会社 飲み会 前編 ~告白
夜風が少し冷たい。
4人は店を出て、金沢駅を横目に歩き出す。
ライトアップされた鼓門が闇に浮かび、その向こうでガラス張りのもてなしドームが白く光っている。
スーツケースを引く観光客の足音、英語混じりの笑い声、タクシー乗り場のエンジン音。
旅の匂いがまだ残る駅前は、夜でもまだ昼間のように賑やかだった。
ガラス越しの灯りが路面に滲み、湿気を多分に含んだ冷たい空気が頬を撫でる。
酒の熱が少しだけ心地いい。
「次どうします?」
誠がポケットに手を突っ込んだまま言う。
「もう一軒いけるでしょ」
大樹はあくまで軽い。夕食と一緒に飲んだ1・2杯くらいじゃ酔わない。
紫音はその後ろを大股で歩く。並ぶと、大樹とは自然頭一つ分ほど、位置がずれる。
「大樹さん、小さいのに体力ありますよね」
「小さい言うな」
振り返りざまに、紫音の肩を小突く。
が、拳は空を切る。
紫音は涼しい顔で、わざとらしく少し屈んで目線を合わせる。
「高ぇな、お前ほんと」
見上げる形になるのが、なんとなく癪だ。
「伸び代まだありますよ?」
余裕の声音。
からかわれているのはわかっているのに、笑いながら言われると腹も立たない。
「もう成長期終わってるわ」
吐き捨てるように言いながら、つい踵に力が入る。
「いやいや、ばーちゃん曰く、男は25の誕生日の朝までは伸びるらしいですよ」
「どこの民間伝承だよ、それ」
肩越しに見える鼓門が、やけに大きい。
おまえと比べるな、と心の中で小さく毒づく。
そこで誠が、二人の間にひょいと割って入る。
「ちょっと待って。続きあるならちゃんと正面でやって? 見づらい」
「何がだよ」
「身長バトル。今いいとこだったでしょ」
「バトルしてねぇわ」
誠は楽しそうに二人を見比べる。
「ほら、大樹さん、もう一回ジャンプしてみ?」
「しねぇよ」
「紫音は余裕の顔キープな。煽り足りてない」
「実況すんな」
誠は吹き出しながら肩をすくめる。
「いやだってさ、駅前でこんな平和な揉め方してる三十路男、なかなかレアだよ?」
「誰が三十路だ」
「事実は受け止めよ?」
紫音が笑いをこらえきれず、大樹は舌打ちしながらも腕を回す。
背伸びするみたいに紫音の首に腕を回す。ほとんどぶら下がる形だ。
「重いっす」
「鍛えろよ」
他愛ないやりとり。男同士の距離は近いが、いやらしさはない。
葵はその横を歩きながら、くすっと笑った。その横顔は、どこか楽しそうで、少しだけ羨ましそうにも見える。
「ほんと仲いいですよね」
誰に向けるでもなく、けれど確かに大樹たちへ向けた声。
「いや、俺、誰とでも仲いいから」
さらっと大樹は返す。深い意味はない。ただの事実のつもりだ。
ちょうどその時、歩道のわずかな段差に葵のつま先が引っかかる。
身体が傾く気配。
ぶら下がっていた腕を外し、反射で、大樹の手は伸びる。そのまま葵の肘をつかんだ。
「危な」
引き寄せる勢いで、距離が一気に縮まる。
ネオンの光が、葵の瞳に揺れる。
「大丈夫?」
距離が近い。
葵は一瞬、目を見上げる。驚きよりも、別の色が混じった目。
「・・・平気です」
そのまま自然に手を引いて歩き出す大樹。
ほんの数秒。
でも、指は絡まない。ただの支え。
紫音がそれを見ている。
誠がニヤつく。
「無意識ってこわいな」
「今のはポイント高いっすね」
「何が?」
大樹は誠の肩を小突く。
「いや別に」
「・・・無意識イケメン」
大樹は本気でわかっていないふりをした。
4人、駅前の交差点で立ち止まる。
「で、バー? ダーツ?」
信号待ちの列の中で、大樹が言う。
「静かなとこがいいです」
紫音が答える。
「珍しいな」
「今日は話したい気分なんで」
その言い方に、少しだけ意図を感じる。
嫌な予感、というほどじゃない。でも、逃げ道は塞がれている気がした。
「何の話?」
紫音は一瞬迷ってから、笑う。
「大樹さんって、彼女いないんですか?」
空気が止まる。
誠が「お、来た」と小さく笑う。
その横で、葵がわずかに視線を落としたのが見える。
わかりやすい。
わかってしまう。
・・・悪いな。心の中でだけ、そう思う。
大樹は信号の赤を見たまま答える。
「いないよ」
即答。
嘘ではない。
