おれはいいよ? おれはね? うん。いい、おれはいい。おれはいいけどね、でもさ―― :約3500文字 :コメディー
「――だからよ、わかったか? 休憩スペースとはいえ、会社だから。気を抜くなって言いたいわけよ。誰が聞いているかわからないんだからさ」
「はい……」
「はい……」
とある会社の休憩スペース。先輩社員が腕を組み、後輩二人に説教じみた話をしていた。
先輩は椅子に深く腰掛け、股を大きく開いている。一方、後輩たちは腕を後ろに回して、うつむき加減で立っていた。
「愚痴とかさ、悪口を言いたい気持ちはわかるよ。楽しいもんな。でもさ、ここ会社だから。せめて飲み屋とかならまだわかるけどな。ははは」
「はい……」
「はい……」
「現に当人が聞いちゃってるわけだからさ」
「はい……それはもう、本当に……」
二人は再び頭を下げようとした。だが先輩は「ああ、いいのいいの!」と軽く手を振り、それを制した。
「おれはぜーんぜん気にしてないから!」
「え、そうなんですか……?」
「当たり前よお! むしろどんどんくださいって感じ。おれには全然いいの。楽しいから。……でもさ、他の人だったらやっぱりよくないぜ? おれはいいけどね」
「はい……あの、そろそろ戻らないと……」
「ああ、うん。ま、最後にまとめますと、おれはいいけど、他の人の悪口は言うなよって話ね」
「はい、ありがとうございます」
「ありがとうございます。では失礼します」
二人は軽く頭を下げ、踵を返して離れようとした――その瞬間だった。
「待って!」
先輩が声を張り上げた。二人はぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返った。先輩は小さくため息つき、片手を高く上げると、指先をちろちろと動かして手招きした。
二人は顔を見合わせてから、再び先輩の前まで戻ってきた。
「はい……?」
「“ありがとうございます”って、何?」
「えっ。何、とおっしゃいますと……」
「いや、さ……ああ、ありがたいお話をありがとうございますって意味か。いやあ、てっきり、“これからも先輩の悪口を言います”って意味だと思っちゃってさ。はははは!」
「はい……」
「ま、そんなわけ――え、そうなの!?」
「え、ええ。だって『おれはいい』っておっしゃっていたので。なあ」
「はい。これからも言います」
「おー……」
先輩は口をO字に開けて、数秒固まった。
「いや、さ。だから、うん。おれはいいのよ? おれのことはね? いくらでも悪口を言ってください。もう大好物です! ……でもさ、ほら、誹謗中傷っていうの? SNSとかで若い連中が傷ついてさ、自殺しちゃったりするじゃない。だから、そういうのはあんまりよくないよって話」
「はい。それはもちろん」
「先輩だけにします」
「おお……うん。おれはいいよ。いい。全然いい。むしろどんどん来いやって感じ。な。誹謗中傷してきてください。もう楽しくて楽しくて仕方ありません。おれはいつでも付き合ってあげます。……ただ、ただよ? 周りの人にそういうことをやると普通は傷つくから。お前ら、やめたほうがいいよ」
「ええ。ですからやりません」
「先輩以外には」
「うん……うん、うんうんうんうん」
先輩は腕を組んだまま何度も頷き、鼻から大きく息を吐き出した。
「ま、いいけどね。おれはね、いいけど。爺だの老害だの、もっと言ってこいって感じ。ただな、お前らな、友達とか周りの人には言うなよ。おれはいいよ、おれは――」
「絶対に言いません。な」
「うん。先輩だけに留めます」
「うーん……はい。はい、はい、はーい。どうも、老害おじちゃんでーす。はははは! えー、もう一回説明します。なんか話がおかしくなってるけど、おれが言いたいのは、おれはいい――」
「先輩はいいんですよね? もう分かりましたから。そろそろ行かないと」
「仕事もありますので」
「うん。いや、だからな、いいんだけどさ。おれは屈しないし、負けませんよ。正義は大義。正義は誰か分かってる?」
「正義……ですか」
「うん?」
「いや、そもそも悪口でもないというか……。なあ」
「はい。先輩がドーナツ屋で店員さんに大声で怒鳴り散らしていたのを見かけたって話をしていただけです」
「あー……」
先輩は口を半開きにしたまま硬直した。だがすぐに「いやいやいや」と照れたように笑いながら耳の裏を掻いた。
「いや、大声で怒鳴り散らしていたっていうのは、ちょっと言いすぎというか、脚色? あ、やってんねえ! やってるやってる! よっ、大将! いよっ!」
「ちょ、声大きいですよ。人来ちゃいますよ」
「いやいやいや、お前らが変な言い方するからじゃーん。ははは」
