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2.ファーリューラ 8





 「何て雨だっ! くそっ!」

 慈悲も何も無く打ち付けて来る雨に、オーヴィスは毒突く。名家の子息とはいえ、未だ十九の若者である。時たま貴婦人には聞かせられない様な言葉を吐きたくなる事もあった。尤も彼の場合、そんな機会はそう多くも無かった様だが、その時の彼は珍しくも機嫌が悪かったのだ。それはこの激しい雨などのせいでは無かった。では、一体何故.......? 

 青年は、その為にこの雨の中を馬を飛ばしてここまでやって来たのであった。


 ファーリューラが重々しい扉を開いた時、オーヴィスはちょうど馬から飛び降り、横殴りの雨の中を慌てて駆けて来た馬番に手綱を渡す処であった。彼は風に吹き飛ばされない様に、マントのフードを押さえつつ入り口への石段を数段飛ばしに駆け上がった。そして....、扉口の銀の姫君の姿に気付き立ち止まった。ファーリューラが数歩表へ出ると、その見事な銀の長い髪が風に舞った。愛らしい唇を尖らせ、両手で髪を押さえる姫君の姿が可愛らしく、オーヴィスの口元には本人も気付かぬ内にほのかな笑みが浮かんでいた。

 「姫君、どうか中へ、貴女が濡れてしまいます」

 オーヴィスはマントのフードを下ろし、右手を胸にうやうやしく頭を垂れた。

 「お独りなの?」

 ファーリューラは何と言って良いか分からずに、尋ねるまでも無い事を口にする。

 はい.......、青年は首肯し、一瞬俯く。

 「申し訳ありません....、貴女を無駄に期待させてしまいましたでしょうか、姫君....。陛下はご多忙の上、本日はお越しにはなられません」

 オーヴィスの申し訳無さそうな表情に、ファーリューラの胸が痛む。

 違うの!.....ファーリューラは叫びたかった。だがそれよりも早く、乳母が二人の間に割って入った。

 「早う中へお入り遊ばされませ、姫様ひいさま、オーヴィス卿も。しとどに濡れておいででござります故」

 そう言うや乳母は、ファーリューラの細い肩を抱える様にして、半ば強引に屋内へと連れ戻った。


 慌ただしい足音と共に数名の侍女達が駆けつけ、濡れた体を拭く浴布を差し出す。

 「オーヴィス卿、如何なされましたか? この雨の中を...」

 レティは手早くファーリューラの髪を拭いてやりながら、黒髪の貴公子に尋ねた。

 「お騒がせして申し訳ありません。今日は私事わたくしごとで参ったのです」

 オーヴィスは雫の滴るなめし革のマントを脱ぎ、下僕の受け取るに任せつつ、申し訳無さそうに答えた。 

 「私事?」

 ファーリューラが首を傾げた。

 「はい....、シャドス・デ・ラ・エディンヴァルに取り次ぎを願いたいのです」

 「この酷い雨の中、貴方様がお供もお連れにならずにお出でになられたという事は、大切な御用事なのですね? でもその前に、お召し替えをなさらなければなりませぬよ、オーヴィス卿。いかに強靭でお若い貴方様でも、そのなりではお体を壊しましょう。出来れば湯をお使いになって、まずは冷えたお体を温めなされませ、湯の仕度をさせております故」

 レティは青年の水滴の滴る黒髪を、まるで母親の様な仕草で拭いてやる。

 「貴方様の兄上殿に着替えをお借り致しましょう。ついでに貴方様のお越しをお伝えして参りましょう、オーヴィス卿」

 そう優しく言うと、レティは浴布を青年に手渡した。

 「かたじけない、乳母殿」

 青年は微笑み頭を下げた。

 「姫様はお部屋へお戻りなされませ、お体が冷えますよ」

 乳母はファーリューラを促すと、傍らの侍女に、オーヴィスを別室へ案内する様に命じてから姿を消す。ファーリューラは用心深く乳母の背を見送ると、侍女がオーヴィスを案内しようとするのを遮る様に青年の冷たく冷えた腕を掴んだ。その袖は心持ち絞っただけで、雫が滴る程に濡れそぼっている。

 「姫君...?」

 オーヴィスは、ほんの少しだけ驚きに見張った瞳をファーリューラへ向けた。その蒼い瞳にファーリューラの胸は締め付けられ、重く痛んだ。侍女が何か言ったがファーリューラは軽くあしらうと、胸の痛みを振り切ろうとでもするかの様に、青年の濡れたそぼった腕を快活に引っ張って行った。

