2.ファーリューラ 9
「やっぱり来たか?オーヴィスよ」
着替えを済ませたオーヴィスが練武室へと足を踏み入れると、兄シャドスは弟を認めるなり、そう言った。
「まさか、こんな悪天候の中を飛んで来るとは思わなかったが....」
小姓達の稽古は終わったらしく、練武室には今、この兄弟しかいない。
「兄上....、私は嫌です」
開口一番のオーヴィスの言葉は、シャドスも半ば予想していた物であった。
「良い話だと思うのだがな、お前にとっても、エディンヴァルにとっても」
「なれば兄上がお受け下さい」
オーヴィスはきっぱりと言った。この弟にしては珍しく反抗的だとシャドスは考えるも、無理も無いであろうかとも思う。
「先方はお前を名指しして来たのだ。カドラードの息女は、お前に恋慕しているらしいからな」
「私は、その御息女を知りません」
「何だ、知らんのか?あの美女を?噂位は耳にしているだろうが?いくら堅物のお前でも....」
オーヴィスは不機嫌そうな蒼い瞳を兄から逸らした。
カドラード家______エディンヴァル家に匹敵する名家であった。だが不幸な事に、現当主には十八になる娘以外に子が無かった。一昨年、跡継ぎであった子息が三十六の歳で、病の末に子も無いまま身罷ってしまったのだ。それ以外の子息等も、親不孝にも既に先立ってしまっていた。残されたのは、今では十八の末娘唯一人であった。老齢のカドラードの当主は、跡目を継がせる為の娘婿を求めていた。そして彼が白羽の矢を立てたのが、国王の近習を務めるエディンヴァル当主の弟であったというわけである。無論エディンヴァル当主の巧みな根回しが功を奏した事は言うまでも無いのだが......。
「オーヴィスよ、カドラードには跡目を継ぐ者が必要なのだよ。当主は、お前をとても買って下さっている。考えてみたらどうだ?お前は今、エディンヴァルの跡継ぎではあるが、私に子でも出来ればお前は唯の当主の弟だ。カドラードの家督を継ぐ方が良いであろうが?どう考えたって....。尤も、私に子が出来なければ、エディンヴァルの家督も継いでもらわねばならないだろうが」
オーヴィスは、無言のままであった。
「姫を思い切る、良い機会なのではないか?」
オーヴィスは顔を上げて兄を見た。そこには、たった一人の弟を案ずる兄の瞳があった。
「少し.....、考えさせて下さい、兄上....」
オーヴィスの力無い懇願に、シャドスは頷いた。
冬の暗海は、波が荒々しい。日の神の長い不在を拗ねた風の精霊達が、海に八つ当たりをするのである。
頭からすっぽりと毛織りのショールを被った小さな老婆は、そんな冬の暗海を暫し眺めた。王はやはり首を縦には振らなかった。名君との誉れも高いアガダル王も、話が銀の姫君の事となると痴れ者になる。
『いかな大巫女殿の仰せとはいえ、そればかりは出来ぬ』
王の頑な様を思い起こすと、大巫女の心の内には大きな怒りが沸き起こる。
(愚か者め!あたら能力に恵まれし娘を......、精霊達の加護を受けし娘を.....、この大巫女よりも勝れたる能力を秘めた娘であろうやというのに......)
大巫女は、結んだ掌を怒りに震わせた。
「大巫女様、どうぞ中へ。冷えはお体に毒でござりまする」
後ろからひっそりとした声で話しかけられ、老巫女は今気付いたとでも言うかの様に寒さに身を震わせた。
「そうじゃな、そうしよう」
大巫女には、このところ頓に気にかかる事が有った。大いなる魔物の封じられた地の封印が、昔に比べ綻びやすくなっているのだ。以前よりもそれを繕わねばならぬ頻度が高くなっているのである。人間の持つ神秘の能力は、時と共に弱まっているのであろう.......。だが魔物の力は衰えない、大巫女は空恐ろしい予感がした。
王は書状を広げながら、深い溜息と共に眉間を押さえた。先日の嵐で北の地域では水害が起きていたが、つい先程使いが知らせて寄越した被害状況は、思ったよりも酷い模様であり、直ちに援助の物資を届けさせねばならない。
北の海は荒い。昔から度々荒れては、その地を飲み込み甚大な被害を出して来た。また土木事業の為、国庫のどれ程を費やさねばならぬのか。前回の洪水の後、かなりの国費を費やし大掛かりな堤防を築いたというのに.....、その一部が決壊したという。
アガダル王は、取りあえずの支援物資と援助の人材を早々に送り出す様に命じてから就寝の為に席を立ち上がった。夜も更けている。王の表情には疲労の色が濃かった。
「私も近々様子を見に行く。良いな?宰相よ」
去り際に、王は宰相の皺の多い顔を振り返る。
「止めてもお出でになられるのでありましょう?陛下」
「まあな、堤防の決壊がどれ程の物であったのか、王として見ておく必要があろう。それに民を励ましてやりたい」
「分かりました、陛下」
「オーヴィス、供をせよ。他の人選はお前に任せる。忍んで行く故、余り仰々しくするな」
「御意」
頷くオーヴィスの手前で、宰相は皺の寄った顔の眉間に更に深く皺を寄せた。
「お言葉ながら陛下、最低限の護衛はお連れ下さいましょうな?」
「分かっておるから、案ずるな。お前ももう寝ろ、年寄りに夜更かしはきつかろう?」
王は宰相をからかうと、守役を伴って執務室を後にした。
「暫くは娘をおとなってやれぬな....」
溜息混じりの王の言葉に、オーヴィスはファーリューラを思い浮かべる。
『お父様が恋しい時は、ここからお城を眺めるの.....』
姫君の淋し気な言葉が甦った。
「書状でもしたためて、機嫌を取っておくか...」
