序・一
プロローグにあたる章になります。分割して投稿致しますので、ゆっくりしたペースになる事をお許しください。
その日は朝からよく晴れ、ハイキングには丁度良い気候だった。
牧野紗慧は恋人の柏崎昇と共に、N県に旅行に来ていた。
前日の午後遅くに宿泊先に到着し、明けた今日、県内の山岳部でハイキングに臨むべく車で出発した。
三月下旬のN県はまだ冬の名残があり、首都圏とは空気の澄み具合が違う。二人は時折車の窓を開け、冷たく澄んだ風を楽しんでいた。
今回の旅行は昇から提案したものだった。
製薬会社に勤める昇は、この春に大学生院生になる紗慧の春休みに合わせて休暇をとっていた。
旅行は三泊四日で、この日に予定したハイキングがメインイベントである。
ハイキングと云っても本格的なものではなく、山道自動車道に乗って車で山の中腹辺りの駐車場まで行き、そこから車を降りて遊歩道に入りのんびり散策するという計画だ。
紗慧が旅行の予定を親友に話すと、彼女は、「もっと若者らしいデートをすればいいのに」と笑った。だが紗慧も昇も観光名所を忙しく回るような旅行を望んでおらず、自然の中でのんびりしたいと思っての計画だった。
道路を走る車はまばらで、時折観光バスや乗用車が二人の乗る車を追い越して先を走っていく。
昇の運転は穏やかで、自動車免許を持っていない紗慧は彼に運転を任せ、助手席でカーナビやカーステレオの操作に徹している。
二人は音楽の趣味も一致しており、車中でかけるBGMについてどちらかが不満に思う事はこれまで一度もなかった。
紗慧は心地好い振動に身を任せながら、窓の外の景色を眺め言った。
「良い処だね。町の方でも思ったけど」
すると昇も頷く。
「そうだね。もう少し長く滞在したくなるな」
旅行に出発してから、運転は全て彼がしていたが少しも嫌な顔をしない昇に、紗慧は改めて心中で感謝していた。
二人が出会って付き合い始めてからは、二年の月日が経過していた。
六歳の年齢差を互いに意識する事なく、円満にやってきた二人は、半年前に婚約を済ませていた。まだ籍を入れないのは、大学院に進学する紗慧を昇が気遣ったからだ。
今回の旅行も、紗慧の進学祝いでもあり、二人にとって婚約を祝したものでもあった。
紗慧はふと、昨夜の宿泊先であった民宿での出来事を思い出して昇を見た。
「ねぇ、昇さん。昨日の話、覚えている?」
紗慧の問いに、昇は前方を見据えながら横目で彼女を見、
「昨日の話って、天狗とか妖怪が出るって話?」
と、聞き返した。
「懐かしい感じだよな。ああして土地の伝承やなんかを話してくれる人がいるって」
紗慧は頷きながら、昨夜の事を振り返っていた。
前日の午後、十六時より少し前に二人は宿泊先に到着した。
宿は民宿で、宿泊施設ではなくホームステイ型の民宿だった。
家主は山崎という名字の老夫婦で、ほぼ予定通りの時間に二人が車で到着すると、にこやかに出迎え、「自分の家だと思って寛いでくれ」と、言葉と態度で歓迎してくれた。
昔ながらの木造の一軒家である民宿の周辺は、ごく普通の住宅地で、他にも何軒かが民宿を営んでいるらしかった。
身の回りの必要な荷物を部屋に置き、老夫婦の厚意で出してもらったお茶を飲んだ後、二人は夕食の時間まで、辺りをぐるりと回って散歩した。
見知らぬ町をただ歩いて回る事が好きなのも二人に共通している。陽が傾いてくるまで、とりとめのない話をしながらゆっくり散策して楽しんだのだった。
山崎夫妻の手作りの夕食を食べた後、順番に風呂を借り、二人が落ち着いた頃、寝るにはまだ早い時間であった為、夫妻が淹れたお茶を飲み、歓談していると、不意に山崎氏が言った。
「この辺りはね、天狗が出るんだよ」
彼の言葉に、驚きというより唐突さを感じ、二人はすぐに声が出なかった。
「天狗って、解るかな? 鼻が長くて修験者の様な格好で、高足下駄を履いてる……」
「あ、はい。天狗は解ります。それが……出るんですか?」
身振り手振りで説明する山崎氏に、昇は頷き、隣に座る紗慧を気遣う様に見る。
