3.ターロの君とファーリューラ 4
垂れ籠める灰色の雲の下で翼は弧を描く。暗海に吹く海風は何時でも強く、冷たく、そして禍々しい。彼は友に連なりこの石の都へ来てからすでに、幾度となくこの暗海へと飛んで来ては白亜の神殿の上空で弧を描いた。そして、神殿へと降下して行った。
純白の聖衣姿に毛織りのショールを巻き付けた老婆が、断崖に面した扉から密やかに現れ、ゆっくりと石段際まで歩を進めて来た。手摺に灰黒色の羽を休める見事な隼の姿に気付くと目を細める。本来警戒心の強い筈の隼はしかし、老婆が近付いても身動き一つしなかった。
「おや?又来ていたのかえ?一体どなたの隼なのだい?お前程の立派な隼だ、さぞ一角のお人の物なのだろう....」
“我は誰の物でもない”
「そうかえ....」
人語を解する隼に驚く事も無く、老婆は平然とその言葉を理解し相槌を打った。そしてすぐに興味を失った態で暗く広がる海を見渡す。
「不吉じゃ....」
老婆は呟きと共に大きな溜息を吐いた。
“この地に封じられた魔物が暴れているようだな”
その言葉に老婆は首を巡らせ隼を見た。
「ほう、お前に分かるのか?隼よ」
“永きに渡り自由を奪われた魔物は大層な怒り様だ。綻びの激しい封印など、もはや破れるのも時間の問題”
「左様、このままでは時間の問題じゃ.....。だが、あの銀の姫ならば......」
“ふむ.....”
突然地が揺れ、隼は飛び立った。老婆は微かによろめき手摺につかまった。
「またじゃ、魔物が暴れておる.....、また封印が綻びる」
やがて揺れが収まると、老婆は封印を繕う儀式の為に神殿へと戻って行った。
「また、地震だっ!」
突然ぐらりと揺れ出した地面に、馬が落ち着きを無くし嘶いた。
「ロセアニアがこんなに地震の多いところだとは思わなかったよ、アルレイ」
ジャスウィンドは自分の馬を宥めながら、傍らでやはり同じく乗馬を宥めようとしている従兄弟を振り返った。
「以前は、地震なんて殆ど無かったんだ。ここ最近だよ、こんなに地震が起きる様になったのは。もしかしたら地中の魔物が目覚めて暴れているのかもしれない」
「地中の魔物?」
「うん」
頷くとアルレイは小高い丘の上から遠くを見渡しながらそちらを指し示した。
「ここをずっと行くと暗海に出る。その暗海を見下ろす断崖の上に大神殿があるんだ。その大神殿の建っている地の奥底に魔物達が封印されているんだ。遠い昔に僕等の先祖が封印した魔物達だよ」
「それって、危なく無いのか?」
「危ないよ。封印が破れたらきっと恐ろしい事になる。このロセアニアはきっと終わりだ」
表情を曇らせるアルレイの言葉に、ジャスウィンドは恐ろし気に息を呑む。
「そんな.....」
ジャスウィンドは声を震わせた。するとアルレイは、こらえきれずに急に笑い出した。
「なっ!?」
「あはははっ!今の君の顔ったら!」
「何だよっ!?騙したのか?」
「魔物の話は本当だよ。でも封印は神殿の大巫女様達がが守っているから大丈夫だよ」
ジャスウィンドがぶつぶつと文句を言いながらもホッと胸を撫で下ろすと、アルレイは笑いながら馬を走らせた。
「あっ!待てよ、アルレイっ」
「嫌だね。姉上の屋敷まで競争しよう、ジャスウィンド!」
「ようし!絶対に追い抜いてやる!」
少年達が楽し気な声を上げながら馬を駆けさせ始めると、数人の供の者達もそれを追って馬を走らせ始めた。
王太子アルレイと王弟の息子であるジャスウィンドは、歳が近い事もあってか、あっという間に打ち解け、学ぶにも遊ぶにも共に行動する事が多くなっていた。今日もこうして遠乗りに出掛けて来たわけだが、その帰りにファーリューラ姫に会いに行く事で二人の意見は一致していた。すっかりファーリューラ姫と仲の良くなった二人は、近頃では彼女の屋敷を尋ねる事も多かったのだ。
気さくな気質の姫は、宮廷から離され養育された為なのか、儀礼や作法といった事に拘る事が無く、少年達が前触れも無く訪れようとも、何時でもその訪れを心から喜び迎えてくれるのだ。
軽やかな羽撃きの音に、庭園の瀟洒なベンチに腰掛けていたファーリューラははっと顔を上げた。傍らに、ベンチの背もたれに停まる隼の姿があった。背の灰黒色に対し、胸は純白に横斑の入った見事な隼である。
「あら...、ごきげんよう、ターロの君」
ファーリューラはぎこちなく微笑んだ。
“何を思い悩んでおるのだ?銀の姫よ”
「あ...」
隼の鋭い観察眼に、ファーリューラは戸惑い口ごもる。
“地底に封じられし魔物の事か?”
