勇者として旅立てば
意識が自分の体に戻って真っ先に感じたのは、堪え切れないほどの吐き気だった。
思わず前屈みになると、いつの間にか足元に置いてあったバケツに胃の中身をぶちまける。
胃液の、鼻を刺すような刺激臭が部屋に充満した。
胃の中のものはあらかた出し切ったはずなのに、それでも吐き気が治らない。
肉を貫く感触が、生暖かい血の温度が、鼻をつく鉄の臭いが未だに残っているような気がする。
ジフスの刺された直後の睨みつけるような目が、傷を開かれ痛みに堪える顔が、死ぬ間際の誰かを思う顔が頭の中で渦巻いている。
カインはあれでまだマシだと語った。
旅立てば、あれより非道いことを自分の手でやるんだぞ、と。
やがて吐き気と思考が落ち着いた頃、ソフィが水の入ったコップを渡してくれた。
ありがたく受け取り、口をすすぐ。
口の中の不快感がだいぶマシになる。
「水、ありがとう、ソフィ。だいぶマシになったよ。
バケツも助かった」
「いえ、お気になさらないでください。
こうなると分かった上で強行したのは私ですから、恨まれこそすれ、感謝されることではありません」
そう答えつつ、ほかのみんなにも水を配るソフィの顔はとても申し訳なさそうで、とてもじゃないが恨むことは出来なかった。
しばらくして全員が落ち着いたタイミングを見計らって、ソフィが話し始めた。
「さて、もうご理解いただけたと思いますが、いくら「正義」という免罪符があっても、人を殺めるというのは、精神的にとても辛い行為です。
この世界で生きていく以上、やむを得ない殺しを行うことはあるでしょう。
ですが、勇者として旅立てば、自ら進んで人を殺めなくてはなりません。
魔王を、いえ、悪としての生き方しか知らなかった、魔人族を討つ旅だから」
「それは……」
この世界に来ることを決めた時に覚悟は出来たつもりだった。
だけど実際は、正義のためと自分に言い聞かせて目を背けていただけで、こうして現実を突きつけられた今、直ぐにでも逃げ出してしまいたい気持ちにかられている。
「無理なら無理でかまいません。
この世界にもそうして夢を諦める人が少なからずいますから、自分のためでもない事の為に無理をしなくてもいいんです」
「……少し考える時間をくれないか」
とても優しい言葉だった。
思わず嫌だと言ってしまいそうになるのを必死に堪えて、それでも逃げ道を、甘えの残った言葉を返すことしか出来なかった。
「元よりそのつもりです。
これからもこのような機会があればお知らせします。判断の一助にしてもかまいませんし、旅立つための精神修行としてもかまいません。
今回よりもキツイ案件ばかりでしょうから、これ以上は耐えられる気がしないのであれば参加しなくてもかまいません。
そこの判断は皆さんにお任せします。
皆さまがどのような判断を下したかは、旅立ちの日の集合を持って確認とします。
どうか、無理のない選択をしてください」
ソフィはそう言い残して階段を下っていった。
残された私達の誰もが俯き、重い空気に包まれる。
なんとなしに手を見る。
一滴の血も付いていない綺麗な手に、ほっと息を吐き目を外す。
それでもしばらくすると、手が生暖かい気がして、また綺麗なことを確認する。
何度も繰り返すうちに、肉を貫いた感覚は薄れ、それ以外のことも、死ぬ間際のジフスの顔なんかも思い出すようになってきた。
彼の顔は恐怖に呑まれても、痛みに歪んでもいなかったし、むしろ死ぬ事を受け入れているような表情すら浮かべていた。
それでも、多少の恐怖の色はあったし、歪んでなかっただけで、痛みをを堪えてはいた。
死を受け入れた風と言っても、決して晴々とした表情では無く、やるせないような、とても寂しげな顔ではあった。
彼は悪人だったのだろうが、それでもあんな顔を見せられて、「正義」の免罪符を掲げることは出来無かった。
どれほどの時間が経ったのかはわからない。
最初に動いたのは悠だった。
腹が鳴っていた割にいつもみたいに「お腹すいた」とは言ってなかったのは空気を読んだんだろう。
それを皮切りに、一人、また一人と階段を下っていき、気づけば残っているのは私と大地だけだった。
「なあ、朧。
魔王ってのはさ、魔人族なんだよな」
大地が珍しく呟くように聞いてきた。
こいつがこういう喋り方をするときは自分の中で整理したいことがある時だ。
独り言のようなものだから、別に返事をしなくても勝手に喋るけど、何となく返事を返した。
「てことはさ、人なんだろ」
「だろうな」
「周りに止めてくれる人はいなかったんかな」
「さあな。もしそうだったとして、どうすんだ?」
「俺さ、ガキのワガママは誰かが止めてやらなくちゃいけないと思うんだよ」
「ガキか」
「ガキだよ。やっていい事と悪い事の分別もつかないクソガキだ」
「そうか」
多分、大地は行きたがってる。
それでも、殺す覚悟だけが、一番肝心な覚悟だけが出来ずに、今は迷ってる状態だ。
根拠のない自信だったが間違ってないと思った。
事実、旅立ちの日に一番に集合場所に居たのは大地だった。
「悪い、変な相談したな」
「気にすんな。みんなどうするのか気になってはいたんだ」
「そうか。――俺もいくわ」
大地も階段を下っていき、とうとう私一人が残る形となった。
誰の目も無くなり、体から一気に力が抜ける。
結構参っていたと思ったがそれでも今、こうして抜ける力が残っている程度には周りの目を気にしていたらしい。
腑抜けた体に力を入れ直す気にもならず、そのまま重力に従って仰向けに寝転がった。
「……俺は、どうしたいんだろうな」
「ひとまず、食事にされてはいかがですか?」
返ってくるとは思わなかった答えに驚き、飛び起きる。
「ってなんだ、カインか。
いつからそこにいたんだ?」
「今来たところです。
バケツを片付けに来たのですが、まさかまだ残っていらっしゃるとは思いませんでした。
窓がないから分からないかも知れませんけど、もう夜ですよ。
お腹、空いてませんか?」
「言われてみれば……」
少し冷たく感じる腹に手を当てる。
胃の中が空っぽなのを認識したせいか盛大にお腹が鳴った。
「今日は魚料理です。
他のよりはしっかり食べれるでしょう?」
たしかに今肉を出されても食べれる気がしない。
お粥みたいなグチャグチャのも多分無理。
献立にまで気を使ってくれるカインには、正直頭が上がらない。
「カインはもう食べたのか?」
「まだですよ。これが終わったら一段落入れようと思ってた所です」
「そっか。じゃあ片付け手伝うよ。んで、一緒に飯食おうぜ」
なんとなく一人で食べる気にもならず一緒に食べないかと提案するも、返事がない。
「カイン?」
「あっ、すいません。
まさかさっきの今でそんな提案をされるとは思わずつい……でもそうですね。一緒に食べましょうか。
いい機会ですし、オボロ様のいた世界のお話でも聴かせてください」
「おう」
嬉しそうに微笑むカインをみて自覚した。今さっきの強烈な経験より、いつもの感覚を優先させてしまうほどに思考が麻痺してるらしい。
ただ、今はそれがありがたかった。