「でも、いるって思われてるでしょ」
紫音が続ける。
「だって女友達と二人で飯とか普通に行くじゃないですか」
「行くね」
「手ぇつないだりもするし」
誠が吹き出す。
大樹は肩をすくめる。
「別に付き合ってないし」
本当だ。
誰とも。
けれど、頭の奥に浮かぶ顔は一人だけだ。
彩さん。
あの人の前では、こんな軽口は叩けない。ふれる事すら、慎重になる。
「じゃあ、その人が本気になったら?」
紫音の声が少し低くなる。
本気。
葵の事を言っているのだろう。多分わざとだ。さっき掴んだ肘の細さを思い出す。振りほどかなかった事も。気づいていないふりをしているのは、自分だ。
大樹は視線を信号に固定したまま、短く息を吐く。
「そのとき考える」
卑怯だな、と思う。
考えるまでもなく、
本当はもう決まっているくせに。
ただ、まだ言っていないだけだ。
言えば、何かが変わる。
今のこの距離がちょうどいい。ただ見ている事さえも出来なくなるなんて御免だ。。
風が抜ける。横断歩道の白線の手前で、無意識に自分の指先を握る。
隣に立つ葵の横顔が、視界の隅に入る。
可愛い子だと思う。少し前の自分なら、好きって言われたら付き合っていたかもしれない。自分より少し小さくて、年下で、ふわふわした感じの子。
・・・でも、ごめん。
心の中でだけ、そう呟いた。
信号待ちの雑踏が、ざわざわと夜を押し広げている。
「・・・あれ」
誠がふと顎をしゃくった。
視線の先、交差点の向こう側。
ビルのエントランスから、ひとりの女性が出てくる。
黒のロングカーディガン。薄手の生地が、初夏の夜風に揺れる。中は、落ち着いたネイビーのワンピース。足元は華奢なストラップサンダル。
ヒールの音は、車の走行音にかき消されて届かない。
それでも、わかった。
姿勢だ。
背筋の伸び方。
歩幅。
視線の高さ。
彩さん。
喉の奥が、わずかに熱を帯びる。車道を一本挟んでいるだけなのに、やけに遠い。
視線が吸い寄せられる。
やめろ、と頭では思う。だが目が外れない。
車道の向こう。それだけで、ふれられない。
その距離が、無性に腹立たしい。
誰の視界にも入る位置に立つな。そう思った瞬間、自分でも呆れる。
喉が乾く。
もし今、誰かが隣に並んだら。
もし今、あの横顔に笑いかけたら。
想像しただけで、胸の奥がざらつく。
「彩さんじゃない?」
大樹の視線は、離せない。
「こんな時間まで打ち合わせ、大変そ~」
誠が他人事みたいに言う。
葵が目を細めた。
「確か、次の商品の件で三社で詰めるって言ってましたよね? クライアントかな?」
「だな。あの感じ、まだまだ仕事モードだわ」
大樹は小さく笑う。
仕事モード。ああいう顔をしているときの彩は、少し近寄りがたい。隙がない。甘さもない。
スーツ姿の男が一人、後ろから出てくる。
何かを説明しているのか、彩は軽く会釈しながら歩いている。
「次の店どこにする~。やっぱバーかな」
誠が場を戻そうとする。
「俺が二十歳前だって知ってて言ってますよね、それ」
紫音が即座に突っ込む。
「ノンアルあるって」
「雰囲気の問題です」
4人の笑い声が、夜気に溶ける。
けれど。
大樹は、笑いを合わせただけ。
視線は、動かない。
信号の向こう。
あの凛とした横顔。展示会の時、素早い状況把握。あのあと、会社に戻って交わした短い言葉。
やけに遠い。
紫音が横から覗き込む。
「大樹さん?」
彩が立ち止まり、何かを確認している。
隣の男は、覗き込むように僅かに身体を傾けている。
距離を詰めすぎない絶妙な位置。視線はどこか彩の横顔を追っているようにも見えた。
三十代半ばほど。落ち着いたスーツ。時計も靴も、質がいい。
彩が鞄の中を探っているのを、急かさずに待つ。
タイミングを計っているみたいに。
そして、ほんの少しだけ声を落とす。
「このあと、少し飲みに行きませんか」
柔らかい。
だが、仕事の延長ではない響き。
聞き取れないはずの距離。
交差点の向こうなのに、なぜかはっきり聞こえた。
男の目は、商談の続きを求めている目じゃない。選ばれることを前提にした、余裕のある誘い方。
大樹の喉の奥が、更に乾く。
ああいう誘い方ができる年齢だ。
ああいう距離で立てる立場だ。
「彩さん。すげー困った顔してません?」