紗慧は、営業経験もありどんな話題を振られても卒なく受け答え出来る昇に感心しつつ、彼に眼で「大丈夫」と応えた。
山崎氏は、遠い処を見るような表情になり言った。
「大昔は神隠しなんかが割とあったらしくてね。姿が見えなくなってそれきり戻ってこない。大人の事もあれば子供の事もある。だから、私らが子供の時分には、大人からよく言われたもんだよ。『天狗に気を付けなさい』、『神隠しに気を付けなさい』ってね」
山崎氏が饒舌に語ると、横から彼の妻が夫を嗜める様に言った。
「あなた、都会から来てくだすった若いお二人に、わざわざそんな話をしなくてもいいじゃない。するなら、もっと縁起の良いお話になさいな。――お二人とも、ごめんなさいね」
素朴ながら品を感じさせる語調で謝る彼女は、呆れ顔で夫を見る。
昇は苦笑しながらも、「いえいえ」と、山崎氏をフォローする。
「構いませんよ。旅行中も気を付けるようにと、言ってくださっているんですよね? 有り難い事です。それに、これでも僕、子供の頃は怪談の類いが好きだった方でして」
昇の言葉に、山崎氏の妻は僅かに安心した様な表情を見せ、夫の腕を軽く叩いた。
「もう。お客様に気を遣わせて。仕様のない人ね」
だが、山崎氏は妻の言葉をあまり気にしていない様子で、眼を細めて言う。
「いなくなってしまった本人や家族には気の毒な話だけども、この辺りには、そういった不思議な話や出来事が色々あるんだよ」
紗慧は山崎氏の話にどう返したものかと戸惑ってしまうが、昇はそんな紗慧を気遣いつつ、山崎氏の言葉も受け止めて見せる。
「そうですか。それじゃあ、充分気を付けないといけませんね。紗慧を無事に家に返さないといけませんから。そうなると『色々』の部分も気になるところですね」
彼の言葉に気を良くしたのか、山崎氏は地域に残る伝承や怪談などをぽつぽつと語り始めたのだった。
そうしてその晩は、山崎氏の語る民間伝承を聞き、昇と紗慧も身の周りの世間話などをし、夜も更けてきた頃床に着いたのだった。
――紗慧は、昨晩の話をざっと思い出してくすっと笑い、運転席の昇を見た。
「昇さんが恐い話が好きだったなんて、初めて聞いた」
すると昇は、紗慧が座っている左側の眉を少し持ち上げて、
「そうだったっけ?」
と、半ばおどけて返す。
「最近の都市伝説はカジュアル過ぎてちょっと……と思うけどね。あんまり不謹慎なものでなければ、怪談の類いは結構好きだよ」
彼の言葉に紗慧は小さく吹き出して、くすくす笑う。
「都市伝説はカジュアルなの?」
「まあ、敷居が低いというかね。情緒に欠けるというか。バリエーションがある割には没個性的なものも多いしね」
紗慧は、もっともらしい口調で言う昇に再び「ふふっ」と笑った。
「面白い人」
「それは知ってたんじゃない?」
無邪気な笑顔を見せる昇の太股を、運転の妨げにならないように、紗慧は軽く叩いて笑った。
と、その時。カーステレオのスピーカーから流れる音楽に、ザザっとノイズが混ざった。
同時に、紗慧は針でちくりと刺されたような鋭い頭痛を感じる。
「ん? なんだ?」
それまで無線で繋いだスマートフォンに入れた音楽は不具合なく、スピーカーから流れていた。にも拘わらず、急に雑音が生じ、あっという間にノイズ音しか聞こえなくなってしまった。
「ちょっと触るね」
紗慧も、頭痛を意識的に無視し、端末の不具合を確認しようと昇のスマートフォンを手に取る。
彼女が端末を調べる間に、カーナビまで具合がおかしくなり始めた。地図やルート情報を映し出していたモニタは画像が大きく歪み、カーナビ音声の雑音もスピーカーからの音に加わる。
「どうしたんだ? これ……。携帯はどうなってる?」
昇が訊くと、紗慧はまだ手許を忙しく動かしながら首を横に振って答える。
「よく分からない。圏外になってて挙動もちょっとおかしいみたいだけど……。再起動した方が良いのかな……?」
言いながら、カーナビのモニタにも触れて、不具合の原因を探ろうとした。
二人が困惑している間にも、ノイズ音は大きくなり、カーナビはついに暗転し、何も映らなくなってしまった。