「きっとお喜びになられましょう、姫君は」
照れ隠しなのか苦笑気味に言う王の言葉に、オーヴィスは微笑む。そういえば..と、王が守役の青年を振り返った。
「お前には、カドラードの娘との婚姻の話が持ち上がっているそうだな?オーヴィスよ」
思い出した様に尋ねる王の言葉に、オーヴィスは一瞬、表情を曇らせた。
「はい....、どうも、そのようです」
「何だ?気の無い素振りだな。気に入らぬのか?」
「い、いえ、滅相もございません、陛下」
オーヴィスは慌てて否定した。
「ただ、私には過分な話かと.....」
口ごもり視線を落とす傍らの青年の姿に、王は、ふむと小さな声を漏らし、何やら物思う風であった。
静かな室内に流れる哲学的とも言える話の内容の半分さえも、ファーリューラの耳には入っていなかった。確かに教師の話は、若いファーリュラにとって手放しで面白いと喜べる内容の物では無かったが、それでも普段ならばきちんと礼儀を弁え、授業を聞くファーリューラであったのだ。心ここにあらずの態であるファーリューラの様子に、教師は授業を中断させた。それにも拘らず、無言で座ったまま身動き一つしない少女に、教師は困った様に声をかけた。
「あ、はい、ええと....」
慌てて目の前に開いていた本に目を落とすファーリューラに、老翁は、柔和な笑い声を立てた。
「如何されましたかな?姫様。この処、ご勉学に身が入らぬご様子ですな」
「先生...」
ファーリューラは顔を赤らめた。
「ごめんなさい....」
「ご不在のお父君のご心配をしておられるのですかな?それとも、他に姫様のお心を悩ませる事でもおありですかな?」
「.....モザルス先生は、何でもお見通しね」
ファーリューラは極り悪そうに小さく肩を竦めた。旅の空の下にいる父王を、確かに案じていた。だがモザルス老師の指摘通り、それだけでは無かった。
「北の方では、この間の大雨で沢山の人々が家を流されてしまったのでしょう?先生」
「はい、北の土地は、この辺りと異なり土地が低いですからなあ....、加えて北の海の神は、気が荒いですからな」
「もう、そんなに危ないところには住まなければ良いのに」
「そうですなあ、姫様の仰せの通りなのですが、その土地の者達にしてみれば、住み慣れた土地を離れたくは無いのでしょう.....。何より、かの地には土着の神がお出でになりまする。その神を捨て、他の地へ移り住むなどとは、北の民達には思いも寄らぬ事なのでしょう」
「その神は水から彼らを守っては下さらなかったのに?」
「民達は、神の祟りだと、こう考えましょう」
「神の祟り....」
ファーリューラは呟いた。
「本当にそうかしら......」
神殿の巫女や神官達は、どう考えているのだろう.....。ファーリューラは、ふと疑問に思い溜息を吐いた。彼女は知っているのだ。北の地の土着の神とは、風の神だという事を。特に力を持った、気の荒い風の精霊達なのだ。この辺りに住む風の娘達が、そう教えてくれた。北の海の精霊達の気が荒い事も、風の娘達により聞き知っていたし、日の神の留守の間、風の精霊達の気も塞ぎ、海の精霊達とよく争うのだという事も聞き知っていた。だからそれは、祟りなどでは無いのだ......。だがファーリューラがそれを口にする事は無かった。何故なら、そういった事を語る事を、父王に堅く禁じられていたからである。父王はファーリューラの望む事の多くを許してくれたが、ただ彼女の持つ神秘の能力が、微塵でも人に知れる恐れのある場合は決して許してはくれない。
万が一、その能力が人知れる処ともなれば、ファーリューラは神殿に入る事を余儀なくされるであろう。それは父王だけでは無く、彼女の望む処でも無かった。神殿に入る事になれば、今までの様に父王と共に楽しい時を過ごす事は適わなくなるであろう。そしてあの青年、夏の空の様な蒼い瞳をした青年の姿を見る事も適わなくなる......。
「オーヴィス....」
ファーリューラは、人知れず恋しい青年の名を呟き、溜息を吐いた。今頃は、何処の空の下にいるのであろう....。
モザルス博士の講義が終わった後も、ファーリューラはその場に留まったまま、ぼんやりと考え事をしていた。父王とあの青年が北の土地へと旅立ってから、早、日々も経っていた。予定通りならば、そろそろ王都への帰路についている頃だ。
「会いたい....」
胸の奥が、重く疼いた。だがそれは決して不快な痛みでは無い。ファーリューラは甘く疼く胸を押さえ、大きく呼吸をする。
何時からだろう....。自分は何時から、大好きな父王よりも、あの蒼い瞳の青年を心待ちにする様になっていたのだろう....。
あの嵐の日に知った、彼のファーリューラへの溢れる程の想い。そして同時に感じ取ってしまった彼の、その想いに対する哀しみと苦しみ。神秘の能力など、無ければ良かったとあの時思った。何故自分はこんな能力を持って生まれて来たのか....。人の強い感情を感じ取ってしまう事は、苦痛の方が多かった。それが愛情や幸せな感情なら、心地も良い。だが憎しみや苦しみ、悲哀の感情は、苦痛以外の何物でもないのだ。殊、あの青年の哀しみと苦しみともなれば....。殊、ファーリューラへの恋心の為に彼が苦しんでいるともなれば.....。
「何故貴方は苦しむの?何故哀しむの?私がお父様の娘だからなの?」
ファーリューラは青年の面影に問いかけた。だが面影は何も答えず、ただ優しい笑みを浮かべているだけであった。