花の指輪
「おい、湊。外見てみろよ」
心地よい風を受けながら窓際の席で、レモンが染みた唐揚げの味を堪能していると、颯太が窓を指差してやや興奮気味に言った。言われるまま立ち上がって窓の下を覗き込むと、そこには男女一組が何やら話している様子だった。しばらく見ていると男子が頭を下げて何かを言っている。女子はそれを拒否するような手振りをしているので、おそらくは告白現場なのだろう。
「いいなー告白。俺も可愛い女子から熱意のこもった告白受けたい」
安っぽい茶髪を掻きながら颯太が言い、その瞳は羨ましいという色に染まっていた。こういう浮ついたことが大好きな彼は告白現場を見つけると、いつも俺に新しいおもちゃを見つけたように報告してくる。
「まずはその茶髪を黒にするところから始めようか」
冗談っぽく笑って言ってやると、颯太は
「これはオシャレなんだよ」
と、ふてくされた。二人で他愛ない会話を続けていたら、いつのまにか外では変化が起こっていた。男子がその場から逃げるように走り去っていったのだ。女子の方は見送りもせず何をしているのかというと、なんとこちらを見ていたのだった。それを認識した瞬間、俺は反射的に窓の下に壁を背にしながら身を隠した。心臓はどくどくと脈打っている。
「目合ったな。しかもあれ薫ちゃんじゃねえか。人気だなあ」
「……」
ひゅう、と口笛を吹く颯太を無視して再び昼食へと戻り、砂糖のように甘ったるい卵焼きを咀嚼した。
「俺も中学の時は彼女いたんだけどなあ」
「へぇ、初耳」
「ま、一ヶ月もしないうちに別れたよ」
「中学生ってそんなもんじゃないか」
「あー、俺の知り合いで七人ぐらいと付き合って別れたの繰り返しした女とかいるぜ」
「へぇ」
「何、不機嫌?」
「別に」
「まぁ、不満なのはわかるけどよ。だってお前は薫ちゃんの――」
その言葉を遮るように俺は握った左拳を、勢いよく机に叩き付けた。黄色の弁当箱が揺れ、残った唐揚げが一瞬地上に投げ出された魚のように跳ねた。音を合図に教室内はしん、と通夜のように静まりかえり、クラスメイトの視線はこちらに集中している。なんだか少し気恥ずかしいようなむず痒い気分になり黙り込んでいると、何でもないと察した皆は、指で押したクッションが元に戻るようにさっきまでの通りざわざわと話し始めた。
「……悪い」
颯太が申し訳なさそうな声色で短く謝った。
「いや、ごめん」
お互いは視線を合わさず、黙々と弁当の中身をつつく。ほうれん草のおひたしを口に含むと、醤油がよく染みているのか塩辛い味が口いっぱいに広がった。ちらりと目の前の颯太に目をやると、自分と同じようにひたすら手を動かしてお弁当の中身を減らしていた。それから俺達は大した会話をしないまま、昼休みを終えてしまった。喧嘩をしたわけではないが、なんだか少し気まずい雰囲気なのが不快だった。
「湊」
担任教師の長ったらしい世間話がメインだった帰りのホームルーム終えて、鞄に荷物を詰めていた時だった。銀の鈴を転がしたような声が自分の名前を呼び、心臓が軽く跳ねる。いつの間にか横に立っていたのは、よく見知った顔の人物だった。
「薫……」
昼休みの時、告白に呼び出されていた女子。虎井薫。彼女は学年のマドンナと称される美少女だった。絹のような黒髪、半袖の夏服から伸びる露を含んだような滑らかな白い腕、細い輪郭にすっきりとした顎、澄んだ黒の瞳。とにかく美少女要素が強く、先程のように呼び出されたりしては告白されることが多い。何でも好きな人がいるからだとかで、全て断っているらしいが。
「湊、一緒に帰ろう」
自慢ではないが、そんな引っ張りだこな美少女に、俺は毎日帰りを誘われているのだ。
夏の太陽に照らされて温度が上がったアスファルトを踏みしめて歩く。
お互い他愛無い会話を続けて、どんどん足を進める。今日は授業がだるかったとか、弁当の中身はなんだったとか、友人がこんなことをしていたとか、そんなこと。
「ねぇ湊」
「何?」
問いかけてきた薫を横目で見ると、背筋がピンと伸びた歩き方が目についた。
彼女は何をしていてもどこか気品が漂っていると常に感じる。前世はお嬢様かなんかではないのか。
「……好き」
彼女のその言葉によってそんな呑気な思考にひびが入る。心臓が若干乱れるが、脳は至って冷静だった。俺は低く吐息しながら、頭をぼりぼりと掻いた。
