2.ファーリューラ 6
年が変わって早々、アガダル王の十二になる長男の立太子礼が、華々しく執り行われる事となっていた。王がこれまで己が息子を王太子として立てないでいたのは、偏に弟王子に気兼ねしていた為であるが、弟のサラードル王子はサラードル王子で、昔から王位などという物にはてんで興味を示さない。それどころか十九の歳に王国を飛び出したまま、これまでろくすっぽ国元へは戻らぬ有様である。尤も彼のおかげで、東の地はもう長い事安定してはいたのだが......。
王の長男が日毎成長するにつれ、王妃始め臣達が、立太子礼を求め口うるさくなった。そして王弟サラードルは、東の地に己が骨を埋めたい旨を理由とし、正式に王位継承権の放棄を表明した。その事は、決してアガダルを喜ばせはしなかったが、一つの契機となった。
王は、東からの使いが齎した弟王子よりの文書を読み終えると、諦めきった表情で溜息を一つ洩らした。東にて死す事を望むなどと....、だが仕方が無い、あの弟の言う事だ....、王になるなど、まっぴらごめんだと、あれは昔からそう言っていたではないか......。王は、そう己に言い聞かせた。そして年明けと共に、立太子の礼が執り行われる運びとなったのである。
ファーリューラは、乳母と数人の侍女達に式服の着付けをさせながら、しきりと溜息を洩らしていた。王城の中のファーリューラの私室での事であった。彼女とて王家の子女、城内に私室位は与えられていた。だがその部屋部屋が使われたのは、実は数える程の日数にしかならない。
「姫様、何とお美しいんでしょう。乳母やは鼻が高うございますよ」
姫君を元気づけようと、乳母の声は態とらしい程に明るい。ファーリューラは何十回目かの溜息を吐く。用意が整うと、正装姿のシャドスが顔を出した。
「おお.......」
守役は、嬉しそうに瞳を輝かせた。
今日の為に新たに作らせた紋繻子の衣装。見事な銀髪は髪結い侍女によって、ここぞとばかりに複雑に編み込まれ頭の天辺に結い上げられていたかと思いきや、そこから姫君の背へと煌めく滝の如く流れ落ちている。そしてうら若い花の顔には、薄らと化粧が施されていた。
「何と、これがあの我が主君であられるお転婆姫か?姫は間違い無く、大陸一の美姫でしょうとも!」
「シャドスの嘘つき。大陸中の女の人なんて知らないくせに.....」
ファーリューラは、沈んだ表情のまま拗ねるような口調で言った。
「言葉の綾ですよ、姫。その式服良くお似合いですよ、私の趣味も中々のものでしょう?」
ファーリューラはふと、身に着けた衣装に目を落とした。そして心持ち口元を綻ばせた。此度のファーリューラの式服の布地は、誰あろうこの守役が選んだ物であった。ファーリューラが衣装を新調する為に業者が呼ばれると、シャドスは物色に付き合わされるのが常であった。そして此度もその例に漏れず彼は布地選びに付き合い、彼が選び出した空色と紺碧の布地で縫われた衣装を、今ファーリューラは身に着けているのである。
山ほどの錦や繻子などに埋もれる様に座って、乳母と共にああでもないこうでもないと言いながら布を物色していた姫君に、シャドスはふと目を引かれた空色の布地を広げて見せると、ファーリューラはそれを暫しじっと見つめて呟いた。
『オーヴィス卿の瞳の色みたい.......』
シャドスは慌てて紺碧の布地を引っ張りだすと、それを薦めた。姫君はその色柄も気に入ったのだが、それよりも空色の物を甚く気に入り、そのままそれらの布地に決まったのであった。
「ああ、気の重い事....」
「式の後の祝宴は、早々に下がられて構いませんから、辛抱なさってください、姫」
シャドスは、気遣わし気に優しく言った。
「ええ、分かってるわ...」
哀れな程に消沈しているファーリューラは、城の式典の類いが不得手であった。慣れていないという理由もあったが、何よりも王妃とその取り巻きが苦手であったのだ。王妃は、王が溺愛する庶出のファーリューラに悪意さえ抱いていた。神秘の恵みを受けたファーリューラには、それが良く分かる。そして、ファーリューラの母が村娘であったという事で、あからさまに彼女を軽んじる貴族たちの眼差しや含みのある言葉の端々。だがこんな時、守役シャドスは素晴らしい働きを見せる。このシャドスは、時と場合と相手によって痛烈な毒舌家に変貌するのである。彼が社交辞令用の魅力的な微笑と共に、絶妙のタイミングで繰り出す皮肉の数々、その毒舌家ぶりは中々に見物である。
『シャドスって、実はものすごく意地悪だったのね?』
以前ファーリューラがシャドスに言った。
『なあに、そうでもなければ守役など勤まりませんよ、姫。《剣には剣を、拳には拳を、言葉の暴力には言葉の暴力を》という言があったでしょう?』
『あったかしら...?』
『ありましたとも!この私による格言です』
