α-3
炎天下の中、カイは両手に握りしめたライフルを、そっと胸へと引き寄せた。彼の手は汗でしとどに濡れており、加えて帽子を被っていない額からは、熱を帯びた汗が滝のように流れ出す。カイは、手に持ったライフルをうっかり落としてしまわないよう、自身の細い身体で支えつつ、隊列の中を進む。
時に国歌を大声で歌いながら、時に手に持ったライフルを前に構えながら、少年たちはほとんど同時に両手足を動かす。定期的に行われる彼らのこの行進は、日が暮れるまで続く。
「ガキども、まだ日は昇ってるぞ! もたもたするな! 導師様への忠誠の深さはそこらの水たまりより浅いのか!」
年配の小太りの男が、少年たちに向けて声を荒げる。カイたちをはじめ、リベルタス帝国の少年兵を養成する収容所が作り出した日陰に置かれた椅子に座っていた男は、口に含んでいた煙草を少年兵たちのいた方角へと投げつける。オレンジ色の紙で巻かれた煙草は、小さい弧を描きながらも、彼らの隊列には程遠い地点で音もなく落ちていった。
二、三度小さく舌打ちし、ふうっ、と男が灰白色の息を吐き出すのを目にして、カイの少し後方で行進していた八歳の少年――238番が、自身の肌の色と同じ茶褐色の唇を、小さく動かす。
「導師様の前で煙草臭い息しかできないオッサンが、偉そうにしやがって」
彼がそう呟いた瞬間、小太りの男は座っていた椅子から勢いよく立ち上がった。先ほどまで座っていたそれを強く蹴り上げると同時に、大きく両手を振りながら少年たちの元へと歩み寄る。止まれ、止まれ! 行進、やめ! 野太い男の声が、少年たちが行進していた広大な特訓場一帯に響く。
男の声を耳にしたカイやアルフたちは、まばらに足を止めた。直に陽光に照らされ、あたかも溶岩のように熱い赤土が、裸足のまま特訓していた彼らの素足へ容赦なく熱と痛みを与える。だが、そのことについて誰も弱音を吐くことなく、全員が小太りの男の言葉に耳を傾けていた。
「誰だ、俺様のことを悪く言いやがったカスは! ええっ。誰だ、言え! 言わないと、お前ら全員今晩のパンは無しだ!」
早口で捲し立てる男の威圧的な口調を前に、一人の少年が、小刻みに震えた右手で238番を指さす。そして、声高に叫んだ。
「上官殿、こいつです。238番ですっ! そいつが、上官殿を悪く言いました! 『導師様の前で、汚い息を吐く無能のブタ男』と言っていました!」
カイは、思わず声のした方角を振り返る。そこには、顔中を泥で汚した十四歳の少年――172番が、口元をうっすらと歪めながら立っていた。続いて、とうの238番へと顔を向けると、自分に向かって近づいてくる男を前に、カチカチと歯を鳴らしている。
「も、申し訳ありません。上官殿! 申し訳ありません、上官殿。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……」
八歳の少年が、嗚咽交じりに叫ぶ。だが、そんな彼を庇おうとする者はなく、カイやアルフを含め周囲にいた少年たちは、無言のままその様子を眺めていた。238番の声は、男との距離が縮まるにしたがって、徐々に小さくなっていく。やがて、顔面から耳の先まで紅潮した男が険しい面持ちで、238番の前に立ちはだかる。
「何が『申し訳ありません』だ! ふざけんじゃねえ、卑しいゴミが!」
男はそう言うと、固く握りしめた自らの拳を、238番の顔面へと振り下ろした。辺りに、鈍い音が木霊する。
238番がとっさに防御するよりも前に、男はさらに拳を彼目がけて浴びせかける。二、三度繰り返したところで、幼い少年の身体は赤土に倒れ込むとともに、彼の鼻と口から、赤黒い血が地面に垂れる。そんな238番を前に、男は彼の腹を力強く蹴り上げる。それを幾度も幾度も繰り返し、ぜえぜえと息を切らしたところで、小太りの男はふいにその場に屈み込むと、虚ろな瞳で空を眺める238番の首根っこを鷲掴みにした。
「おらっ、立てよ、おい! 238番とか言ったな、お前はここから『卒業』だ!」
『卒業』――その言葉を耳にしたカイたちに戦慄が走ると同時に、238番の黒い瞳がかっと見開かれた。小太りの男は構わず、満足げな笑みを浮かべてさらに言葉を続ける。
