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美少女が家族になった話  作者:


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6/23

変化

病院を背に、俺たちは駅へと続く道を並んで歩き出した。

夕闇が街を塗りつぶし、街灯がポツリポツリとオレンジ色の光を灯し始める。行きとは違い、今の沈黙には突き刺すような張り詰めた空気はない。ただ、秋の夜気のようにどこか静かで、落ち着いた時間が流れていた。


俺は荷物を持ち直す。七海の歩幅が、ふと俺に合わさった。

肩が触れそうなほどの距離。

その温もりを感じながら、俺は不意に彼女の横顔を盗み見た。


七海は真っ直ぐ前を見つめている。

ふっと、彼女が足を止めた。街灯の下、彼女の影が長く伸びる。


「……ねえ、悠くん」


心臓が、一瞬だけ大きく跳ねた。

立ち止まった俺の視界に、彼女がゆっくりと振り向くのが映る。今まで何度も呼ばれた「加藤さん」ではない。その響きは、俺たちの間にあった分厚い壁を、魔法のようにすり抜けてきた。


「……どうかした?」


俺の声も、自分でも驚くほど穏やかだった。


「今日は、ありがとう」


七海はそう言うと、小さく、けれど確かに口角を上げた。それは、これまで俺が見てきた、父親を安心させるための「完璧な笑顔」じゃない。少しだけ照れくさそうで、でも、どこか心から安心しきったような、年相応の少女の表情だった。


「……そんなの、いいよ。特別なことなんてしてないし」


彼女は小さく首を振った。街灯の光が、彼女の潤んだ瞳を照らす。


「……もう、加藤さんって呼ぶのやめるね。……悠くん」


もう一度、名前を呼ばれた。

胸の奥が、熱くなる。彼女は心を許そうとしてくれているのか。その呼びかけが、まるで彼女が俺に対して張っていた分厚い防壁を一つ、自らの手で取り払ったような衝撃があった。


「ああ、分かった。……七海」


俺がそう返すと、彼女は嬉しそうに、でも照れ隠しをするみたいに視線を足元へ落とした。

言葉がなくても、この夜風が俺たちを優しく包んでいるのが分かる。ただ隣を歩いているだけなのに、行きとは世界の解像度が違って見える。

俺が歩き出すと、七海はすぐ隣に並んだ。家までの残りわずかな道のり。玄関までの景色が、いつもよりずっと短く、そして鮮やかに感じられた。

家に着くと、リビングからは母の料理の匂いが漂ってくる。

七海がふっと息を吸い込み、表情を和らげた。


「……いい匂い」


彼女は小さく呟き、俺と視線を交わす。その瞳には、もう迷いも恐怖もない。ただ、ここにある日常を、少しだけ愛おしむような温かさだけが宿っていた。

夕食の食卓は、昨日とは違ってどこか穏やかな時間が流れていた。


「お帰り。今日はお疲れ様」


という母の言葉に、七海は


「ただいま帰りました」


と、以前よりもずっと自然な調子で答えた。

箸を動かしながら、七海は時折、父や母の話に相槌を打つ。その仕草一つひとつに、昨日までのような「良い子」を演じるための過剰な緊張感はなかった。

悠はそんな彼女の様子を、あえて口出しせず、ただ静かに見守っていた。

(……少しずつ、自分のペースを取り戻してる)

そう思うと、胸の奥がふわりと温かくなる。

食後、俺は自分の部屋へ戻ろうとした。

そんな時、七海がキッチンからリビングへ戻る途中で、ふと足を止めた。

彼女は俺の方を向き、少しだけためらうように、でもまっすぐな眼差しを向けてきた。


「……悠くん」


「ん?」


「……あの、今夜、少しだけ……お話ししてもいいかな?」


彼女の手が、服の端をぎゅっと握りしめている。


「……わかった」


「うん。……今日の病院のこととか、これからのこと……。悠くんに、聞いてほしいの」





廊下を歩く七海の足音が、静寂の中に小さく響く。俺の部屋の扉がノックされ、控えめな声で「……入ってもいい?」と尋ねてきた。俺が「ああ、入って」と答えると、七海は少し緊張した面持ちで部屋に入り、ベッドの端に腰を下ろした。


