【掌編】あるTS病患者の話
TS病を題材にさせていただいた掌編です。
TS要素はあまりありません。
「その乳房を、揉ませて欲しい」
――突然親友が、生物学上女とされる身体に変わって帰ってきた。
だからこんな言葉が虚をついて出てきても、仕方がないだろう。目の前にいるのは幼いころからずっと遊んできた相手ではあるが、以前の姿の名残など僅かもないほどの美貌だ。古今東西様々な芸能人やモデルはあれども、目の前の存在ほどのまぶしさを持つ人物を僕は、いまだかつて見たことはおろか聞いたこともない。それに僕は童貞なのだから、仕方がない。
「キヨシ……久しぶりに会って最初の言葉が、それかよ」
残念そうに眉を八の字に歪める彼、いや彼女の顔貌は如何なる表情であっても美しさと愛くるしさの境界線で宇宙的バランスを誇っている。詰まる所、兎に角可愛い、という事だ。
「っ……す、すまんマナブ、おかえり」
気を取り直し、そう答えると、薄く笑みを浮かべた彼女は、ただいま、と小さくつぶやいた。
事実は小説よりも奇なり。この世にはある奇病が存在する。それは、思春期の少年にのみ発症する可能性があり、感染から発症までの機序はおろか、“病”であるかも定かではない何とも理解しがたい奇妙な事象だ。症状はたった一つだけ。性別が逆転する。たったのそれだけではあるが、外見だけではなく染色体までも変化し、発症者の生理的現象も、まるっと女へと変化させるという。
「ぞっとしないわけないね、こんなの」
斯く言うわが親友もまた、その奇病の貴重な患者の一人であり、その奇病の名を『TS病』と言った。
「しかし、見事に変わったな、見た目は」
見た目の変化は人それぞれであるらしいが、ここまでの変化を見せたものは今だかつてなく、貴重なサンプルとして通常よりも長く検査を受けることとなったらしい。彼が彼女となり帰ってくるまでで、高校一年生だった僕は卒業を迎える学年となっていた。
「いやー、さすがの俺もまいっちゃうよね。劣情丸出しの目で見られるなんてサ。誰も望んでないし」
やれやれ、と擬音が付きそうな素振りで肩を竦め、じっとこちらを見つめる。お前はそうなるなよ、とでも言いたげな、そんな表情を読み取ることは、十年来の親友として息をするごとく読み取ってしまう。
「マナブ……っ」
不意に彼女を見やり、思わず息をのんだ。
彼女の部屋の窓に座り、物憂げに外を見つめる身体を、夕日が赤く包み込む。艶やかな髪の黒と制服の白の輪郭に、赤がわずかに滲み、僕の視界は彼女の色で一杯になった。目が逸らせない。いや、逸らすべきではないのだと、僕の身体はよく理解しているようだ。
――なんと、美しいのだろう。
願わくば、この時が永遠でありますよう、なんてべたで陳腐な願いが胸をよぎり、同時に締め付けられるような苦しみに襲われる。思わず皮肉な笑みがこぼれた。この苦しみを自覚してはいけない。彼女に対し、そんな思いを抱いてはいけないのだ。なぜなら彼女は親友で、彼女にとっても僕は親友であるはずなのだから。だから、これから起こるであろう世にも奇妙な出来事までの間だけでもせめて、唯一無二の親友でなければならない。
「ぷっ……ははっ、キヨシ、なんで泣いてんのさ。意味わかんない」
どうやら知らず知らずのうちに、涙を流してしまっていたらしい。
涙を流す僕の顔が余程可笑しかったのか、これから起こることに対する彼女なりの強がりなのか、彼女の笑い声はやまない。
笑い声を聞きながら涙をぬぐい、いるかもわからぬ神と彼女に心の中で悪態をついて僕は一人部屋を後にした。
僕が部屋を去った後、遠くから聞こえる犬の遠吠えが、悲しみを湛えているように聞こえるのは、気のせいではないはずだ。
僕は思わず耳を塞いで、我が家までの道のりを早足でかけた。
やがて夜になり、外灯の少ない村にぽつりと明かりがつき始めた。村の男たちが皆一様に仮面をつけて集まり歩きだす。行き先は村で唯一の神社だ。彼らは皆たいまつを手に、社への階段に列をなして登る。
例にもれず、僕も村の一員であり、十八歳になったため、並ばざるを得ないのだ。それがこの村のしきたりである。
無心で社への階段を上ると、やがてある声が聞こえてきた。男と女の、悲鳴とも喜びともつかぬ叫喚。思わず耳を塞ぎたくなるが、たいまつが邪魔でうまく塞げない。
