彼女の世界を囲う者
「絶望の先に見つけた世界」の裏側です。
優しい世界ではありません。
それでもよろしければ、このままお進みください。
咄嗟に腕を掴んでいた。
柔らかく微笑んだ顔を自分にも向けてほしいと思った。
電話越しに返事をする声さえ弾むように明るく、その幸福に包まれた温かい空気に自分も触れてみたいと、無意識の内に手を伸ばし、そして世界を越えていた。
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いつものように“贈り人”となるべき人物と接触し、何度目かの話し合いで招くことを了承させ、次回訪れた時には共に異世界へ……と話をまとめていた。
世界を渡る、二度と戻ってこれないと聞くと、普通の人間は冗談じゃない、嫌だと答えるだろう。――だが、世界にはそう思わない人間もいる。
この世に絶望し、悩みを抱え、それこそ自分の知らない世界へ、自分を知る人のいない世界へ逃げてしまいたいと考える人間だって存在するのだ。
自分はそんな人間を星の数ほど見てきた。
愚かしい。
たかだか何十年か生きただけの命が“絶望”を語る。
苦しい、悲しいと叫び、命に意味などないと自ら死を選ぼうとする。
そういった人間は、何故そこに存在しているのか、どれだけの奇跡が起きてそこに“自分”としての生があるのかを知らないのだ。それがわからぬまま辛い、逃げ出したいと叫ぶ様は、いっそ哀れだ。
“永遠の死”という慈悲でもって救ってやりたくなるほどに。
だが、そんな存在があるからこそ救われる世界もある。自分はそのために、わざわざ界を越えて別の世界へ来ているのだから。
そして今回もまた、数百年ぶりに訪れる“贈り人”という名の生贄でもって、世界は救われるのだ。世界の住人も、招かれる異界の人々すら何も知らぬまま。
私はいつも考える。いつまでこの滑稽なカラクリ世界は続くのか。
違う世界から招く、と言えば聞こえはいいが、それは事実、異質なモノを取り込む行為だ。その人物にとって、元いた世界には二度と戻れないことになる。それはつまり、世界から存在が失われるのと同義だ。
たとえ帰郷を望んでも、二度と生きて帰ることは叶わない。なぜなら、こちらにやってきた時点で、すでに元の世界との繋がりはほぼないに等しいのだから。例え死んでも、魂は元の輪廻に戻ることはない。世界の安定を図るため、そのまま吸収されるのだ。次の生に向かう事なく。
当然、贈り人に説明する際にこちらが不利になるような情報は与えない。
どうせ人間など、今という一時の“生”にしか興味がなく、死後どこへ行くかなど考えないのだし、今までわざわざそんな事を聞いてきた人間もいない。死んだら終わり、正にその通りだ。
世界に暮らす住人は、異世界からやってくる救世主のことを、まさに“贈り者”だと感謝する。誰から贈られたもので、それがどんな存在で、そしてどんな“贈りもの”かなど知りもしないまま。
その贈り人が死んだ時には皆、一様に喪に伏し、祈りを捧げる。
それは一人の人間の死を悼むものであって、その犠牲を生んだのが自分たちであると、その犠牲の上に自分たちの生活があるのだと知らず、ただ世界にとって大切な人が亡くなった事を悲しむのだ。
愉快で腹がよじれそうだ。
何も知らず幸福に生活している人々に。
自分は不幸だと、憐れんで嘆く人々に。
そんな彼らを見つめ、嘲るだけの自分に。
そうだ、わかっている。
自分だってしっかりその歯車に組み込まれ、この世界は成り立っている。むしろ、中心に近い部分に食い込んで、今にも壊れそうな軸を支えているといっても過言じゃない。
いつからこうなったのか。
いつ生まれたのか。
そんな疑問、遠い昔に捨て去った。どれだけ考えたって答えがでないなら、考える事を放棄するしかない。目の前では人々が生活しているし、均衡が崩れそうになれば王に呼ばれ、界を渡り、異世界人を連れてくる。それが自分の役目だ。