「え、じゃあ、クレーマーじゃなかったんですか?」
「クレーマー!? いやいや、ははは! 笑っちゃうな。なんだこれ、面白いよ。はははは!」
「店の外に出てからも、スマホで店内を撮影していましたよね。馬鹿とか、ババア、ジジイ、デブとか言いながら」
「あー、おー……いや、違うんだよ。聞いて? 今夜、おれの知り合いのタクトってやつが講演会をやるんだよ。でよ、差し入れにドーナツを三十個持っていこうと思ったわけ。でもよ、店員が十五個しか売れないって言うんだよ。在庫がないからって。お前、ははは、タクトの講演会に十五個じゃ足りるわけねえだろ。なあ?」
「さあ……」
「タクト?」
「おん。タクト。知らない? 高級車に乗ってて、高級ワインにも詳しい」
「いや……」
「何してる人なんですか?」
「ま、とにかくよ。店員が三人もいるんだから、夜までに追加で焼けるだろって言ったわけ。でも、“当日はデキマセーン”だとさ。事前予約してほしいみたいなこと抜かしてきたんだよ。じゃあ、じゃあよ、残ってる分全部くださいって言ったらよ、今度は“他のお客さんが困るので全部売ることはデキマセーン”だとよ! あの上から目線の言い方がほんとムカついてさ。だから『早く潰れちまえばいいんだよ、こんなドーナツ屋』って言ったわけ」
「先輩も悪口を言っているじゃないですか」
「しかもSNSに動画まで上げていましたよね」
「いや、悪口っていうかさ、もったいないなって思ったのよ!」
「もったいない……?」
「そ。おれ、その店で結構ドーナツ買ってたのよ。五十、いや百……二百個くらいかな! でも今回の件でどうなる? もう買わないよね? はい、太客とビジネスチャンスを失いました! 人気があるからって、ちょっと高飛車になっちゃったのかな? そこがもったいないって話。うん。あーあ、残念だなあ」
「でも、“早く潰れちまえばいい”んですよね?」
「いや、それはさあ……違うやつじゃん」
「違うやつ……?」
「いや、お前らさあ、あの店でドーナツ買ったこともないくせに、ガタガタ文句を言うんじゃないよ」
「いや、ありますよ。会社から近いですし」
「そもそも買いに行ったから、あの場面に出くわしたんです」
「あー、そう? でも、どうせ二個か三個だろ? それじゃ分かんないよ。おれくらい買って初めて見えることもあるわけ。あの店にはもっと勉強してほしいのよ。お客様は神様。これ、客商売の基本だから!」
「いや、ちょくちょく買いに行ってますけど」
「うん。おれらの分だけじゃなくて――」
「あー! もういい、もういいよ! ドーナツの話は! お前らいつまでその話してんの?」
「先輩が始めたんでしょ」
「とにかく!」
先輩は大きく息を吐き出した。
「おれはいいけど、人の悪口は言うなよってこと。お前らのためを思って言ってやってるんだからな。ありがたく聞いとけよ!」
「アドバイスする人の声量じゃないでしょ。ほんと誰か来ますってば」
「潰れちまえ!」
「もう、ただのパワハラじゃないですか……」
「あっ、部長」
「おー、君たち何してるの」
部長が片手を軽く上げながら歩み寄ってきた。
「昼休憩、もう終わっちゃうじゃない」
部長は穏やかに微笑みながらそう言った。三人は慌てて姿勢を正し、揃って会釈した。
「い、いやあ、どうも部長」
先輩が引きつった笑みを浮かべて言った。
「ああ、うん。あ、なんか『潰れちまえ』とか聞こえたけど」
「え……いやー、あー……あ! 『つぶらな瞳』って言ったんですよお。もう、後輩たちが可愛くて可愛くて、『この、つぶらな瞳だな!』ってねえ。ははははは!」
「あ、そう。それで君たち、頼んだものは?」
部長は先輩には軽く視線を向けただけで、すぐに後輩二人に顔を向けた。
「あ、これです。どうぞ」
後輩の一人が紙袋を差し出した。部長はそれを受け取り、中を覗き込むと顔を綻ばせた。同時に、甘く香ばしい匂いがふわりと周囲に広がった。
先輩は「あれ?」と小さく呟き、思わず前のめりになった。
「あの、部長。それって……」
「ああ、今私がハマっているドーナツ屋のドーナツだよ。君たちも食べるか? ほら、遠慮しなくていいぞ。そのつもりで多めに買ってきてもらったんだから」
「あ、では……」
「いただきます」
後輩二人はドーナツを受け取った。それから無言で先輩のほうを振り返った。
「ん? 君は? いらないのか?」
部長は先輩に顔を向け、訊ねた。
「あっ、おれは、いや、私はその……」
「先輩……いいんですか?」
「いいんですよね」
三人が見つめる中、先輩は唾を飲み込み、引きつった笑みを浮かべた。
「おれのことは……いいよ……気にしないで……」