「そうだな、どこがいい? パリか、ロンドンか。何ならトーキョーでもいいぞ。安心しろ、この前の211番はちゃんと卒業できたという報告も上がっている。なに、我らが導師様へ己の忠誠を示すまたとないチャンスだ。せいぜい誇りに思うんだな」
男の声が、238番の耳の中で何度も木霊する。彼の両目は赤く充血し、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちていく。幼い身体には耐え切れない静寂な空気の中、238番の涙声がカイたちの耳に入る。
「いやだ、卒業だけはいやだ! 死にたくない、死にたくないよお! たすけて、だれか。たすけ――」
顔を自身の血と涙で濡らした238番の声は、男の足が彼の顔を踏みつけたことにより、あっけなく途絶える。熱を帯びた赤土の地面へ、茶褐色の肌をした少年の後頭部を強く押し付けつつ、男はカイたちに顔を向ける。
「やかましいガキめ。この期に及んで、馬鹿げたことをほざきやがって。いいか、お前ら。お前たちも、ここリベルタス帝国の戦士なら、導師様のために命を捧げろ! 俺が戻ってくるまで、小休止!」
そう叫ぶと、男は失神した238番の身体を引きずりながら、収容所へ向かってのそのそ歩いて行った。その姿は、獲物を自分の縄張りへと持ち帰る猛獣のように、カイには感じられた。
危なかった、僕たちの食い扶持がなくなるところだったよ。よくやった、172番。ありがとう――少年たちが口々に、172番への感謝を告げる。当の本人は、次々に湧いてくる称賛を一身に浴びながらも、歪んだ薄笑いを崩さないまま、くつくつと声を漏らしていた。
そんな様子をつと眺めていたカイは、近くにやって来ていたアルフのそばへ歩み寄ると、彼が纏っていた土と泥まみれの服の裾を強く掴んだ。それに気づいたアルフは小さく振り返り、どうした、と十三歳の少年に穏やかな口調で尋ねる。それに応じる形で、カイは十六歳の少年に向けてぽつりと呟いた。
「兄貴、あんなの正しいの? 同じ仲間同士で裏切って、『卒業』――いいや、知らない街での自爆テロを強要されて。それだけじゃない、今朝のことだって。おかしいよ、こんなの。だってぼくたちは、帝国軍が攻めてきて、無理矢理連れて来させられて、それで――」
「シッ。これ以上滅多なことを言うんじゃない」
徐々に声のトーンが大きくなりつつあったカイを、アルフは厳しい口調で制する。カイは、一瞬全身を震わせると、静かにその場で俯いた。そんな彼を前に、アルフは声を潜めながらも、先ほどと同じ穏やかな口調で続ける。
「カイの気持ちは、分からなくもない。だけど、238番が上官殿の悪口を言っていたのは事実だ。自分で蒔いた種は、自分で刈り取る。それが、俺たちがここで生きるためのルールだ。さっきの騒ぎに乗じて、172番が上官殿の悪口を好き勝手口走ったのは、俺も正直気に入らないが、結局は238番の自業自得なのさ。分かったろ、だから落ち着け」
諭すかのように告げるアルフの言葉に、カイは黙って頷く。そんな彼の頭に、アルフは自身の白い右手を置いた。大きく温かな手のひらが、汗と泥で汚れた黒髪を整えるかのように、カイの頭上で踊る。
カイの頭に手を置いたまま、アルフは険しい顔つきで収容所を一瞬だけ見つめると、続いて雲一つない青空を仰いだ。視線を遠く空に向けたまま、アルフは自分のそばにいる少年にしか聞こえないほどの小声で呟く。
「それに、今夜は待ちに待った新月の夜だ。やるなら、今夜しかない。前にも言ったが、これは俺たちの未来を懸けた、たった一度のチャンスなんだ。だからそれまでは、何があっても耐えろ」
「兄貴。それ、今ここで言うことじゃないでしょ」
カイが、小さく笑いながら告げる。彼の頭から手を離したアルフは、それもそうだな、とだけ応じて、屈託ない笑顔を見せた。カイもまた、アルフの顔を見上げて、白い歯を見せて笑う。
すると、カイの視界の端に、一人の少女が映った。彼自身よく見知った彼女の姿を目で追いながら、カイはアルフにちら、と顔を向ける。
「ごめん兄貴、ぼくちょっと用事」
早口でそう言うと、カイはすぐさま少女の元へと駆けだしていく。
「あっ、何だよ。おい」
アルフがそう口にするも、彼の言葉が届いているのかいないのか、カイの足は止まることなく進み続けていた。