そして今回もまた、世界で自分の存在に意味を見いだせぬ女を一人、消してやる。世界から無くなったその存在はどうなるのか。そんな事に興味はない。ただ自分は連れて行くだけだ。
そんな存在とばかり接していたせいだろうか。目の前を通り過ぎた人物が、妙に輝いて見えたのは。
不幸など知らぬような顔をして、恋人と思われる男性に手を振って別れる後姿を目で追っていた。鳴りだした携帯電話を耳にあて、楽しそうに会話するその姿。
嗚呼、どうせ。
彼女もまた、容易く絶望に染まるのだ。
堕としてやろうと思った。
彼女が憎いわけじゃない。むしろ、幸せそうな笑顔には生気が溢れ、一目見て思わず目で追ってしまうほどには、好意を抱いた。だが、彼女も他の人間と同じなのだと思ったからこそ、その輝きがいつまで続くのかこの目で見てみたくなった。
きっとすぐ、他の人間と同じように濁った目をして自分は不幸せだと自らを憐れみだすに違いない。そして、そんな様子を見て、自分もまた落胆し、そして安堵するのだ。やはり、他の者と同じだと。
愚かなのは、私のほうか・・・。
思わず自嘲を漏らし、『みやこ』と呼ばれた女性に近づいていく。
笑顔で電話を切り、どこか嬉しそうに口元を上げた表情はいきいきとしていて、見るものを惹きつける。どうか、その笑顔を自分にも向けてほしい。他の人間に向けるのと同じ笑顔を、私にも。そうすればきっと、少しの時間だけでも私も他の人間たちと同じになったように思えるから。
伸ばし掴んだ腕に、驚いた表情で振り返った彼女は、それから10年、一度だって私に笑顔を見せる事はなかった。
********************
みやこを連れ帰って数年。
彼女は世界を愛することなく、それでも希望を捨てずに生きていた。
王との謁見の後、二度と私に会いたくないと間接的に伝えられた言葉にざわりと胸の奥が不快に騒いだが、それも当然だと納得した。
連れて来るはずだった人物ではないことから、他の者たちにも小言を言われたが、今更元の世界へ戻すことはできないし、できたとしてもする気はない。もうすでに、彼女はこの地にいる。新たに贈り人を連れて来ることは可能だが、還すことは不可能だ。それを知っているから、小言を聞くだけで済んでいる。
二度と会いたくないとは言われたが、結局自分へと向けられる事のなかった笑顔に後ろ髪をひかれる思いで、何度も様子を見に行った。
最初に見た輝きに満ちた笑顔は失われ、表情にも疲れが見えて、体つきもどこかほっそりとした。しかし、瞳には強い意志の炎が宿り、死の影がちらつくことはない。
不思議だった。
彼女が望むものはここにはないし、二度と帰れないことも聞いたはず。それとも、何か希望になるものでも残っていただろうか。自ら意欲的に働き、憎いとすら思っているはずの世界の住人に優しく接する姿は、内情を知っている側からすると、どうにも不自然でおかしい。けれど、そんな違和感などないかのように、街の住人は彼女を受け入れている。
それは“贈り人”という有難く、敬うべき存在だからという事もあるだろうが、それだけでは人は集まらない。特に彼女は笑顔を失くしている。何がそんなに人々を惹きつけるのか。
本来なら、次に呼ばれるまであてもなく世界に溶けてさまようのに、彼女の事が気になって、今回ばかりは何度も姿を現した。もちろん、彼女の目に触れる事はないようにしたが。
絶望すればいいと思った。
やはり他の人間と同じなんだと実感させて、安心させてほしいと。
だが、あの笑顔が戻ればいいとも思った。
辛いと思える事を受け入れ、あの笑顔でもってこの世界を愛してくれたら、と。
ひどい事をしたという自覚はある。
