『第一話 勇者はペンを振るう』
その日は、気分を変えて朝食を御飯にしたのが悪かったのだろうか? それとも、靴紐を普段とは反対の右から結んだから? はたまた、工事中だったから普段の道を迂回したから?
勇者と持て囃される青年は、今でもその日のことを考えてしまう。何も変わったことをしていないはずなのに、変わったことに巻き込まれたあの日のことを。
何の脈絡もなく異世界に連れて来られ、世界の命運やらを託された青年は、今は一心不乱に机に向き合って何かを書いていた。
トントン、と控えめなノックに気づかないほど集中しきっていた。ノックをした主は、返事がないことを不審に思い、そのまま了解も得ずに部屋に入る。
「捗ってますか?」
勇者の仲間、トレードマークである赤のローブを脱ぎ捨てた男魔導師が声をかける。
「勇者の仕事は書類を倒すことじゃなくて、魔物を倒すものだって聞いてたんだが」
「時代の流れですよ、時代のね。さぁ、この山ほどの書類という名の敵を倒してください」
ムスッとした勇者の声音に、やれやれといった様子で魔導師は返す。
魔王討伐という大命を果たして帰還した勇者を待っていたのは、祝福と大量の書類。不機嫌になるのも頷けるだろう。
「だいたいさぁ、こういうのって王様お仕事だろ? なんで俺が肩代わりしてやらなならんのか、いささか疑問だ」
「当事者であるアナタに任せるというのが、王様のお考えですよ」
一枚の書類をヒラヒラと振りながら、勇者は机に足を投げ出す。その書類には、『カルデン砦における戦闘』と書かれている。
勇者が任された――もとい押し付けられた仕事は、此度の戦闘の記録。書類としてまとめることによって、次に活かそうという考えらしい。その次、というのに引っかかりを覚えながらも、スラスラと文字を書いていく。
「とりあえず、めっちゃしんどかった。これで文句は言えねぇだろ」
「もう少し真面目にやってもらわないと、またダメ出しをくらいますよ」
「……あのオッサン達、本当にウゼェんだよなぁ……チッ」
愚痴を言いながらも、しぶしぶと言った様子で書き直す勇者。しんどかった、だけを書いた書類を提出して、激昂した名ばかり貴族の顔を浮かべて勇者は舌打ちをする。
「あぁー、早く終わらせて、書類から解放されてー」
「なら、口よりも手を動かしてください」
「なんか、無駄口をたたいてる時のほうが捗る気がする」
「そうですか……」
たしかに、さっきよりは手が動いているように見える。男魔導師は勇者にあてがわれた部屋のソファに座って、勇者が書き終わった書類に不備がないか見ていく。
チラリと、横目で作業に没頭する勇者を見て、男魔導師は一先ず肩をなでおろす。彼がここに来た理由は、大きく分けて二つ。
一つは書類作業の進捗を見るため。これに関しては、さほど重要ではない。重要なのは、もう一つ。勇者の監視だ。
魔王討伐の際、勇者が言い放った勇者引退宣言を、この国の王は大きく受け止め、何かしでかさないのか男魔導師に監視の任を与えたのだ。
頭を掻きながら書類を書き続ける勇者を見ながら、彼は心配はなさそうだと肩の力を抜く。
「なぁなぁ、カル。ガレスデンってどこだっけ」
「あぁ、大陸の北、帝国にある街ですね。鉄鋼業で有名なところですよ」
男魔導師――カルデン・マイノスターは、三年間、苦楽を共にした青年に優しげな笑みを浮かべる。
昔はどこに行くにも怯えたような目をしていた彼は、今はこうして明るく誰もが憧れる勇者となった。
まるで弟のようだ、そうカルは述懐する。だからこそ、甘い目で見てしまっていたのだと、彼は後悔することになる。
勇者が行方を眩ませたのは、この日から三日後の事だった。