この村の女は十八歳まで純潔を守り、十八歳になった暁に、村中の男から祝福を受ける、という風習がある。そんな風習を、幼いころに引っ越してきた僕は知る由もなく、また祝福の意味を理解などしていなかったのだ。だが今ならこの悪しき風習が、一体何であるのかを理解できてしまっていた。
やがて男と女の声がやみ、あたりに静けさが戻る。
どうやら僕の番が回ってきたらしい。社から仮面をつけた小太りの男がゆっくりとした足取りで、こちらに向かってきた。その手は社を指さし、早く行け、と言わんばかりに力強く主張をしている。
不意に、手のひらに痛みを感じた。ハッと我に返り、両の手を見ると、余程力がこもっていたのであろう、血の通わぬ白い掌に紅い血が滲み滴っている。まるであの時の彼女のようだと、虚しさとも苦しさとも取れぬ感覚が僕を覆った。
「次、お前の番だ」
そう男に告げられて、僕は力ない足取りで社へ向かった。社の階段を一段一段あがるごとに、彼女との距離が縮んでゆく。
ふと顔を上げると、社の戸がゆっくりと開く。そのまま誘われるように、足を踏み入れた部屋の真ん中には、生まれたままの姿でマナブがいた。
「ほら、キヨシ、おっぱいだよ。揉ませてあげる」
笑っているのか泣いているのか、もはや彼女の顔はなんの液体かわからないものでぐちゃぐちゃで、白くほっそりとした躰には紅い筋がいくつも走っている。余程無茶をされたのだろう、そう思わずにはいられない彼女の躰は、痛々しくも、再びあの黒と白と赤を彷彿とさせた。身体にいつもより多く血が巡る。熱い。焼けるような熱さを錯覚しながらも僕はただ立ち竦み、動けないでいた。
――きっと僕はひどい顔をしていたのだろう。
フッと笑みを薄くたたえ彼女は僕の頬に軽く手を触れた。社の冷ややかな空気よりもなお冷たい彼女の手は、熱くなった僕の顔を冷やすのにちょうどよかったのかもしれない。
「泣くなよな、キヨシ。お前は男なんだろ」
涙をはらんだその声と冷ややかな彼女の手は、僕を再び冷静に戻し、悪辣で唾棄すべき現実が視野に広がった。いつの間にか涙は止まっていた。
それと同時に、ある部分に強い熱を感じていた。それを見て彼女は、やれやれといった風に肩を竦める。
「仕方が、ないな……いいよ、コッチ来なよキヨシ。……ワタシは、受け入れてあげるよ」
彼女に手を引かれ、導かれるままに社の奥へと足を踏み入れた。途端に漂う匂いに、彼女は苦笑を呈する。
「さ、それじゃあキヨシとはお別れだなあ。……さよなら、キヨシ」
これが終われば彼女は彼女ではなくなる。いや、彼が彼だったものに変わるのだ。
きっとまた僕はひどい顔をしているのだろう。それでも熱いままの僕のそこに、もはや何の感傷も抱かなかった。
「……さよなら、マナブ」
もっと抱くべき感傷や発するべき言葉があったのかもしれない。だけど僕らは別れだけ告げると、後はお互いに何も言わなかった。
――その日僕は、童貞を捨てた。
あの夜の翌日、僕は家を飛び出し、村から遠く離れた都会でぼろいアパートの部屋を借りた。今は高校中退の土方として日々をあくせくと過ごしている。
「んー、少し味が薄いなあ……キヨシ、醤油とってよ」
風のうわさでは、マナブは女として、割と楽しくやってるとか、やってないとか。
「あまり濃いのは、身体に触るだろう。もう少し自分の身体に気を使ってだな……」
ちらりと彼女の最近大きくなってきたお腹に目を向ける。
「えー……私は濃い味付けの方が好きなのに」
やれやれ、といった風に肩を竦めて不服そうに顔をしかめる。仕方がない。彼女の身体を考えると、どうしても小言が多くなってしまう。居もしない姑のようだと、彼女からは悪評を頂いた。
「マナ」
彼女の名を呼ぶと、なあに、とこちらに顔を向ける。その顔はまだ醤油のことで拗ねているように見えた。伊達に何十年と付き合いがあるわけではない。
そこで僕は最近ようやく会得した彼女の機嫌が直る魔法を唱えた。
「愛してる」
じっと彼女の瞳を見つめると、フッと、彼女が薄く笑った。
「なんて顔してんの」
そう言う彼女の顔は赤く、恥ずかしそうにこちらを見つめ返していた。そしてお互いに赤らめた顔を向い合せ、今の幸福をかみしめる事。これが最近の一番の楽しみであった。