「……あのさ、それやめようぜ。俺達双子だろ」
そう、虎井薫と自分は双子の関係にあたるのだ。だったら、学年のマドンナとこうして一緒に毎日帰っているはずがないのである。先程、彼女には好きな人がいると言ったが、お察しの通りその相手は俺である。つまり、彼女は禁断の想いを俺に抱いているということなのだ。ちなみに、俺らのこの関係を知っているのは中学からの付き合いである颯太しかいない。
「双子でも関係ないよ、私は湊が好きだから」
透き通った黒の瞳が俺を捉える。その瞳には強い意志が宿っていた。
「でも駄目だろ、法律的にも、色々さ」
強い意志に押されて、たじろぎながらも答える。
「そんなの関係ないっていつも言ってるでしょ」
「だから駄目なことなんだっていつも言ってるだろ」
両者、睨み合う。心のどこかでちりちりとした焼けるような気持ちがあるのに、彼女の想いを否定し続ける毎日。苦虫を噛み潰したような顔で、俺は薫の端正な顔を睨んでいた。
「ふんだ」
先に視線を外したのは薫の方だった。怒りを浮かべた表情だが、どこか寂しそうな顔。この顔を俺は何度見て、何度爛れるような思いを経験しただろうか。薫のことを考えるだけで軽蔑とも愛情ともつかない思いが胸の内をぐるぐると駆け回る。
「湊は絶対に後悔するよ、こんな良い妹と何で付き合わなかったんだって」
べー、と舌を出して挑発行為をする薫。
「だから、俺らは兄妹だから駄目なんだって」
「じゃあ、兄妹じゃなかったら良かったの?」
核心をつく問いをされて、ぐっと息が止まる。きっぱりと完全に否定しようとしたが、勝手に心のどこかで制止をかけてしまい、出来なくなる。
はいともいいえとも言えず、不安になり憂鬱になり空虚な気持ちになった。これはなんだろう。俺は薫のことを本当はどう思っているんだろう。好きと言われるのは鬱陶しくも愛おしく感じ、自分と薫のことを兄妹という枠に嵌める度、儚く切ない気持ちになる。駄目なんだ。兄妹である限り俺達は恋愛をすることは出来ないんだ。周りが奇怪な目で薫を見ているとこを想像するだけで、憤怒と嫉妬が一度に押し寄せてくる。それだけは避けたいことだ。
「……さぁな」
長い思考の末に出た言葉はそれだけだった。
「あんた、そろそろ諦めさせなさいよね」
かちゃかちゃと皿と皿がぶつかりあう音をBGMにしながら洗い物をしていると、後ろからハスキーな声が飛んできた。振り返らずに「何が?」と言うと、「とぼけんじゃないわよ」と呆れた声色の怒声。
「薫のことに決まってんでしょ。いつまでずるずる引きずるつもり?」
一旦洗い物を止めて、タオルで濡れた手を拭う。振り返ると、化粧っ気の無い母がテレビに視線を落としながらとくとくとジョッキにビールを注ぐ。こんもりと盛り上がった泡を飲み込むようにぐい、と母はビールを口にし、クリームのような泡が少し口元について残っていたのを手の甲で拭った。
「引きずるも何も、まだ付き合ってないだろ」
「そういうことじゃないわよ」
テレビから視線を外し、こちらに睨みかかるように顔を向ける。
「わかってんのよ、あんたのことも何でも」
「わかるって何が?」
「あんた、とぼけるの好きね。まぁいいけど」
「なんだよ」
「とにかく、諦めさせないと駄目よ。またあんなことが起こったらどうするの」
心臓が波打った。母は目を鋭くさせる。「あんなこと」が指すのは四年前の事件のことしかない。薫は幼少期から持っていた自分への感情を中学生二年の時にぶちまけたことがある。不幸なことに俺達の父親は偏見持ちであり、そういった類のことをひどく気持ち悪がった。彼は薫に幾度なく暴力を振った。腹を蹴り、髪を掴み、顔面を殴る。母は必死に夫を止めようとしたが、男の力には敵わず、当時薫と同じ中学生だった俺も力では到底敵わなかった。薫は泣き喚き、夜は眠れず、体調を崩していく毎日だった。
「あんた、薫のこと傷つけたいわけ?」
俺を睨みながら言った。
「そんなわけないだろ!」
本当に大切にしている存在にそんなことはしたくないと、つい叫んでしまった。
「じゃあ、そうしなさいよ。あたし面倒事は御免よ」
「でも、父さんはもう事故で死んだろ。あれは父さんのせいで起こったことなんだからもう大丈夫だろ」
