『異変』
授業中の廊下は妙に落ち着く事ができず、キョロキョロと周りを見て紛らわす。
生徒の書いた絵や、学校のニュース記事が脳を適度に運動させる。
西円寺は迷う事なく前へ進み、髪やスカートを揺らす。
その姿はどこか楽しそうで、ステップしているかのように軽々としていた。
誰が見ても、これから保健室に行くような生徒には見えないだろう。
それについていく俺も、どうかと思うのだが。
「...ねぇ」
突如立ち止まり、背中を向けたまま西円寺は俺に問いかける。
保健室に着いたのだろうか、と、西円寺の横に並び俺も立ち止まる。
「どした?」
いつもの冷めたような瞳はプルプルと揺れていて、左右上下に動いて落ち着かない。
それなのに至ってポーカーフェイスを貫こうとしている西円寺は、視線を下げ一言。
「...保健室、消失」
「帰る」
クルッと振り向いてその場を立ち去ろうとするも、腕に取り付く西円寺によって進行を妨げられる。
踏み込む足は一向に前には進まず、その場をズシズシと踏むだけだった。
毎回驚かされるが、コイツのパワーはどこから出ているのだろうか。
人体の不思議である。
「呑気にしてっから道に迷うんだよ」
「...黙って」
理不尽。これに尽きる。
「しょうがない、こっちだよ」
案内しようと歩き出すも、さっきと同様、その場で行進して進まない。
完全に遊んでやがる。
と、振り返り西円寺を怒ろうとしたが、腕を掴む姿が視界に入り、意識が別次元に持って行かれ怒りの言葉が喉で詰まる。
同じく西円寺も今の状況を意識したのか、表情が崩れると同時に、振り下ろされたパンチ。
いつものキレは無く、なよなよパンチなそれを俺は避けた。
威嚇。明らかに威嚇している。
「ドードードウ」
手のひらで牽制しつつ、落ち着かせる。
何かないかと考え、結果、一番効果のありそうな方法を用いた。
「2番目の元素は?」
「...ヘリウム(He)」
「4x÷2=8、x=?」
「...4」
勉強する事で忘れる。
多分、認めたくはないが、俺たちはおそらく同類だ。
問いに対する集中力が違う。
これにより、余計な思考を排除する事が出来る。
「...簡単すぎる」
「そうだな、じゃあ___ 」
お互いに問題を出しながら保健室へと向かう。
不正解の無いまま保健室に辿り着くと、正体不明の違和感に思考が止まった。
保健室は本当にここなのか、と、曖昧な記憶に疑問を抱く。
しかし、扉の表記には保健室と書いてある。
間違いは無い。
俺は扉を開け、中を確認するも、誰かが居る気配が無い。
呼びかけてみても反応は無く、時計の音がチクタクと、一秒を刻んでいくだけだった。
誰もいない空間に、こちらの空間までも侵食していくような感覚を感じる。
頭を揺さぶり視界を乱すと、元に戻った。
「誰もいねぇな」
「...そうね」
また保健室かと、西円寺の転入初日を思い出し、迫る拳を幻覚に見て一歩後ずさる。
俺の奇怪な動きに、西円寺は眼を丸くする。
「いや、なんでも無い。中入ろーぜ」
「...うん」
室内に足を踏み込む。
______ ピシッ。
脳内に走るノイズに視界が割れる。
脳内の情報、知識が溢れ出ていくと、そのまま消失していきその場で思い出せなくなっていく。
圧縮されるような頭痛に、耳鳴り。
「______##ミ#??」
五感が乱されていく。
西円寺に名前を呼ばれた気がしたが、音が乱れて聞き取ることが出来ない。
と言うより、そもそも、すでに『自分の名前』を思い出す事が出来ない。
手放してはならない。
思い出せ。
西円寺の言葉をしっかりと捉えろ。
未だ呼び続けている西円寺の声に全神経を集中させる。
乗り物酔いの様に気持ちが悪いが、呼吸を整え耐える。
そして、次第に聞こえてくる俺の名前を、ついに捉えた。
「成宮くん!」
成宮 学
そう、俺はそんな名前だった。
噛み合う歯車の様に動き出す現実。
ぼやけて霞んでいた視界がクリアになると、居なかったはずの保健室に、人が座っていた。
「何が...起きた?」
退屈そうに頬杖をつき、片手でポータブルゲーム機を操作している女性は、視線だけ動かしこちらを見る。
白衣姿からして、保険の先生だろうか。
瞳の輝きは虚ろで、生気を感じられない。
しかし、俺達を認識した途端、輝きを取り戻し、ニヤリと笑う。
そして、ポータブルゲーム機の電源を落とし、机に置いた。
「ふーん、君の選択は、世界なんかより、彼なんだな」
そう言って立ち上がると、笑いを堪えられずにクククと喉を鳴らし、赤茶色のポニーテールを揺らす。
「良かったな少年」
「何が?」
またも堪えきれずに笑い出すこの人は、俺の疑問には答えてはくれなかった。