そう言ってシャドスは、悪怯れもせずに笑ったものであった。ファーリューラはそれを思い出し、くすっと笑い声をたてた。
「おやおや姫、人の顔見て何ですか突然?傷付くではありませんか。私の顔はそんなに面白いでしょうか?」
くすくす笑いを続けるファーリューラに、シャドスは黒い瞳を丸くしている。
「違うのよ、貴方はきっと大陸一の守役だと思っただけよ、シャドス」
「やれやれ、大陸中の守役をご存知なのですか?姫は」
「やあね、言葉の綾よ」
肩をすくめるファーリュラに、分かっていますとばかりにシャドスは笑った。
「さあ姫様、シャドス卿、お時間だそうにございますよ」
「おおっ!乳母殿も、今日は一段とお美しい」
ご丁寧に手振りまで交えて乳母を褒めるシャドスの芝居じみた口調に、ファーリューラが再び可笑しがる。シャドス卿のお口の上手でいらっしゃる事.....などと言って、乳母レティは苦笑する。ファーリューラの緊張は解れていた。
その日、どれだけの人々が国王の一の姫の姿に驚き、見惚れた事であっただろうか.....。その美貌も然る事ながら、その青みを帯びた銀の髪の見事さに......。そして今は亡き王姉の美貌をまざまざと記憶する人々にとっては、前の大巫女クウィンディラ姫に酷似したその顔立ちに......。
主役は、この日正式に王太子に立てられた彼女の弟王子であったにも拘らず、人々_____殊に、久方ぶりに、成長したファーリューラ姫の姿を目にした貴族や豪族たちは、専ら銀の姫君の姿を目で追い、互いに彼女の噂をした。その事が王の正妃を酷く不快にさせた。見る度毎に光り輝いてゆく庶出の王女。どこの雌猫の腹から生まれ落ちたかも分からぬ分際で......と、憎々し気に呟きながら王妃は悔しげに歯噛みする。良人は王都を留守にしない限りは、毎週必ずあの娘をおとなう。己が東の地より遥々嫁いで来たその最初の週でさえ王は、見知らぬ地で不安な心を抱えていた新妻である己を捨て置き、あの小娘の元へ行ってしまった。その時の惨めな思いは、未だ心に凝っている。王妃は情けなさと口惜しさから、この継子を憎んだのである。
王妃の憎悪____負の感情が、ファーリューラの心を苦しく締め付けた。神秘の能力を持つファーリューラは、負の感情を向けられると、それをそのまま心に感じ取ってしまう。神殿で鍛錬を積んだ能力者ならば、そういった良からぬ感情からの心を守る術も心得ていたが、しかしファーリューラはそういった鍛錬を積んだ事も無い。それ故、彼女は神殿の巫女たちよりも数段強く、そういった良からぬ感情を心に感じ取り、その毒気にあてられてしまう。
(王妃様は、今日も私の事を怒っている....。とても憎んでいる........)
胸に流れ込んで来る王妃のどす黒い感情が、ファーリューラを哀しくさせた。何故怒るの?何故憎むの?きっと自分が王妃自身の娘ではないからなのであろうと、これまでのファーリューラはごく単純に考えていたが、今日の王妃のファーリューラに向ける瞳には、酷い妬みの色が含まれている事に彼女は気付いた。何故....?ファーリューラには、王妃が自分に嫉妬する理由は分からなかった。
立太子礼は荘厳な空気の中、滞り無く行われた。年の明けて間もない冬の最中、遠方から足を運ばねばならなかった者たちにとっては、大層も無い事であったが、雪が降らぬだけまだましであろう。このロセアニアで雪を見る事は少ない。仮に降ったとしても、積もる事は滅多に無い。冬が暖かなのかというと、決してそういう訳ではなく、細い水路や湖などが凍結するところを見れば、それなりに厳しい事が分かる。暗海から吹き寄せる風も、凍える程に強く冷たい。そしてどんよりと曇る空から落ちる雨は、時に優しく、時に激しく大地を叩いた。今日も大地は、雨に濡れている。
正式な場で、ファーリューラが父王の傍らに座を与えられる事は無かった。正妃腹の子では無いファーリューラは、王の一の姫でありながら、幼い弟妹たちよりも下座に席を与えられる。当然といえば当然の事であった。ファーリューラがそれを恨んだ事は無いが、弟妹達の向こう側に座を占める父を盗み見る時、ファーリューラの心には一抹の哀しみが過る。こういった式典での父王は、とても重々しく、近寄り難ささえ感じ、そしてファーリューラ独りだけの父では無かった事を、改めて彼女に思い知らせる。碌に口をきいた事も無い弟王子達と妹姫達の父親でもあるという事を.......。
突如心に生じた寂しさを振り払おうと、ファーリューラは辺りに視線を廻らせた。多くの貴族達の中に、あの黒髪の優しい青年の姿を見付けた。胸が締め付けられる様に、重く甘く痛んだ。黒の正装姿が、普段にも増して凛々しかった。青年の蒼い瞳も又、ファーリューラを見詰めていた。優し気に、そして切な気に.........。