二年前、俺達が高校に入学する直前あたりに父親は不慮の事故で亡くなった。不注意での車と衝突事故という何ともありふれた事故であった。その時俺は薫が助かるという興奮と父親が死んだという空虚に苛まれて、鬱病のような空っぽな心の状態になっていたことがある。
「……学校の生徒にバレたらどうするつもりよ?」
「……」
「あの子がクラスで浮いた存在になるわよ。登校が苦しくなるわ。もちろんあんたもね」
面倒事は御免、といいつつ俺達双子を気遣う言葉だった。
「わかってるよ」
「薫を諦めさせる以外に楽な方法は他には無いわ。それだけは言っておく。あとはあんたが決めなさい」
「……ありがとう、母さん」
母を一瞥して、俺は残った食器を洗う作業に戻った。
まばゆい夏の陽光に包まれながら、薫と二人で登校する。灼熱の太陽が俺達をこれでもかといわんばかりに照りつける。じっとりとシャツの下に汗が滲み、何とも言えない不快で気持ち悪い気分になる。このままプールか海にでも飛び込んでしまいたいぐらいだ。
「今日も暑いなぁ」
「本当にね。夏は嫌いよ」
薫は涼しげな顔を見ていると、風鈴の音を聞いたかのように気分だけ涼しくなってくる。
「……ねぇ、まだ時間ある?」
聞かれて、ポケットから携帯を出して時間を確認する。七時四十五分。まだ余裕はあることを伝えると、薫は口元を微かに吊り上げて嬉しそうに微笑んだ。
「そっか! じゃあ、ちょっと寄り道していこうよ」
そう言われて、連れてこられたのは草に囲まれたとある小さい公園だった。遊具が滑り台のみであり、あとは砂場があるだけ。なんと寂れていることか。
「覚えてる? この公園」
確かに見覚えがある公園だった。ここは四年前、薫と共に父親から逃れようとして辿り着いた公園だ。「懐かしいな」
一つだけしかない古ぼけたベンチに腰掛けながら、呟いた。
「思い出さない? 四年前のこと」
「思い出すな、確かに」
四年前、父親の暴力で泣き喚いていた薫を助けようとして、夜中にこの公園に連れてきた。あの時もこうやって変わらないベンチに二人で腰掛けながら、薫を慰めていた。そこで、草むらに生えていた名も知らない小さな花を一輪つんで、指輪をつくって薫の指にはめてあげたことがある。薫はそれを子供のように無邪気な笑顔で大層喜んでくれた。そうだ、俺は薫の喜ぶ姿が見たくてあの指輪をつくったんだ。
「指輪、また作ってよ」
白い腕を伸ばして、早く早くと急かしてくる薫。仕方ないなと軽くため息をついてから、あの時と同じ花を一輪つむ。丁度、あの時も夏頃だったんだな。
「出来たよ」
簡単につくった花の指輪を、薫の左手の薬指に嵌めてやる。薫は四年前と変わらない笑顔で大いに喜び、指輪を愛おしそうに撫でた。
「これが湊との結婚指輪だったらいいのになぁ」
伏し目がちに薫はそう言った。
「……なぁ、もう終わりにしよう。母さんにも言われたんだ。お前のためだし、俺のためでもあるんだ」
「……うん。今までごめんね」
やけに薫は素直だった。これで俺達の微妙な関係は終わりを告げるんだ。そう思うと安心したような、でもどこか不安な感じが胸いっぱいに広がった。しかし、それ以上に心が空っぽだった。空虚。その二文字だけで今の心理状態を表すことが出来る。本当にこれで良かったのか、という言葉が脳の中を駆けめぐる。こんなにも脳は働いているのに、心は水が入っていないビーカーのように空だ。
「じゃあ、学校行こうか」
薫の声が少し涙ぐんだと思って、彼女の顔を見ると、大きな雫がいくつも頬をつたって流れていた。僅かに狼狽し、そして、いらだちが鍋のようにぐつぐつと煮えかえった。薫を泣かせてしまったんだ。いつも品行方正で冷静沈着だけど、笑顔は子供のように無邪気な薫を。四年前、薫の涙が見たくないからああやって連れ出して花の指輪をプレゼントしたいんじゃなかったのか。薫のためと思って行動していたのに、俺が泣かせてしまった。そうだ、薫の笑顔が見られる方法、まだあったじゃないか。ずっと気付いていたのに、ずっと知らない振りをしてきた方法。
「湊?」
気付くと、細い彼女の肩を横から寄せて、抱きしめていた。
「俺、薫が好きなんだ。どうしようもなく」
肩の肉に指が食い込むぐらい、力強く抱きしめる。
「ごめん、ごめんな。今まで辛い思いさせちゃって」
薫は黙っていた。しかし、その細腕でやんわりと抱きしめ返してくれた。
二人は落ちていく。禁断の恋に。ずっとずっと深くまで。