「ハンドルのレスポンスは大丈夫みたいだけど……。電気系統の異常か?でもどうして端末までおかしいんだろう?」
紗慧は自分のスマートフォンも取り出して、同じ様に調べたが、昇のものと状態は大差なかった。
「ううん……。一度車停めるか」
昇は車のハザードランプを点け、道路の端に寄せて停車した。
紗慧は、止まない頭痛と機械の不調の両方に言い様のない不安を覚えて、胸の前で拳をぎゅっと握り締めていた。
二人は停車した車内外で試行錯誤してみたが、何をどうしても元の正常な状態には戻らなかった。
エンジンは何とか無事で、ただ走らせる事は出来そうだったが、電装系に異常が生じているなら、もっと危険なトラブルがいつ起きてもおかしくないと思われた。ブレーキやアクセルに異常が生じる可能性がないとも云えないからだ。
二人が半ば途方に暮れている時だった。ずんっという大きな縦揺れが辺りを襲った。直後、があんっという、大型車輌が横転したかの様な大きな音が響き渡る。
そのどちらもが、尋常ではなく、二人は車内で飛び上がらんばかりに驚いた。
昇は反射的に紗慧の手を握り、自分の方へ引き寄せている。紗慧も思わず彼の手を強く握り返している。
二人の進行方向には山の斜面が作った大きな右カーブになっており、その先は見通せない。音はそちらから聞こえてきたようだった。
「じ、地震?」
不安げに紗慧が呟くと、昇は眉根を寄せ小さく唸る。
「地震にしては揺れが続かないな」
「なんだか……凄く嫌な感じ……」
紗慧は感じたままを口にした。先からの頭痛に加え、酷い耳鳴りがして止まないのだ。みぞおち辺りに疼くような痛みも感じる。
「紗慧……。大丈夫か? 顔色が良くないよ」
昇が彼女の顔を覗き込み、頬と額に優しく手で触れた。
「あ、ええ。大丈夫。ちょっとびっくりしちゃったみたい」
彼女はそう答えて笑みを浮かべようとするが、引き攣った表情になってしまう。
昇が口を開き掛けると、再び不穏で破壊的な音がカーブの向こう側から聞こえてくる。
「今、人の悲鳴みたいな声が混じって聞こえなかった?」
思わず紗慧が昇に問うと、彼も深刻な表情で頷き返した。
「……少し、様子を見てくるよ」
昇は意を決した様に言うと、握ったままであった紗慧の手を離そうとする。
「昇さん! 危ないかもしれない……! 行かないで!」
紗慧は手を離すまいとして、もう片方の手も添えて彼の手を強く握った。
「とりあえずここに留まっていて平気か位は確かめてみないと。何か事故が起きたなら人手が要るかもしれないし。……大丈夫だよ。すぐに戻ってくるから。紗慧はここにいて」
不安を顔に出さず優しく微笑んだ昇は、紗慧の頭を軽く撫でる。
「昇さん……」
まだ手を離さない紗慧は、自分でも驚く程弱々しく彼のの名を呼んでいた。
昇は紗慧の両手の上からもう一方の手を重ねて撫でると、次には彼女の手を離させようとする。だがその手つきは酷く優しい。
「心配させてごめん。でも大丈夫だから。ちゃんと戻ってくるよ。君を安心させる為にも様子を見てくるんだ」
紗慧も昇の性格はよく解っている。誰にでも優しく正義感も強い彼が、ここまできっぱりと言うのだ。止める事は出来ないであろう事ははっきりしている。
紗慧は彼の手を握る手の力を緩めた。
「紗慧。ごめん。ありがとう」
昇は彼女の手から離れた腕で、一度彼女を抱き締めた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」
彼は、圏外になったままのスマートフォンを取ってジャケットのポケットに入れると、エンジンをかけたまま車のドアを開け車外へ出ていった。
「気を付けてね」
彼が車から離れる前に、開いたままのドアから紗慧が声を掛けると、彼は笑顔で頷いた。
「紗慧もね。ゆっくり休んでいて」
紗慧が見守る視線を受けながら、昇はカーブの向こうへ歩いていき、その姿は見えなくなった。
まだ物語が始まったとは云えない状態ですが、読んでいただいて感謝致します。
気長に気楽にお付き合いいただければと思います。