彼女から大切な日常を奪い、幸せの淵から暗い闇の中へと突き落とした。だが、それを謝罪するつもりはないし、その事に対して後悔もない。自分がしたくてやったことだ。そのせいで彼女に恨まれたなら、それはそれで嬉しい事だとさえ思う。彼女はこれで、一生私の事を忘れられないだろうから。
そうだ、“一生”、だ。
二度と巡る事のない魂。この世界で果てれば、そこで終わってしまう命。
そこまで考えて、何故かそれがとても惜しいことに思えた。
自分は彼女の笑った顔を見ていないのに、このままでは二度とあの笑顔を見る事のないまま、彼女は消えてしまう。もう二度とその輝きを見る事はない。
それは嫌だ、と心が訴えた。
しかし、こちらの世界に来てしまった以上、今の生を終えれば命の灯は消える。それは変える事のできない運命だ。
――それならば
命が尽きないようにしてしまえばいい。
いつ彼女の笑顔が戻るかわからない。けれど、彼女の笑顔を見ないで失うのは惜しい。ならば、自分と同じ時を生きれば、いつかは目にする日もくるだろう。
自分の発想がおかしくて、笑みが浮かぶ。
そうだ。彼女を自分と同じにすればいいのだ。自分と同じ時を生き、決して切り離せぬ存在にしてしまえば、どこか虚ろなこの体も満たされるかもしれない。ああ、なんて良い考えだろう。それで彼女に更に憎まれようが、殺されようが、それはそれで幸福かもしれない。
楽しくて愉しくて、くつくつと零れた笑みが、声に出てしまう。
彼女はいつ気づくだろうか。
自分が、他の人間とは違う存在になったことを。
珍しく浮きだった心が、興奮して騒ぎ立てていた。
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それからどれくらい経っただろうか。
人間の生など長くても100と少し。
時間の感覚がなく、どれだけ時が過ぎていったのかわからない。だだ、周りが少しずつ変化していく中、みやこだけは変わらず同じ存在として生きていることだけはわかって、満足感が心を満たした。まだ周りがその違和感に気付かないあたり、そんなに時間は経っていないだろうとあたりをつける。
時々ふらりとやってきて様子を見てはいたが、今日は何か空気がざわめいていた。
過去にない現象に、落ち着かない気分になって知らずとみやこのいる場所まで足が進み、異変はみやこの周りで起きているのだと気付く。
「ミヤコ!?」
慌てて彼女のいる相談室に入れば、彼女を中心に光が溢れ、その体ごと光に溶けてしまいそうだった。
渡すものか。
ぞわり、と腹の奥から熱い何かがこみ上げ、かっと頭に血が上る。
わざわざ連れてきて、ずっと見守ってきたのだ。今更元の世界へなど、返してやるものか。例え相手が何であろうとも、みやこは私のものだ。
独占欲に似た執着心が心を満たし、元の世界へ戻ることなどできるはずがないのに、どういう訳か薄れ消えゆくみやこの体を強く抱きしめた。もし、まだ元の世界の繋がりがあるというのなら、そのつながりが彼女を呼んでいるというのなら、それら全てを断ち切るまで。
遠ざかるみやこの意識を追いかけて、自らも世界を渡った。
みやこのいる場所へ飛ぶとそこには大勢の人がいて、いつか見た彼女の恋人と、その男の妻となるらしい女が微笑み寄り添っていた。何を思う事もなく冷めた目で彼らを見つめて、そんなことより、と、みやこへと視線を向けた。
「あぁ……」
視線を向けた先には、歓喜に震えるみやこの姿。
元・恋人の結婚式だというのに、まるでわかっていないかのように、頬を染め、嬉しそうに口元を緩める様子に心が急激に冷えていく。
その笑顔が見たかった。だが、それを向けられているのは、すでに他の女と結ばれようとしている別の男だ。当然、面白いはずもない。
お前がいるべき場所は、私の隣だ。
そう心の中で呟いて、ふらふらと人ごみに近づいていくみやこと、心に彼女への想いを残す2人の男女とを繋ぐ想いの糸を握り潰した。