数十秒ほどの時間をかけて、カイが辿り着いたのは薄汚れた収容所の脇に取り付けられた螺旋階段の前だった。カイは、所々に赤錆が付着した螺旋階段を歩く少女へ向かって、声を上げる。
「ビタウ!」
カイの呼びかけを受け、少女――ビタウは、つと足を止めると、眼下に広がる地面へと顔を向ける。そこには、自分と同じ故郷の出身で、彼女と同い年の少年の姿があった。ビタウは思わず、螺旋階段の両脇に取り付けられた古い手すりに象牙色の手をかけ、少年に聞こえるほどの大声で応じる。
「カイ。どうしたの、こんなところで。今は、訓練中じゃないの?」
「今は休憩中。そんなことより。ビタウは、どうなの。その……体調とか、さ」
カイは、一瞬声を詰まらせそうになりながらも、彼女に対して抱いていた率直な疑問を口にする。彼の言葉を前に、ビタウは微笑を浮かべながら、自らの下腹部にそっと手を触れた。
「うん。まあ、いろいろ大変だったけど、ここ最近、ようやく安定期に入ったとこ。何となくだけど、たまにこの子が動いているのが分かる気がする、かな」
明朗な口調で彼女が応えるのを、カイは複雑な心境で聞いていた。ビタウが口にした『この子』――彼女の中に宿った新たな生命。帝国軍の兵士たちから慰み者にされた末にできた、父親も分からない子どもだ。
カイの脳裏に、彼女が涙を流しながらつわりに苦しむ姿が鮮明に蘇る。十三歳である自分の身に宿った命に、どう向き合えば良いか分からず葛藤を重ねる幼なじみを前に、どんな言葉をかけてやればいいかが分からなかった記憶が、再びカイの心に思い起こされた。
それから数週間の時間をかけてもなお、カイにとってそれは、彼自身を辛い思いに駆り立てることに変わりはない。しかし、対するビタウは当時の様子をおくびにも出さずに、無垢な笑顔を少年に向ける。そんな彼女を前に、カイは思わず目を逸らしながらも、弱々しく唇を動かした。
「へ、へえ。そうなんだ」
特に当たり障りのない言葉を漏らす傍ら、カイは心の内で、ビタウへ本当に言ってあげるべき言葉を探し続けていた。
良かったね。おめでとう。大変だろうけど、頑張って――いいや、どれも違う気がする。そう感じたカイは小さくかぶりを振るとともに、またしてもそんな軽々しい言葉を幼なじみへ吐こうとした自分自身に強い嫌悪感を抱いた。数週間前から何も進歩がない自分を殴ってしまいたい、とも考える少年の口は真一文字に閉じられ、上下に強く密着させた歯が小さく軋んだ。
「ねえ、カイ」
自分を呼ぶ声に、カイははっとしたように空を見上げる。対するビタウは、眼下にいる少年に向けて穏やかに笑む。
「そんなに怖い顔しないで。あたしはもう、大丈夫だから」
「大丈夫って、ほんとに?」
カイの問いかけに、ビタウはうん、と言って大きく首を縦に振った。彼女はさらに、凛とした調子で唇を動かす。
「あの時は、あたしもどうすればいいか分かんなくて。だから、カイにもたくさん心配かけちゃって、本当にごめんね。けど、もう決めたよ。この子は、あたしがちゃんと生んで、育てる。それが、あたしがこの子にしてやれる、精一杯のことだから」
無垢な笑顔を崩さないまま、そう口にするビタウを真っすぐに見つめていたカイは、幾度か瞬きをした後、長く息を吐く。そんな少年の瞳には、自分が幼い頃からよく見知った少女ではなく、既に一人の母親として成長を遂げつつある女の姿が映っていた。数週間ぶりにあった幼なじみの変貌ぶりに、カイは戸惑いを隠せないと同時に、ここからは自分が立ち入ることのできない領域であることを直感する。
先ほどビタウが話をしている間、彼女の瞳はカイに向けられたまま、最後まで逸らされることはなかった。それほどに彼女の決意は固いのだろう――そう感じ取ったカイの両手は、いつの間にか手のひらに爪が食い込むほどに、拳が固く握られていた。同い年でありながら、自分よりもよほど大きく見える少女を前に、カイは乾いた唇を自らの舌で舐めると、再びビタウの佇む階段を見上げた。
「ビタウ、あのさ――」
「カイ! そろそろ上官殿が戻ってくる頃合いだ、急いで戻れ!」
背後から聞こえてきた声に、カイが思わず振り向くと、アルフが彼の元へ走りながら小さく手を揺らしていた。カイもまた、アルフのそれに応じるように手を振り返すと、彼と合流すべく小走りに進み始める。アルフの元へ足を向けながらも、カイはあらためてビタウへと視線を向けた。
