『何か』が確かにあった。ただの獣には見出だす事の出来ない『何か』。だが、その知性が人間ヒトのそれと異なる事も、確かだった。

 『殺意』という表現が最も適しているだろう、と、極限状態とも云える瞬間に、孝明は思考していた。しかし、その『殺意』は人間が抱く感情と根本的に違うという事も、直感的に理解していた。

 『それ』の動きに反応が追い付くよりも先に、孝明は死を覚悟した。


 ――数瞬の間に多くの事が起こり、彼が自分の身に起きた事を理解した時には、既に状況が変わっていた。

「こんなとこで何やってんだ、おっさん!」

 聞き覚えのある叫び声が耳に入り、はっとした孝明は、自分が道路に倒れている事に気付いてすぐに身体を起こした。

 全身に痛みが走るが、身体のどこにも傷を負っていないのは感覚で判った。

 眼前には見慣れない姿の誠の背中があった。見慣れなくともそれが誰なのか迷わなかったのは、勿論その姿を知っていたからだ。

 薄っすらと青みを帯びた肌と大きく発達して隆起した筋肉、そしてそれが羽毛で出来ているのかもよく分からない質感の大きな翼――誠が『闘身』となった姿だ。

 思考が追い付いてくると、瞬間的に自分が大きな力で後方へ突き飛ばされた事を思い出す。その直前に、戦闘機が上空を飛び去った時の様な、雷鳴に似た轟音を聞いた気もした。

「――誠君……すまない。助けてくれたのか」

 喉から絞り出す様にして言った孝明は、胸の痛みに思わず咳き込んだ。

 『あれ』はどうなったのだろうと思いながら辺りを見回すと、誠の肩越しに、先よりも遠い位置に黒く大きな獣の姿を見つける。よく見ると、『それ』の背後にはコンクリート製のブロック塀があり、しかしその塀は大きく砕けて崩れており、中の鉄筋が折れ曲がって露出していた。

 『それ』は、先の様に二足で立っておらず、蹲る様にして身構えている様だった。

「さっさと逃げてくれと言いたいところだが……安全に逃がせる保証も出来ねぇんだよな……」

 誠は、『闘身化』によって変化した肉体の発する、普段よりも低く不思議な響きを帯びた声で呟くと、前方の敵を警戒しながら孝明をちらと見て告げる。

「今賀茂橋(かもはし)もこっちへ向かってる。脚に自信がなけりゃ、あいつが着くまで巻き込まれない様にその辺に隠れてろ」

「……ああ、分かった。

見て分かると思うが、運動はあまり得意じゃなくてね。だけど、隙を窺って逃げる努力はするから、俺の事は気にせず闘ってくれ」

 自分でも情けないと思いつつ、孝明がそう応えると、誠は軽く鼻を鳴らす様に息を吐いて頷く。

「あんたがその辺の奴らより、状況の理解が早いのは助かるよ」

「……世話を掛けるな。すまないが、任せたよ」

 孝明は込められるだけの誠意を込めて言い、慎重に後退り始める。

「連中と闘うのが俺の仕事だ」

 誠は孝明の言葉の意図に構わずそう言うと、背後を気に掛けながら、臨戦態勢に移った。

 黒い獣の妖の放つ『殺意』と『戦意』が誠へ向かっている事は、退治屋ではない孝明にも充分理解出来た。

 普通の人間にとっては頼もし過ぎる程の背中を見ながら、それでも孝明は心中で誠の無事を願っている。同時に、今自分に出来る事は、彼の手をこれ以上煩わせずにこの場を離れる事だと割り切って考え、生き延びる事に意識を集中するのだった。

読んでいただきまして、ありがとうございます。

不定期更新でマイペースになりますが、もしお付き合いいただける方がいらっしゃいましたら、今後も宜しくお願い致します。

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