実体ではないといっても、本来なら二度と帰れるはずのない世界へみやこは戻ってきたのだ。互いに呼び合ったと考えるのが妥当だろう。何より、それだけ強い想いがあるのなら、魂だけとはいえ互いが見えてもおかしくない。
そんなこと、誰がさせるものか。
万が一にも互いが見えて、更に望郷の念を残すことになってはならない。
何かに気付いたようにみやこへと振り向きかけた男の意識を、名残りともいえるみやこへの想いを消すことで防いだ。やがて白い衣装を着た二人の影が重なり、こちらを振り返ることなく口づけを交わす。
仄暗い優越感に満たされながら口元に笑みを浮かべて、その様子を見ていた。
ふとみやこを見やれば、異世界へと連れていった時よりも蒼白な顔で立ち尽くし、瞳はどんよりと澱んで今にも崩れ落ちそうだった。
そうだ。それでいい。
この世界に絶望すればいい。二度と、帰りたいなどと思わないほどに。
胸にこみ上げるどんよりとした充足感が心地よい。征服感にも似た愉悦に、心が浮足立っていく。
逃げ場などないのだ。あったとしても、私自ら潰してやる。
自分がここまで何かに執着するなんて彼女に出会うまで考えたこともなく、自らの変化が面白い。
最初はただ、彼女の笑顔が自分に向けられたら、と思っただけだった。けれど、あまりにも幸せそうに彼女が笑うから、いつも見てきた自らを不幸だと嘆く贈り人のように絶望させてやろうと思ったのだ。全てを失い抜け殻のようになった彼女はどうなるのか。そもそも、気力に満ちた彼女が全てを失ったら、どんな行動を起こすのか。興味は尽きず、今考えればその時すでに、彼女を逃がすつもりはなかったのだとわかる。
恋だとか愛だとか、そんな生ぬるい感情を抱いた覚えはない。だが、離れていくことは許さないという身勝手で乱暴な想いが胸の奥で燻っている。
そうだ、今更逃がしはしない。
私を本気にさせた自らを恨むがいい。
恍惚の表情を浮かべ、うっとりとみやこを見つめていると、ぐらり、と彼女の身体が揺れ、輪郭が薄れゆき、やがて完全に空気に溶けた。
「せっかちな事だ」
楽しげに嗤いながら後を追う。
急ぐことはない。彼女が行く場所は、わかっているのだから。
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彼女を追ってたどり着いたのは、案の定、みやこの母がいる場所だった。
みやこは力なくベッドに横たわった老齢の女性にすがりつくように、ベッドに突っ伏して泣いている。悲痛な声が病室に響いた。
彼女がここまで泣き腫らす程、母という存在は大きいのかと少々うんざりする。
彼女を産んだ存在なのだから、本来ならばその存在は好ましく、礼儀にのっとってきちんと挨拶をしたいところだが、現状では彼女の母であると同時に彼女を私から引き離す存在でもある。自然と疎ましい気持ちの方が大きくなる。
そういえば、と、一時期この世界から干渉されそうになったことを思い出した。
通常、自分や世界を渡るほどの力を持つ者しか他の世界に干渉する事はできないのだが、不思議な事に、数年ほど前、たった一人の人間がそれを成そうとしたのだ。
何かを訴えていた声は不明瞭で聞き取れなかったが、それがみやこを求める声だという事だけはわかったので、みやこがそれに気づく前にその存在ごと消し去った。
消す、といっても他の人間のようにこちらに連れて来るわけにはいかないから、干渉しうる源である強い想いを封じ込めた。それからしばらく、念のためにとその男に気を配っていたが、いつ頃からか存在を感じなくなっていたから、魂が輪廻の輪に戻ったのだろう。
それが誰か、なんて当時は興味もなかったが、みやこの泣き顔を見て、何故かあの男の顔を思い出した。
まぁ、どうでもいいことだが。