「ごめん、ぼくもう行かなきゃ。またね、ビタウ」
慌ただしい調子でそう言うと、カイはアルフとともに訓練場へ走り去った。その様子を、ビタウはただ静かに見守っていた。
「まったく、休憩時間にわざわざ女のところへ行くとは。俺より三つも年下のくせに、食えないガキだぜ」
アルフがそう呟くのを耳にしたカイは、訓練場へと向かう足を止めないまま、にっと口角を上げた。そんな彼の顔をちらと見たアルフは半ば呆れながら、まったく、と再びぼやく。小さく溜息を吐くと、アルフは先ほどとは打って変わって、真剣な面持ちでカイに尋ねる。
「カイ、お前。今夜の『あれ』に、あの女も連れて行こうと考えてるのか」
アルフの問いかけに、カイは迷うことなく、うん、と一言だけ答えた。
「だと思ったぜ。言っとくが、女は足枷にしかならないぞ。もしお前が連れて行こうにも、邪魔になるようだったらすぐに切り捨てる。それは覚えとけよ」
「ビタウを連れて行くことに、兄貴は反対?」
「そうじゃない。ただ、俺たちの『計画』をどう上手く進めるか、それを考えてるだけさ」
厳しい口調でそう口にするアルフを脇目に、カイは先ほどのビタウの言葉を思い返した。
――この子は、あたしがちゃんと生んで、育てる。それが、あたしがこの子にしてやれる、精一杯のことだから。
自分も、精一杯のことをやらなきゃ。そう考えるカイの前に、アルフがつと左手を彼の前に持ってきた。おい、あれ見ろよ。小声かつ早口でそう言いながら、左手で何かを指さす彼の指先を、カイは目でそっと追いかける。すると、二人がいるところから十メートルほど離れた、収容所の入り口付近を一人の少女が歩いているのが見えた。
カイと同年代と思しき少女は、遠巻きから見ても分かるほどに容姿端麗であり、胸のあたりまで伸ばした黒髪が、照り付ける陽光を受け、白い艶を反射していた。だが、それよりもカイの目を強く引いたのは、彼女の小柄で華奢な身体が、リベルタス帝国の国旗をモチーフとした軍服を纏っていたことだった。
カイたちを含め、侵略された国や土地の子どもたちが暮らすこの収容所では、男子はおよそ一年にわたる軍事訓練や洗脳を経て、UNIONと戦うための戦士として鍛えられる。対する女子は、兵士たちと交わり次世代の兵士を生み出すか、軍事工場で休みなく働かされる、という具合で性ごとに役割が決まっていた。それは自分たちがいる収容所だけでなく、リベルタス帝国の各地に点在するどの収容所でも同じだと、かつてアルフから聞かされたのを、カイはぼんやりと思い出す。役割の例外としてはひときわ異彩を放つ少女を前に、アルフは声を潜めて説明した。
「『ラム』だ。導師様の元で育成された女さ」
アルフの言葉を聞いたカイもまた、彼に倣い小声で応える。
「ということは、あの人は導師の娘ってこと? なら、どうしてこんなところにいるんだろ」
「いや、導師様とあいつとは、血の繋がりなんてないさ。おおかた導師様の管轄下にある児童施設にでもいたんだろう。正規の軍人にしか許されていないあの服を着ている、ということは、あいつもリベルタスの帝国軍になったんだろうさ」
「へえ。ところで兄貴、あのラムって人のこと知ってるの?」
カイは、アルフの顔と遠くにいる少女――ラムの顔へ、交互に視線を向けながら尋ねる。
「カイが収容所に来る少し前、施設の見学で来ていたのを見たことがある。俺たちのような連中を前にしても顔色一つ変えなかった。それでなおかつ頭の回転も速かったから、お前と同じ十三、四歳にしては気味の悪い女だったぜ。とにかくだ、ラムとはなるべく関わらないようにしろ。あいつに悟られたら、そこまでだ」
行くぞ。苦虫を噛み潰すかのような面持ちで促すアルフに従って、二人は再び訓練場に向けて走り出す。去り際、カイがラムのいた方へちらと顔を向けると、収容所の中へ入ろうとするラムもまた、彼らをじっと見つめていた。ほんの一瞬だけ、自分と彼女の目がぴたと合ったような気がしたカイは、先ほどのアルフの警告を思い起こし、すぐさま前へと向き直る。そして、そのままアルフとともに訓練場へ戻って行った。
二人の身体に、熱を帯びた陽光が容赦なく降り注ぐ。真夏の白い太陽は、未だ青空高くに浮かんでいた。




