α-1
早朝の大通りを行き交う人々の発する音が、幼い少年の耳朶をいびつに刺激する。電話での商談、通勤や通学時の足音、どこか遠くから聞こえてくる喧騒。それら一つ一つの音を聴きながら、路地裏に隠れ潜む少年の眼は、表の通りを歩く人たちへと吸い寄せられる。
上下黒一色のスーツやズボンを着たある中年の男は、少し膨らんだ腹を揺らしながら、足早に通りの端にあるバス停へと進む。また、彼より一回り年上と思しき男女は、カジュアルな服装のまま広大な街へと歩を進める。彼らが繰り広げる雑談の内容は、九歳の少年にはよく理解できなかったが、そもそも理解する必要はないに等しい。
これから自分がなすべき使命を前に、少年の両足が小刻みに震える。ゆっくりと自分の身体を抱きしめた少年の伸びきった爪が、所どころ破けた黄土色の衣服越しに、彼の黒い肌へ鈍痛を与えた。
だいじょうぶ、今のおれならやれる。きっと、導師様も褒めてくれるに違いない。
顔を上気させた少年はそう自分に言い聞かせる一方で、過剰な興奮を抑えようと周囲の光景に目をやった。一面をアスファルトで舗装された大通りには、彼が見たことのない車が大量にある。その両脇には通りに沿って五メートルほどの間隔で配置された小洒落た街灯が並び、そこを隔てた先に大勢の人間が忙しく行き交っていた。彼らのほとんどはみな一様に明るい表情を作ってはいたが、それでも隠しきれないほどの疲弊や苦悶の表情が見え隠れしているように、少年には感じられた。
さらに奥へ視線を向けると、高いコンクリートのビルが大量に建ち並んでいた。あんなに高いビルがあちこちにあれば、中にはもしかしたら天に届くほど高いビルもあるのかもしれない。初めて感じた異様な錯覚を前に、少年は却って興奮を高めていく。
すると、どこからか若い女性の声が少年の耳に入ってきた。少年は、思わず声のした方角へ目を向けると、そこはひときわ高い灰色のビルが建っていた。だが、そんなビルの一角には長方形の形をした窪みが据えられており、その中には白い肌をした二十代ぐらいの女性が大きく映っている。
一瞬巨人かと思った少年だったが、次第にそれがテレビという媒体で、『映像』というものであることを理解していった。以前仲間たちの話で聞いたことはあったけれど、本当にあったなんて。少年が感嘆の溜息を漏らしていると、映像の中の女性が快活に喋り出す。その声は、先ほど彼が聞いたものと同じ声だった。
「続いては、『特集・二十二世紀に向けて』のコーナーです。二十二世紀まであと六箇月を切りましたが、『リベルタス帝国』によるテロの脅威は未だ消え去っていない現状が続いています。このことについて、北方連合国家『UNION』は超法規的措置による解決も視野に入れていますが、両者の武力衝突は避けられないものと見られています。北半球と南半球とで、勢力を二分するUNIONとリベルタス帝国による世界大戦勃発も危惧されているところですが、今回は専門家の意見も交えて――」
女性の話を聞いていた少年は、一度大きくあくびをした。この国の言語を頭に叩き込まれているとは言えども、訳の分からない政治の話は幼い少年の関心を遠ざけるのに十分であった。
やって来た眠気を振り払うようにして、少年は深く息を吸い込む。生暖かく湿った空気が自分の肺を満たしていくことに不思議な感覚を覚えながら、ゆっくりとそれを吐き出していく。そして、意を決したように少年は両手のこぶしを握りしめると、白い短パンのポケットから小型のコントローラーを取り出した。
少年の手のひらほどの大きさもあるそれを前に、少年はただ一つ据えられた赤いボタンへと指を伸ばす。少しずつ指がボタンへと近づくたびに、少年の心臓が激しく高鳴っていく。下手をすれば、『これ』を押す前に心臓が破裂して死んでしまうかもしれない。そんな考えが頭を過った少年の顔と手は、すっかり紅潮し、脂汗が滲み出していた。
興奮と不安とが心の内で渦を巻くのを感じ取りながら、少年は顔を空へ向け、大声で叫ぶ。己の内に渦巻く感情を吐き出しながら叫ぶ少年の表情は、まるで何かを達観したかのように穏やかな笑顔だった。
「どうしさまの名のもとに、わたしはこの身をささげる! エービロギセ・リベルタス! シース!」
通りを歩いていた大衆が、路地裏にいる九歳の少年へ視線を向けると同時に、彼の細い指はコントローラーの赤いボタンを押した。すると、少年の着ていた黄土色の服が内側から眩い光を放ち、一瞬にして激しい轟音と爆発を生み出す。それとともに、十数人の男女が爆発により発生した黒煙に飲み込まれていく。
辺り一帯に響く女性の金切り声を皮切りに、大通りは忽ち混乱と悲鳴に包まれた。
テロだ、逃げろ! 押すな、俺が先だ! またリベルタスの自爆テロだ! そう口々に叫ぶ大衆の前では、既に事切れた人たちが血溜まりの中で力なく横たわり、怪我の痛みに苦しむ人が大勢その場で蹲っていた。
九歳の少年の姿はどこにも見当たらず、代わりに黒焦げになった黄土色の服と、赤茶色の血だけが散乱していた。




