3.ターロの君とファーリューラ 2
十年ぶりに弟の姿を目の前にしてのアガダル王の第一声は、“相変わらず同じ顔だな” 、であった。そう言って機嫌良く笑う兄王の姿に、王弟サラードルは苦笑し、その息子ジャスウィンドは、まじまじと見入った。顔貌は元より、髪の色も瞳の色も、体型も、背の高ささえも、鏡に映したかの様にそっくりな伯父に、ジャスウィンドは子供らしく素直に驚きの表情を浮かべていた。何も驚いたのは彼だけでは無かった。王弟サラードルとその息子を出迎えた王の子供等も又、一様に目を丸くして、父王の顔と叔父の顔を幾度も幾度も見比べたのであった。
帰還したサラードルは、久方ぶりの王宮内をゆるりと見渡した。己の生まれ育った城であるというのに、懐かしい思いこそすれ、己の有るべき処だとはやはり思えなかった。
あの、気が狂うかと思えた程の焦燥が、憎悪が、苦しみが、未だ悲しい痛みとなって胸の奥に燻る。気が狂うかと思う程に恋焦がれ、それ故、殺したい程に憎悪した、あの氷の様に美しかった姉はもういないのだと、サラードルは自分自身に言い聞かせる。
東の有力部族の血を引く王妃と、正式に王太子として立てられたという兄王の長男である甥、そしてその下の幼い甥や姪達、又、他の王族の面々に再会、もしくは初めて対面し、サラードルは時代の流れを実感する。時は確実に流れたのだと....。そして最後に、良人に手を引かれながらひっそりと歩み出て来た兄王の庶出の長子....、その銀の姫君の目も眩む程の美しさに、サラードルは息が止まるかという程の驚愕を隠す事が出来なかった。
「クウィンディラ......」
無意識の内に、溜息の様な声が一つの名を紡いでいた。
ファーリューラは、久方ぶりに会う叔父の呟きとその様子に戸惑い、オーヴィスは訝しみ、アガダル王は笑顔のまま弟王子の肩に手を乗せた。
「上の娘だ、サラ」
王は、弟を正気付かせようとでもするかの様に、その肩を軽く揺すった。
「ファーリューラです、叔父上様。ようこそお戻り下されました」
輝く様な笑顔で言うと、ファーリューラは深々と膝を折って頭を下げた。見事な銀の髪がさらさらと流れた。
サラードルは我に返った。
「ファーリューラか.....、あの銀の髪のファーリューラか、....美しくなったものだな....」
サラードルは目を細め、姪の笑顔を眺めた。
(ああ....、クウィンディラはこんな笑顔を見せた事は無かった........、そうだ、只の一度も無かった........)
巫女の表情をしたクウィンディラの顔が、目の前の娘の顔に重なる。
(クウィンディラは......そうだった...クウィンディラの瞳は、深い色をしていた。....そうだ、深い...総てを見透かすかの様な紺碧の色をしていた。その実、何も映しはしない瞳だった.....。この娘の様な、生き生きとした琥珀の輝く瞳では無かった......)
総てが甦る。クウィンディラの表情の無い眼差しが、あの青味を帯びた見事な銀の髪の手触りが、あの白い肌が、あの感情の無い巫女の声が........、まるで昨日の事の様にまざまざとサラードルの中で甦る。殺したい程に焦がれた血を分けた姉。サラードルは、最後に目にした姉姫の静かな涙を思い出す。いや、あれは最初で最後の、己が目にしたクウィンディラの涙であったと彼は思い直す。焦がれ、憎み、愛した。否、未だに愛していた。サラードルは未だに呪縛に囚われたままだったのである。
「驚いたか? 似ていただろう?」
人目の無くなった時に、兄王は弟に言った。微笑んではいたが、その瞳は笑ってはいなかった。
「似ているなんてものじゃ無いだろう? 兄者よ.........。生き写しだ」
サラードルの押し殺した様な声に、アガダル王は微笑んだまま答えない。ふいに恐ろしい思いに取り憑かれ、サラードルは思わず兄の腕を掴んでいた。
「あれは真、お前の娘か? 兄者?」
「何が言いたいのだ? サラードル」
「クウィンディラの娘では無いのか?」
その声は掠れ、いや声にさえなってはいない囁きであった。
「大巫女であった姉上が、禁を犯したとでも言いたいのか?子を孕み産み落としたとでも言いたいのか?」
鋭い憤怒の囁きと共に、アガダルはサラードルを睨め付けた。その瞳には一瞬、確かに憎しみが浮かび、そして消えた。王は、弟から目を逸らし、フッと再び笑みを浮かべた。
「姪が伯母に似るは良くある事であろう。ファーリューラは真、私の娘だ」
アガダル王は微笑んではいたが、サラードルへと向けた瞳は、やはり笑ってはいなかった。
王弟の帰還を祝っての宴の最中、しきりに寄って来る貴族等豪族等へ、適当な言葉を返しながらもサラードルの目は、気付けば兄王の庶出の娘を追っていた。
母親は確か村娘であったか....。サラードルは杯を傾けながら、思い起こす。そして傍らの兄王へと目を向ける。あの銀の姫の母親に興味が湧いた。
「何だ?」
双子の弟の視線を受け止めるや、兄王は朗らかに尋ねた。
「うむ....」
