2.ファーリューラ 4
何やら、堅い棒切れを叩き付ける様な音が聞こえて来た。
“こっちよ、ファーリューラ”
“こっち、こっち”
風の娘達の奨めるまま、ファーリューラが植え込みの向こうを覗き見ると、黒髪の青年が二人、剣を合わせている姿が目に入った。棒切れを叩き付けたかの様な音は、稽古用の木剣が合わさる音であったのだ。青年達の腕は、互角な様である。ファーリューラは、彼らの華麗とも言える剣技に思わず魅入った。殊に、その片方の年若い青年に......。
風の娘達の、盛んに囃し立てるそのからかいの声も、もはやファーリューラの耳には届いていなかった。彼らの木剣はやがて、交差したまま力技へと入ってゆく。どれ程の間その状態が続いたであろうか......。やがて二人の青年は楽し気に音を上げ、肩の力を抜くと、木剣を下ろした。
「やれやれ、腕を上げたものだな、オーヴィスよ。とうとうお前を負かす事が適わなくなった」
言葉とは裏腹に、シャドスは楽しそうに笑った。
「信じられないな。兄上に負けなかったのは、これが初めてだ!」
弟の方は、その蒼の瞳を輝かせ、やや昂奮気味に叫んだ。目の前の兄と互角に剣を合わせられた事が、余程に嬉しかったのであろう。シャドスはそんな弟を前に、軽く溜息を吐きつつ頭を横に振る。
「全くやれやれだ。その内、私はお前に敵わなくなるんだろうなあ....」
「兄上がですか?まさか....、そうなりたいとは願っていますけど.....」
と、その時、シャドスが植え込みの影に隠れる様にして立っていたファーリューラの姿に気付き、おやっ..?という声を上げた。
「お早うございます、姫。いつからそちらに?」
オーヴィスもそちらへ目を向けると、俄に表情を改めた。そして胸に手をあて、礼儀正しく頭を下げた。
「シャドスと互角だなんて......、オーヴィス卿は、すごいのね」
彼らの挨拶にも答えずに、ファーリューラは思わず己の気持ちを口にしていた。何せシャドスの剣の腕前は、王国では知らぬ者は無いと言われている。王都の片隅でひっそりと育てられているファーリューラでさえ、知る処なのである。ファーリューラの異腹の弟、つまりは父王の正妃の長男に付けられた守り役達でさえ、シャドス程の腕を持つ者はいなかった。それが正妃の、ファーリューラに対する嫉妬の理由の一つでもあったが、アガダル王は、妃の不満をてんで聞き入れはしなかった。長男には幾人もの守役を付けているが、ファーリューラにはシャドス唯一人である。それが王の答えであった。
「姫、今のお言葉、何やら私はお褒めに与った様な気が致しましたが」
シャドスが、やや戯けてみせた。
「あら、そうよ。褒めたのよ、シャドス。だって貴方は王国一の剣士でしょう?」
おやおや......、シャドスは、わざとらしく目を丸くした。
「それは褒め過ぎですよ、姫。お褒めに与って、嬉しい事は嬉しいですが...」
「だって、お父様がそう仰ったもの」
ファーリューラは、やや首を傾げて言い張る。
「お言葉ですが、私は到底、姫の叔父君には敵いませんよ」
なあ、オーヴィス?....姫君の守役は、弟に瞳で問いかける。
「あら叔父上様がお強いのは、私だって知ってるわ。でも叔父上様は、王国を離れられて久しいじゃないの」
ファーリューラはシャドスの剣の腕を、盲目的に信じ込んでいるのである。
「でも、さすがはシャドスの弟御ね。勝てはしなくとも、シャドスに負けもしないだなんて....」
少女に称讃され、オーヴィスは少し照れた様な表情で微笑んだ。
「それも時間の問題ですよ、姫」
えっ?`.....と、ファーリューラがシャドスを見上げる。
「恐らく、私は近々この弟に敵わなくなりましょうよ....」
「兄上....」
まあ...、少女は唇に細い指をあてて、守役の弟の、中々に整った顔を見上げた。
レティがファーリューラの名を呼んでいた。
「ああ、姫様!そちらにお出ででしたか。陛下がお目覚めになられましたよ!朝餉を共になさりたいのでしょう?姫様!」
丸っこい乳母が、向こうの方で叫んでいる。ファーリューラの表情が、ぱっと華やかな笑顔に変わった。
「お寝坊のお父様のお目覚めだわ!じゃあね、二人とも」
そう言い残すや、少女は青みを帯びた銀の長い髪を揺らして、子鹿の様に駆け去った。
シャドスが、慌ただしく走り去る姫君の背を見送りつつ低い笑い声を立てた。
「やれやれ、姫は一体何時になったら父離れなさるのやら.....」
その声が耳に入らぬかの態で、オーヴィスは姫君の背を見送り続けている。まるで眩しい何かに向ける様な瞳をして。
「おいっ、オーヴィス」
兄に二度小突かれて、オーヴィスは我に帰った。
「ああ、兄上。何と愛らしい姫君でしょうか、ファーリューラ姫は.....」
「まあな、姫は実に愛らしい.....が.....、お前、間違っても惚れるなよ」
シャドスは真面目な表情で、年若い弟に釘をさした。
「まさか、兄上、からかわないで下さい」
オーヴィスは、一笑に付した。