みやこにしろ、その男にしろ、想いは力になる、なんて話はお伽噺の中だけにしてほしい。
そうは思っても考えたことを否定できないのは、今まで幾度となく不可思議な現象を見てきたからだ。今までは容認してきたが、今回ばかりは間違っても、それを認めるわけにはいかない。
みやこの嗚咽を聞きながら、底冷えのする瞳で彼女の母をみやる。
ピクリ、と瞼が震えるのが見え、みやこが驚きの声を上げた。
特に何の力も使っていないのに、深く沈んでいた彼女の意識が徐々に浮かび上がるのを感じ、信じられない思いで見つめた。
やめてくれ。
そう、心から願った。
今起きられたら、確実にみやこはこちらに戻ることを望む。そんな事、させるわけにはいかない。
ゆっくりと開いた瞳がみやこをとらえ、口元に笑みを浮かべる。みやこが喜びの声を上げる中、私は空気に溶け込んでゆっくりと彼女の心臓に圧力をかけた。
吐く息は細くなり、持ち上がった瞼が、再びゆっくりと下がっていく。
瞼が完全に閉じる直前、光を失いつつある瞳が、ありえない事に私を捉えた。空気に溶け、みやこにすら見えない私の姿を、しっかりと見つめる。
その時間はほんの一瞬、数秒にも満たない時間だったのに、まるで時が止まったかのような錯覚を受けた。
産毛を逆さに撫でられるようなざわりとした不快感に眉を寄せ、無感情に睨みつけたまま命を奪う。赤子の手をひねるよりも簡単に、彼女は息を引き取った。
彼女は私を見ていた。
例え死の間際だとしても、世界が違う以上巡る魂もまた相容れぬものだ。それなのに何故。偶然と言った方が理解もできる。だが、揺れる事もなく真っ直ぐにこちらを見つめる眼差しは、間違いなく自分を――自らを殺そうとしている相手を、捉えていた。
しかも、だ。
彼女は私に笑って見せた。
死に逝く残り少ない時を、愛しの娘ではなく自分を亡き者にしようとする人物へ向けて微笑みを浮かべるなど、正気の沙汰とは思えない。急激に失われる命を前に、混乱していたのだろうか。いや、そうに違いない。そうでもなければ、あのように優しく微笑むわけがない。まるでみやこを見つめるような、愛しげで、温かい笑みを浮かべるわけが――。
混乱していた。
今まで向けられたことのない感情を受け、理解できない出来事に不安にも似た苛立ちを感じる。渦巻く黒い感情が体の中でとぐろを巻き、意味もなく叫びだしたくなった。
いらいらと不安定な感情を持て余して、目の前で泣き叫ぶみやこを見つめる。
そうだ。
あの眼差し、見覚えがあると思った。
彼女……みやこに、似ているんだ―――
急激に意識が世界からはじき出されるように元の世界へ飛ばされるのを感じた。記憶を封じ、人を殺める行為は、いくら私といえど世界に許容されなかったらしい。
誰に気付かれることもなく声をあげて助けを求めるみやこを見下ろしながら、遠ざかる意識と身体。
そして飛ばされる直前、消えかけた手で、通りかかった男の腕を引いたのは何故だろう。男が真っ直ぐに窓際のベッドに向かっていき、みやこが安堵の表情を浮かべたのが見えた。
そして、私の意識は、完全にその場から移転した。
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ふと気づくと、いつものように自分の世界を漂っていた。
嗚呼、戻ってきたのだ、とすぐに理解する。
光も闇もない空間。自分が何者かもわからず、ただ存在するだけ。
名も知らぬ彼女の母を殺めた自らの手を見つめようとすると、何もない空間に他の人間と同じ5本の長い指を持った掌が現れた。手首を通り、腕、肩と視線を上げると、望んだことが実現するようにスーッと体が作り上げられていく。
全てのパーツが出来上がったところで、やはり、と、思った。
どんなに同じ姿形をしていようと、行動を似せてみても、同じ目線で見つめてみようとも、私はヒトとは違うものなのだ。