サラードルは言い淀みつつ王妃へと素早く目を走らせ、貴族の夫人等と何やら楽し気に語り合っている姿を確かめると、口を開いた。
「あの銀の姫の母親とは、どんな娘だったんだ?兄者」
アガダルは弟と同じ琥珀色の瞳を軽く見張ったが、次の瞬間には瞳を細め微笑んでいた。
「今更、気になるのか?」
「兄者が惚れた娘だったのだろう?」
「十年前に再会した折は、ファーリューラの母の事など、微塵の興味も示さなかったであろうに」
「.....そうだな....」
素直に同意するサラードルに、アガダルは軽く息を吐く。この弟が今、何を思い何を考え、そして何を疑っているかなど分かっていた。アガダルは、弟から視線を逸らした。
「もの静かで、美しくて、不幸な娘だったよ....、サラ」
それを聞いたサラードルが、どのような表情をしたかは、アガダルには分からなかった。
ジャスウィンドが、親指と人差し指を口に銜え思いきり吹くと、曇り空に軽快な指笛が鳴り響いた。風の比較的穏やかな昼下がりの事であった。間も無くして、空を飛来する美しい姿が現れた。
「あ、来たわ」
ジャスウィンドの傍らで空を見上げていた美しい従姉は、嬉しそうな笑顔を少年に向けた。この年上の従姉の屈託の無い表情に、ジャスウィンドも又嬉しくなる。
先日、生まれて初めて会って言葉を交わした時、ジャスウィンドはこの従姉のあまりに見事な青味を帯びた銀の髪と、その美貌にどぎまぎとしたが、そんな事よりも彼女を取り巻く空気のあまりの心地良さに吃驚してしまった。きっと沢山の神々に愛されているに違いないと思った。
(だって、まるで婆様達の傍にいるみたいだもの....、ううん、それ以上だもの....)
鳥達や獣達の言葉を解する特殊な能力を持つジャスウィンドは、故郷の呪い婆とその弟子達に随分と可愛がられた。それ故、少年は良く知っていた、その彼女達の周りを包む空気という物を.....。
『婆達の呪いはな、この大地の様々な神々のお力なのじゃよ。地、空、風、花、木、河、炎.......、おお、とてもとても総ての神々の名を言えはせん。あまりに多過ぎてな。あらゆる物に神は宿っておらるるのじゃよ。その神々に厭われては呪い師にはなれぬのじゃよ、ジャスウィンド』
呪い婆は、ジャスウィンドにそう教えてくれた。
隼ターロは、何とも優雅に友である少年の革製の篭手に被われた腕に舞い降りた。
「僕の従姉殿だよ、ターロ」
“ふむ”
隼は、まるで値踏みするかの様に友の従姉だという姫君をじっと見た。
“我は空の王者ターロだ、よしなに”
「お前、態度がでかいぞ」
ジャスウィンドがターロを咎めると、傍らの従姉がくすっと笑った。
「わたくしはファーリューラ、どうぞよしなに、空の王者ターロの君よ」
ジャスウィンドは驚き、長いスカートをつまみ上げて礼儀正しく膝を折り頭を下げる美しい従姉をまじまじと見る。ターロは実に満足げに一声啼いた。
「ターロの言う事が、ひょっとして分かるの? ファーリューラ?」
銀の姫君は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。金色の瞳が自分と同じ色をしている事に、少年は初めて気付いた。
「内緒にして頂戴、お願い、王子様」
ファーリューラは少年を伺い見る様に、小首を傾げながら口の前で両手を合わせた。
「うん、いいけど....」
「でも、国王陛下とシャドスとレティと、あと私の良人は知っているの」
ファーリューラは少女の様にクスっと笑った。
この従姉の良人がオーヴィスである事をジャスウィンドは知っている。オーヴィスはよく少年に剣の稽古をつけてくれたし、少年の遊び相手をしてくれた。それ故、彼の帰国が決まった時、少年は実に残念がったものであったが.......、成る程...と、ジャスウィンドは思った。オーヴィスはこの美しい従姉と結婚する為にロセアニアに戻ったのかと、少年は勝手に解釈したのだ。
「何て美しい翼なのかしら...、ねえターロの君、触っても良くて?」
“うむ、特別に許す、銀の姫よ”
「やれやれ」
ジャスウィンドは友の尊大な物言いに呆れ、溜息を洩らした。ファーリューラは嬉しそうにターロの翼を撫でている。
「全く素直じゃないなあ、お前は。嬉しいならもっと嬉しそうにすればいいのに、気取っちゃって」
ターロは少年の言葉に無視を決め込む。ファーリューラはくすくすと楽しそうに笑った。
“お前は口が悪いジャスウィンド、少しは姫君を見習え”
「ちぇっ、説教かよ」
“おや、客人だ”
「ん?」
ジャスウィンドがターロの示す方を振り返ると、向こうの植え込みの影からこちらを伺う人物と目がかち合った。相手が慌てた様に踵を返した。
「あっ、ちょっと待って」
ジャスウィンドは駆け出した。ターロが不満げな声と共に空に羽撃く。
「待てったらアルレイっ!」
一目散に駆けて行く従弟の姿に、ファーリューラは目を丸くするも、ターロが近くの木の枝に羽を休めると肩を竦めて微笑みかけた。