「……今日ね、お父さんと話したの」


七海が静かに口を開いた。彼女は、ずっと誰にも見せなかった心の奥底の重石を一つずつ取り出し始めた。


「……ずっと、私が『良い子』でいることを、お父さんはずっと心配してくれてたみたい。今まで私は、お父さんが安心できる娘でいなきゃって、ずっと鎧を着てた」


そこまで言って、七海は喉の奥を詰まらせた。言葉が、堤防が決壊するように溢れ出す。


「お母さんがいなくなってから、私は理想の娘になることが、家族を安心させる方法だと思ってた。いい子でいなきゃ、期待に応えなきゃ、誰にも迷惑をかけないようにしなきゃ……。そうやって毎日をこなすうちに、本当の自分がどこにいるのか分からなくなっちゃったの」


七海は両手で顔を覆った。指の間から、止めどない涙が溢れ落ちる。それは、数年分もの我慢が形を変えて噴き出したような、激しい慟哭だった。


「……悠くん、私ね、もう限界だったんだよ。今日、お父さんに会いに行ったときも、ずっと……。また『頑張る娘』を演じなきゃいけないって思ったら、息ができなくて……」


彼女はたまらなくなったように俺の胸に縋り付いてきた。肩を震わせ、俺のシャツを掴む彼女の手には、必死な力が込められている。俺は彼女の背中に手を回し、そのまま強く抱き寄せた。


「悠くん……、私……っ、……私は、どうすればいいの……?」


彼女が泣きつくように縋ってくる。その震えは止まらない。俺は何も言わず、ただ彼女の背中を、乱暴なほどに力強く、そして優しくさすり続けた。


「……もう、頑張らなくていい。いい子でいようとしなくていい。……お父さんのために笑わなくてもいい。……今は、ただ、七海として好きなだけ泣いていいよ」


俺がそう告げると、七海はさらに俺の胸に顔を押し付け、声を上げて泣きじゃくった。喉を鳴らすような、獣が傷を癒やすような痛々しい鳴き声が部屋に響く。俺は彼女の髪をそっと撫でた。

泣き声が小さくなり、やがて呼吸が落ち着いてくると、七海は赤い瞳で俺を見つめ、濡れたまつ毛を震わせながら問いかけてきた。


「……なんで、悠くんは……そこまでしてくれるの?」


その瞳には、純粋な疑問と、それ以上に深い戸惑いが宿っていた。


「……それは、俺が、七海を幸せにすると決めたからだ」


俺は彼女の目を見つめ返し、一つずつ、言葉を選びながら紡いでいった。


「佐伯さんと話をして……ずっと考えていたんだ。オレは正直に不安を佐伯さんに話した。いきなり年頃の男女が一つ屋根の下で暮らすなんて、七海だって不安だろうし、オレ自身、自分が何をしてあげられるのか、何が正解かなんて今も分からないことだらけだ……って」


七海は、俺の言葉を一つひとつ拾い上げるようにじっと聞いている。



「でも、その不安を伝えたとき、佐伯さんは俺の目を見て『信用してる』と言ってくれた。だからその信頼を裏切りたくない」


俺が真っ直ぐにそう伝えると、七海の表情がふっと柔らかくほどけた。


「もし何か気になることとか、嫌なこととか、気付かないうちにしてしまったらすぐに言ってくれ。もし話しにくい内容とかなら母さんとかにでも大丈夫だから」


彼女は俺の言葉を噛みしめるように、ゆっくりと瞬きをする。先ほどまでの、自分を保つための張り詰めた強張りが嘘のように消え、その瞳には、俺という存在を穏やかに映し出す光が戻っていた。