 「ファーリューラ姫? 如何されたのですか?」

 「良いからお出でなさい」

 戸惑いながらもオーヴィスは、腕を引っ張られるままに姫君の後に付いて行くと、灯りの点った部屋の暖炉の前にたどり着いた。先程までファーリューラと乳母レティが、刺繍を刺していた居間であった。

 「ああ..、何とありがたい....」

 「でしょう? オーヴィス卿」

 氷をも溶かすやと言う程に暖かく優しい青年の微笑に、ファーリューラも嬉しくなり微笑む。炉の炎が一段と大きく強く燃えた。

 “ありがとう、炎の殿方達”

 ファーリューラは、勢い良く燃え盛る炎に一瞥を投げた。炎の精霊達は、小さな笑い声をたて、そして口を噤んだ。

 ファーリューラは、オーヴィスの手から浴布を取り上げると後ろに周り、その細身でありながらファーリューラよりも格段広い背を拭いてやる。青年は大いに狼狽え振り返った。

 「なあに? 向こうを向いていて頂戴、オーヴィス卿、背を拭いて差し上げるから」

 尚も後ろへ回り込もうとするファーリューラに、オーヴィスはとんでもないとばかりに身を躱す。背をとられんとするオーヴィスは、その背をとらんとするファーリューラと共にその場をくるくると回る事になり、結果的に二人は数度回った処で、目を見合わせて笑い出す事となった。

 「いいえ....、そのような事は、姫君がなさるべき事ではございません故...」 

 笑いながらも、まだ戸惑いがちな青年に、ファーリューラは首を傾げて微笑んだ。

 「あら、良いじゃないの、ここは王城では無いのですもの。それに貴方、そんなにぐしゃぐしゃに濡れてしまっているのですもの....。なめし革の外套も、余り意味が無かった様ね」

 「風が恐ろしく強かったものですから.....」

 後で風の娘達に文句を言ってやらねば.....、ファーリューラは密かに思いつつ、手を伸ばしてオーヴィスの頬を拭いてやる。青年の蒼い瞳が、ふと切な気な翳りを帯びた。その瞳に見詰められ、ファーリューラははにかみ咄嗟に手を引っ込めた。胸が鳴り出し、思わず視線を逸らす。

 「シャドス卿は、今小姓達に剣の稽古をつけてやっているの....」 

 何の脈絡も無く、ファーリューラは呟いた。オーヴィスは無言であった。ファーリューラは再び青年を見上げた。小さな溜息が漏れた。その瞳を見たら、泣きたくなった。目の前の青年の心が、ファーリューラを想う気持ちで溢れんばかりである事が分かったからであった。そして.....、そして、彼はそれを哀しんでいた。それを感じ取ると、ファーリューラは更に悲しくなった。己の瞳に膜の張るのが分かった。それが膨れ上がるのも、押さえる事が出来ない事も...、分かった。

 「ファーリューラ姫? 姫君.....?」

 青年の気遣わし気な優しい声が、ファーリューラの名を奏でると、彼女の瞳からは透き通った雫がぽろぽろと零れ落ちた。

 「如何されたのです? 我が姫?」

 オーヴィスは背を屈め、哀し気な瞳のままファーリューラの澄んだ琥珀色の瞳を覗き込んだ。

 「貴方が.....、とても哀しそうだから.....」

 「..姫......」

 面食らった様に小さく呟き、それでもオーヴィスはやがてあの優しい微笑を浮かべる。

 「それは、申し訳も無い事を...」


 この少女が愛しかった。どうしようも無く愛しかった。オーヴィスは、恐る恐る伸びる己の手を止める事が出来なかった。総てを失っても良いと思える程に愛しい姫君の、零れ落ちる宝石の様な涙をそっと拭う己の手を止める事が出来なかった。

 ファーリューラの華奢な白い手が、頬に触れるオーヴィスの手に重なる。

 「この世界の何よりも......、誰よりも.......、貴方が好きよ.....、オーヴィス.........」

 濡れた瞳で青年を捕え、少女が囁いた。

 これ程の溢れる想いを、どうやってとどめれば良いのか....、オーヴィスには分からなかった。そんな事は不可能だと心が叫びを上げた時、彼の蒼い瞳からも一筋、雫が伝い落ちた。


 「私も......、この世界の何よりも.....、貴女が愛しい.....ファーリューラ........」

 苦し気で、哀し気な囁きであった。  





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