人を愚かだと思うのも、簡単に命を刈り取ってしまえるのも、きっと自分が彼らと違う存在だからなのだろう。
幸せそうな空間を壊したくなるのも、絶望に歪んだ顔を愛しく思うのも、全ては何もない空虚な胸を満たすため。一時だけでも、自分に向けられるなんらかの感情を得る為。
いまさら、自分の存在に疑問など抱かない。ただ無性に、みやこに会いたくなった。
作り上げた身体を消し去り、空間に溶け込むように彼女の元へと向かった。
彼女の身体が横たわるベッドの横へと現れ、片膝をつく。
意識のない顔にはどんな表情も浮かばず、ただ規則的に息をするだけ。
彼女は、戻ってきてくれるだろうか。
もし、彼女が元の世界を選んだなら。
ここにある身体はたちどころに滅びるだろう。私と同じ存在となっても、いくら命を繋ごうとしても、魂がなければ本体は生きていられない。そして、彼女の魂は今、彼女の愛する世界にある。
もし彼女がこの世界を拒んだなら、彼女は気づかぬままに、愛した世界でその魂ごと消え去るだろう。二度と生まれ変わることなく。誰にもその存在を知られることなく。
自分が幼い子供だったなら、泣いて、駄々をこねて、置いていかないでと言えただろうか。
謝罪するつもりはないし、後悔なんてしてもいないが、彼女の笑顔が見られないことを少し残念に思う。
自分がいる世界にいればいいと思っただけだった。それがいつの間にか、自分への向けられる憎しみという感情や、この世界への嫌悪を感じて、喜びを抱いた。
他の贈り人と同じくいつかは消え去る命だとわかっていたはずなのに、それは嫌だと思ったから、断りもせずに彼女を老いない体へと変え、本人さえ知らない変化を嬉しく思った。
何もない無の世界にいても、いつもみやこの事が気になっていた。
やはり、無理だ。
このまま手を離すなんて。
彼女の頬に右手を当て、静かに呼びかける。
もし、少しでもこの世界に未練があるならば、消えることなく戻ってくるように。数ある世界の間をすりぬけ、間違いなく私の元へ帰ってくるように。
じわりと掌が熱くなり、彼女の心を繋ぐ細い意識の糸を掴みとる。
見つけた。
強引に手繰り寄せたくなる気持ちに蓋をして、焦って千切ってしまわないようしっかりと世界と意識を繋げた。
応えた……!
小さな振動が心に伝わる。
ほんの少しでも、たった一かけらだけでもこの世界の事を気にしてくれたのだとわかって、泣いてしまいそうになった。
これで、彼女を繋ぎとめることができる。
彼女が、戻ってくる―――!!
胸が歓びに震え、じわりと熱がこもる。
彼女の瞼が震え、ゆっくりと美しい瞳がのぞいた。
頬から手をどけるが、そんな事さえ気づかないようにみやこは瞬きを繰り返す。
覚醒には至らない様子のみやこを現実に呼び戻すように片手を握り、もう一度頬に手を添え、笑みを浮かべた。
「おかえり、ミヤコ」
いまだにぼんやりと夢うつつな表情で、それでも視界に私を映した事が嬉しくて、何度も頬を撫でる。今にも声を上げて笑い出しそうなほどの歓喜を抑え込むのに苦労した。
帰ってきた、愛しいみやこ。
もう、逃がさない。
わずかに手を握る力を強くすれば、我に返ったかのようにじっと私の瞳を見つめ、あろうことか、私に向かって優しく笑い返して、そして言った。
「ただいま」と。
何が、起こったのか。
彼女が帰ってきた喜びもこの時ばかりはどこかに飛び去って、自分に向けられたこの表情の意味を探る。
温かい光を湛えて細まった瞳に、柔らかな頬は持ち上がり、ぷっくりとした弾力のある唇は弧を描いて、それは、まさしく、自分が望んでいたモノ。
心から望みながらも、それは叶わないと思っていた。
彼女の全てを奪い、憎しみを向けられることでさえ嬉しいと感じていたのに、こんな、こんな表情を見たら・・・!!!