「……うん。……分かった」


七海は再び俺の胸に顔を埋めた。今度は縋るような力任せの抱擁ではなく、どこか心からの安らぎを感じさせる、そっと寄り添うような抱擁だった。




しばらくして俺の胸から離れた七海は、少し名残惜しそうにしながらも、ゆっくりと立ち上がった。

俺も彼女に合わせて立ち上がり、部屋の扉まで見送る。


「……今日は、本当にありがとう」


七海は少し潤んだ瞳で俺を見つめ、静かにそう言った。

その表情には、先ほどまでの痛々しいほどの張り詰めや、自暴自棄な光はもうない。代わりに、どこか柔らかい光が宿っている。彼女は小さく一礼すると、少しだけはにかんでから部屋を出て行った。


廊下を歩いていく彼女の足音は、行きよりもずっと軽く、迷いがないように聞こえた。


俺は閉まった扉を見つめたまま、しばらくその場から動けなかった。

胸の奥には、彼女が泣きつく力強さと、あの時の温もりがまだ残っている。


「……これから、だな」


俺は独り言のように呟いて、大きく息を吐き出した。

完璧じゃなくてもいい、少しずつ積み重ねていこう――そう決めたはずの俺の心の中で、これからの生活に対する静かな決意と、期待が膨らんでいくのを感じていた。


今夜は、きっとよく眠れそうだ。





自分の部屋に入り、そっと扉を閉める。

静かな空間に、自分の心臓の音だけが、まるで太鼓のように大きく響いている。


「……っ……」


私は自分の胸元に両手を当てた。

さっきまで悠くんの腕の中にいたはずなのに、今もまだ、彼の体温が私のシャツ越しに肌に焼き付いているみたいだ。


(……変なの)


さっきまでのあんなに激しい涙と、どうしようもない不安が嘘みたいに消えている。

それどころか、胸の奥から熱いものがじわりと広がって、手足の先まで微かに震えているのを感じる。


悠くんは、完璧じゃないって言った。

不安だと言った。

それなのに、どうしてあんなに……優しく私を包み込んでくれるんだろう。


「……私のために、お父さんと話してくれて」


独り言のように名前を呟くと、その響きだけでまた心臓が大きく跳ねた。

彼が私をまっすぐに見つめた時の、あの少し困ったような、でも真っ直ぐな瞳。私のすべてを受け入れてくれた、あの腕の感触。


今まで「良い子」でいることに必死で、自分の心なんて押し殺して生きてきた。

でも、悠くんの前では、鎧を着る必要なんてなかったんだ。ただの七海で、ただの女の子でいいんだって、そう思えた。


(……これって)


不意に、今日駅までの道で彼に名前を呼んでもらった時の、あの胸の熱さを思い出した。

あれも、これも。

私がこれまで一度も感じたことのない、甘くて、少しだけ苦しい感覚。


……私、悠くんのことが好きなんだ。


その事実に気づいた瞬間、鼓動がさらに激しくなった。

ドキドキと、痛いくらいに速くなる鼓動。それは恐怖でも悲しみでもない。もっとずっと眩しくて、温かくて、私を芯から溶かしてしまうような感情。


ベッドに倒れ込むようにして、私は枕を抱きしめた。

顔が熱い。熱くて、涙とは別の理由で、また少しだけ瞳が潤んでしまう。


「悠くん……」


もう一度呟くと、今度は自分の声が少しだけ上ずった。

もう、戻れないんだと思う。

あんなに優しくされて、あんなに温かい場所を見つけてしまったら。

彼を好きになったこの気持ちを、もう隠すことなんてできない。


明日、またリビングで彼に会うとき。

私はどんな顔をすればいいんだろう。

昨日までの「良い子」の私じゃなくて、彼に恋をしてしまった、一人の女の子の私として。


(……早く、明日にならないかな)


心臓の音を聞きながら、私は初めて、未来を考えることがこんなにも待ち遠しいものなんだと知った。

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