『第二話 勇者の決心』
勇者は、この世界に来た日のことをよく覚えている。石レンガで囲まれた、無機質な冷たい部屋。それが、彼がこの世界で一番最初に見た光景だ。足元には、何が書いてあるのかさっぱりわからない文字列。そして、彼を舐めまわすかのような視線。
部屋の寒さと視線の不気味さで、思わず両腕で自分の体を抱いてしまう。当時、十四歳であった彼に、今の状況を理解できるほどのキャパシティはなかった。
何が起こっていて、どこにいるのかも分からない彼の前に、粘着質な視線を向けていた集団の一人が歩み寄る。
「お主が、勇者か?」
何を言っているのかは理解できたが、何を意味しているかは分からない。勇者? ファンタジーの夢か? そんな想像をするも、状況は彼を置いて進んでいく。
「……この剣の鞘を抜いてみよ」
顎鬚が立派な老人は、革の鞘に収まった剣を差し出してくる。勇者は、言われたままに、まずは剣を受け取って柄を引っ張った。そんなに力を込めていないのにもかかわらず、、剣はいとも簡単に、その姿を現した。銀の光が、部屋に灯る。
その光景を目の当たりにした集団は、皆勇者の前で膝をついた。何をされているのかも分からず、勇者は右手に剣を持ったまま動揺してしまう。そんな動揺を露知らず、老人は歓喜の入り混じった声で厳かに言った。
「ようこそおいでくださいました、勇者様」
この日、彼は勇者となった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
勇者となって早三年がたつ青年は、その日のことをたまに夢に見る。手渡された剣は、勇者にのみ使うことの許された伝説の剣。足元に広がっていた文字は魔法陣の一種。あの集団はこの国の重鎮たち。今となっては懐かしい光景だ。
異世界での生活に最初は驚き、心が折れかけた。一時は、誰とも会いたくはなかった時期もあった。この世界での生活に慣れきってしまった青年には、少し恥ずかしい想い出だ。
勇者はベッドの中で寝返りを打って、これからのことを考える。
「……今なら行けるかな」
日に日に増える衛兵の足音を聞きながら、勇者は物思いに耽る。
勇者と呼ばれる青年には、一つの願いがあった。彼の願いは、ただ一つ。勇者を辞めること、それだけであった。
その願いに思い立った理由は単純である。疲れたから、である。晴れの日も雨の日も、昼夜を問わずに戦い続け、いつ奇襲がくるかと気を張った生活に、嫌気が差したのだ。それに気がついたのは、勇者として二年ほど経った、旅の道中の事だった。
彼らは物資の補給のために、魔族の侵攻を逃れた街を訪れた。そこでは、老若男女様々な種族が平和に暮らしていた。普通に働いて、普通に食事をして、普通に笑って、普通に悲しんで、普通に暮らしていた。
争いしか知らない勇者は、のどかな光景が新鮮に映った。そして、戦いの中で勇者は一つの決心をした。勇者なんてもの捨て去って、この異世界を満喫しようと。
「どうせバレるんだし、早いに越したことはないか……」
すぐにでも出ていこう、そう決意してからの行動は早かった。彼はベッドから降りて、寝間着から普段着へと着替える。
麻の袋を取って、当分の食料と地図、数日分の着替え、少々の路銀を適当に入れる。腰には、勇者の剣ではなく、ただの無名の剣。
「まずは金を稼がないと……。職安ってこの世界にもあるっけな……」
魔王討伐の旅しかこなしていない彼は、この世界の知識があやふやなところが多い。それでも、これから知ればいいか、そんなポジティブシンキングをして、窓の桟に足をかける。
窓の外に広がる世界は、ほとんどが黒に染められている。時折雲から覗く月が照らし、建物の屋根などを浮かび上がらせる。三角屋根のレンガ造りの街、彼はその街がどんな様子なのかさえも知らない。だから、それを知りに行く。
「世界一周してぇからなぁ……がっぽり稼がねぇと」
どうせ知るのなら、世界を知ろう。普通に生きるだけでなく、ちょっとした刺激も求めてみよう。まだ見ぬ世界に希望を抱いて、彼は暗闇の中に飛び込んでいった。
勇者の称号を捨て去った青年の、世界を知るための第一歩だった。