『第十三話 くまさんは非業の死を遂げた』
くまさん、なんて風に形容するのは、その獣にとても失礼であるようにイオリは感じた。客車の屋根を悠々と超える高さ、目測ではあるが四メートルほどの体躯を有している。実物は何度か動物園で見たことがあったものの、ここまで近くで見る機会はなければ、ここまで大きな熊を見たことは一度もなかった。
「ま、魔物……ッ」
客車を覗く熊と目が合い、アリーは半ば呆然とした様子で呟く。魔素だとかいう空気中に漂うファンタジックなものの影響を受けて肥大化したりした動物、それらの事をまとめて魔物と呼ぶらしい、と、イオリはこの世界に来てばかりの頃に教えこまれたことを、呑気に思い出していた。
腰を抜かしたらしいアリーはぺたりと尻餅をつき、少しでも離れようと後ずさる。熊は鼻息荒くその姿を眺め、屋根を破壊するために腕を叩きつける。
「きゃっ」
短く少女の悲鳴が上がり、客車がまた軋む。イオリは椅子に座ったままその様子を見物して、そこまでビビることかねぇ、とズレたことを思う。
たかだか熊に襲われた程度でそんなに慌てなくても、そう思えるのは修羅場の数の違いだろう。どうなるもんか、と傍観の姿勢を取ろうとしていたイオリに、悲鳴が向けられる。
「早くどうにかしてッ!」
語尾を忘れた少女の願いに、イオリはとりあえずポーズだけとることにした。腰に下げた無名の剣を抜き、熊へと向ける。ただそれだけの動作で、見るものからすれば洗礼された動きだという印象を持つだろう。
何度も何度も巨木のような腕を振り下ろす熊は、その姿を見て僅かながらに身を竦ませ、少女はその姿に見惚れた。一瞬、空気が張り詰めたものになる。だが、ただそれだけだった。
「はぁ……無理だな」
イオリが剣を収めると、場が弛緩する。手に滲んだ汗を乱暴に拭い、イオリは再び椅子に腰掛ける。
「な、なにをッ!」
職務放棄をするイオリへと少女が非難の声をあげようとするのと、行きますぞ! という老人の声が上がったのは同時だった。
馬車が急発進し、客車から手を離していた熊との距離がだんだんと開いていく。
「大丈夫ですか!?」
「……大丈夫、なのよ」
老人の問いかけに、アリーはくたびれた様子で返答し、イオリの方を睨みつけた。刺さる視線を無視して、イオリは気付かれないように何度か深呼吸をする。それから、
「……すぐに追いつかれるっぽいけどな」
水を差す一言に、非難の目が更に強くなる。実際、置いてけぼりを食らった熊は、逞しい四肢を用いて、馬車に追いすがっていた。
その姿を窓から見て、アリーは縋るようにイオリに言う。
「早く、アレを始末するのよ……」
「え、無理」
「え……え?」
アリーの命令を一言で断り、少女の困惑を他所にイオリは再び剣を抜き放つ。外の日光を浴びて光る刀身は見る者の心を惹き、いつまでも観ていたい気分にさせる。
「刃引き……してるのよ?」
「そりゃ儀礼用のだからな」
無名の剣、それはただ人に観られるためにある儀礼剣だ。そんなもので魔物を討伐しろ、そんなこと自殺してこいというのと同意だった。
護衛だというのにそんな剣しか持っていないイオリを貶すよりも、この状況がどうにもなくなってしまったという事で頭が一杯になったのだろう。少女は何も言わずに、椅子に腰を落とした。
その様子を眺めながら、イオリは追いかけてくる魔物よりも強大な存在を認知していた。だから、自分が無理しなくてもこうなることは分かっていた。
「お逃げください!」
老人の注意を無視して、馬車の横を誰かが通り過ぎていった。馬車は段々と速
度を落とし、やがて止まる。
「どうしたのよ!」
アリーの問いかけに、御者台から降りてきたセルバスは中に入るように促したが、少女はそれを無視して客車から降りた。そして、目にした。
熊の巨体は地面に伏し、顔と胴体が別れを告げている無残な姿を。そして、付着した血液を、汚物を拭うように布で拭く男の姿を。
「初めまして、私、ベルトイン様の護衛をしています、ローレンというものです」
血が似合わない、爽やかな様子で男は自己紹介をした。