ずばり言い当てられて、ファーリューラは軽い驚きに息を吐く。
「貴方は何でもお見通しなのね、ターロの君」
“別にそういうわけでは無い。感が鋭いというだけの事だ”
「地底の魔物の事を知っているのね?」
“ああ。神殿の大巫女がお前を必要としている事も知っている、銀の姫よ”
ファーリューラは溜息と共に自分の両手を見下ろした。
“目覚めた魔物等は地底で怒り狂っている。封印の綻びは酷くなる一方だ。そして地底の最も奥深くに眠る者が目覚めれば........”
ターロの言葉にファーリューラはゾクリと身を震わせた。先日忍びで訪れて来た大巫女の言葉。あの日から胸の内に繰り返し甦ってはファーリューラを悩ませている言葉が、今一度甦る。
『姫様の、そのお能力は、現し身のどの巫よりもお強い。神殿にお上がり下されませ。封ぜられし悪しき者が、今にも目覚めんとしておりまする。姫様のお能力無くして、このロセアニアの存続はありえますまい』
「大巫女様が仰ったの.....」
おずおずと口を開くファーリューラに、ターロは先を促すかの様に首をわずかに傾げた。
「私の能力無くして、ロセアニアの存続はありえないだろうって....」
“ふむ...、それを信じたく無いが為に、思い悩んでおるのか?姫よ?”
ターロの言葉にファーリューラは項垂れた。
「.....神殿になど行きたくはないわ。.....行きたくないけれど、....でも.....」
ファーリューラは苦悩に歪んだ表情を両手で覆い隠した。
「どうしたら良いの?ターロの君、私はどうしたら....?」
“思い悩むのも無理は無かろう。だが我には何も言えない。どうすべきかを決めるは、お前自身だ。ただ、お前自身にとって何が一番大切かを考えてみれば、おのずと取るべき道は決まるのではないか?銀の姫よ”
「何が、一番大切かを.....?」
顔を上げたファーリューラが呟いた時、館の方からファーリューラの名を呼ぶ乳母の声が聞こえて来た。続いて少年達の元気な声が聞こえて来たかと思うと、身軽な少年達が館から飛び出してこちらに駆けて来る様子が見えた。
楽しそうにふざけあい競いあいながら、少年達はファーリューラの元まで飛ぶ様に駆けて来る。その微笑ましい少年達に、ファーリューラは一瞬思い悩んでいた事を忘れる。
「こんにちは、アルレイ王子、ジャスウィンド王子」
立ち上がり二人を迎えるファーリューラの笑顔に、ジャスウィンドもアルレイも嬉しくなる。
「お前ここにいたのか、ターロ!?姿が見えないと思ったら、自分だけさっさとファーリューラの処に来てるなんて!」
ファーリューラの傍らのターロの姿に、ジャスウィンドは半ば呆れながら口を尖らせた。
“悪いか?友よ”
「別に悪く無いけど、ずるいっ」
「まあいいじゃないか、ジャスウィンド」
今ではジャスウィンドの特殊な能力を知るアルレイが、従兄弟の肩をぽんぽんと軽く叩きながら宥める。
“お前は王太子の寛容さを少し見習え、ジャスウィンド”
「ちぇ〜っ」
「何?」
ターロの言葉を理解出来ないアルレイが目を丸くして尋ねる。
「君の寛容さを少し見習えだって」
極り悪気な従兄弟の言葉にアルレイは笑い出す。ファーリューラも思わずくすっと笑いを零し、それを取り繕うかの様にコホんと小さな咳を零す。
「二人ともお茶にしましょう。きっとレティが仕度をしてくれてるわ、おいしいお菓子と一緒に。行きましょう」
少年達は嬉しそうな歓声を上げた。
一番大切なもの......。ターロの助言がファーリューラの脳裡を過る。大切なものなら沢山あると思った。ファーリューラは、大切なものを思い浮かべ内心で指折り数えてみる。指を七本程折って数えた処で、ファーリューラは気付く。それは大切な“もの”ではなく、“者”。大切な人々であった。
父であるアガダル王、良人であるオーヴィス、それにレティやシャドス、叔父であるサラードル王子、勿論今目の前にいる少年達。それから......、精霊達...。いつもまとわりついて来る風の娘達、気紛れだが心強い味方である炎の貴公子達、品の良い水の貴婦人達、人見知りな大地の紳士達.......。
己にとり一番大切な..........。ファーリューラは、そこで又思い悩む。誰もがファーリューラにとっては大切なのだ。一人を選ぶなど、酷であった。オーヴィスの整った容貌が脳裡を占めたが、彼を愛する程に父王をも愛していた。そしてその他の面々も。愛情の質は違えども、皆がファーリューラにとっては失いたく無い人々であったのだ。