人間の言う“女神”がいたら、こんな姿なのではないかと本気で思う。
彼女本来の温かな表情が輝いて見え、直視できずに瞳を反らした。
今でも心の奥底で、馬鹿な女だと嘲笑う声がする。
どんな心境の変化があったか知らないが、それまでの生活を奪い、愛する人を奪い、環境も信仰も何もかもが違う本当の“異世界”へと連れて来た男に対して、そうとは知らずに優しい笑みを与えるなんて、と。
けれど、私にとっては好都合だ。
彼女がこの世界に来てから失われてゆく明るい表情に、面白くないと思っていたのだ。二度と戻ることはないかもしれない、一度だけ見たあの笑顔をまた見たいのだと。そしてできるなら、自分に向けてもらえたら、と。
緩む頬をそのままに、反らしていた瞳を再度彼女に向ける。
そこには変わらず自分をみつめる彼女の瞳があった。夢でも、幻でもなく。
嗚呼、嗚呼、ああ………!!!!!
言葉にできない感情が荒れ狂う嵐の如く胸の内を暴れまわる。あまりにも大きな歓喜の波にいまいる国を丸ごと吹き飛ばしてしまいそうになったが、ようやく目にした彼女の笑顔の前でそんな事できるわけがないと、意識的に力を奥へと押し込んだ。
今にも理性を突き破って暴れだしそうな感情と力が、ぐるぐると腹の奥を回っている。
じっと見つめれば、同じく真っ直ぐに返してくる瞳が嬉しくて、再び先ほどの言葉を繰り返していた。
「おかえり」
告げた時、少しだけ恥ずかしそうに染まったみやこの頬に、爪をつき立てたい衝動に駆られる。
どくどくと胸が早鐘を打ち、目の前にいる彼女の存在が眩くて胸が震える。だがそんな気持ちとは裏腹に、頬に当てている手を首に回して締め上げてしまいと、正反対の凶暴な欲求が湧き上がる。
愛しくて、愛しくて、制御できぬ感情を持て余したまま、浮かんでくる欲望のままにほっそりとした首に向かいそうになる手で、頬を撫でた。
みやこ、お前は何も心配することなく変化のない日々を過ごせばいい。
もう二度と、目を離したりなんてしない。
瞬きした瞬間に零れ落ちた透明な滴をそっと指でぬぐいながら、静かに涙するみやこを見つめて胸が高鳴った。今は穏やかなこの顔を、恐怖に歪めてやりたいという邪な想いが駆け抜ける。
他の誰かに奪われそうになったなら。
もしくは、みやこが心を残すような相手が現れたなら。
その命、魂、記憶、繋がる可能性のある全てを私が摘み取ってやろう。
そうするだけの価値が、彼女にはある。
今までもこれからも、私が共に生きたいと思うほど興味深い人間は、彼女しかいないだろうから。
いずれ世界が朽ち果て、全てが滅びたとしても、私と、そしてお前だけは、未来永劫、共にあろう―――
何も知らず、無垢な表情でふわりと微笑む彼女を抱きしめる為、私はゆっくりと両腕を広げた。
みやこを突如襲った不幸は、全て一人の男によって仕組まれたものでした。
何も知らぬみやこは、嫌悪していた男に少しずつ心を開いてゆき、やがて恋に落ち、人間ではない彼と、自分の変化を受け入れて結ばれます。
男は彼女の羽を折り、彼女が望むものを与える事で、彼女に気付かれることなく二度と出ることの叶わぬ檻の中に繋ぎ止める事に成功しました。
何も知らずに輝く世界で生きるみやこと、破壊衝動を抱きながら歪んだ愛情でもって彼女の世界を掌握する男。
二人は世界が滅びても、永久に離れることなく、そこに在り続けるのでした。
めでたし、めでたし。