低く呟いたのは紫音だった。
いつもの軽さが、少しだけ消えている。
誠が目を細める。
「だなぁ・・・」
のんびりした相槌。
けれど視線は、きちんと向こう側を捉えている。
車道の信号が黄色から赤に変わる。
減速していた車列が、静かに止まった。
彩は一瞬、視線を逸らす。
男の誘いを、すぐには受けない間。
その表情を見た瞬間。
大樹の足が、信号より先に動いた。
歩行者信号が青に替わる。
「え、ちょ」
誠の声を背中で聞く。
一瞬遅れて、人の波が交差点に流れ込む。大樹は、その切れ目を縫うように走った。
ジャケットの裾が夜風をはらむ。
信号の青が足元に流れ、ネオンが視界の端で滲む。
理由は、言葉にならない。
ただ・・・
あの距離のまま立っている自分を、許せなかった。
彩は、まだ気づいていない。
男が、穏やかな声で続ける。
「反省会がてら。もう少し詰めたい所もありますし。軽く一杯、いかがですか?」
押さない。
急がない。
けれど、男は半歩ぶんだけ距離を詰める。
彩は、わずかに身体を引いた。
「今日は・・・」
言葉が続かない。
腕時計に視線を落とす。
秒針が、静かに進む。
迷いが、ほんの刹那、横顔に差す。
その瞬間。
「彩さん」
低く、まっすぐな声。
二人の視線が、同時に上がる。
大樹が立っていた。
少し息を弾ませながら、けれど笑顔はいつもの調子。
本当は、走ったせいだけじゃない。
胸の奥が、まだ速い。
「間に合いましたよ」
男の眉がわずかに動く。
「・・・?」
大樹は気にしない。
気にしないふりをする。いつも通りだ。いつも通りにすれば問題なんて起きない。
ここで引いたら、たぶん一生後悔する。
そんな気がした。
「今日、会社の懇親会で。打ち合わせがあるから間に合わないかもって心配してたんですよ」
そんな話は、していない。
彩の目がわずかに細くなる。驚きと、理解と、ほんの少しの探る色。
大樹は畳みかける。
「仕事、終わりましたよね?」
にこやかに。
逃げ道を塞ぐみたいに。
本当は、自分に言っている。
・・・終わりましたよね、もう。その男との仕事は終わったでしょ。一緒にいる必要なんて1ミリもありませんよね。そんなに近づく必要もありませんよね。
「今から参加しましょ、彩さん」
男の表情が露骨に曇る。
「いや、私達は今から・・・」
「すみません、社内の集まりでして」
大樹は彩に近づく。軽く頭を下げて見せる。顔を上げ、男から視線を外さず、更に半歩。
言葉は柔らかいが、立ち位置は完全に彩の隣だ。
男は一瞬、彩を見る。
判断を委ねる視線。
夜風が抜ける。
彩は静かに息を吸う。肩の力が、わずかに抜ける。
そして。
「・・・そうですね。今日は、やめておきます」
声は落ち着いている。
だが、目の奥の緊張がほどけている。
男に向けて、きっぱりと言う。
「今日は失礼します」
男の口元が引きつる。
「・・・そうですか。では、また改めて」
男は手にしていたスマートフォンをポケットへ滑り込ませると、小さく会釈を残し、踵を返す。革靴の音が、夜の舗道に乾いて響く。
背中は穏やかに見えるが、歩幅がわずかに早い。
その背中を少し見送ってから。
彩はゆっくりと大樹を見る。さっきまでの鋭さはない。
代わりに、わずかな体温が戻っている。
「懇親会、ですか?」
低い声。
大樹は笑う。
「今からやります」
少しだけ、賭けに勝った気分で。
交差点の向こうでは、誠たちがぽかんと立っている。
男の背中が人波に消える。
夜のざわめきが、少し戻る。
彩は大樹をまっすぐ見た。
「・・・ありがとうございました」
静かな声だった。
「でも、皆さん待っていますよ。私の事はいいので。もう大丈夫です」
その言い方に、きっぱりとした線を感じる。
「今からバスで帰ります」
迷いのない口調。
大樹は、一瞬だけ立ち尽くす。
助けた、と思った。
隣に立てた、と。
けれどそれは、自分がそう思っただけかもしれない。
「バス?」
情けない声が出る。
帰る。
ひとりで。
それが、彼女のいつもの帰り方なのだろう。
胸の奥がざわつく。
このまま「じゃあ」と言えば、今夜は静かに終わる。きれいに片づいてしまう。
「ええ、それじゃあ・・・」
彩は鞄を持ち直す。
その動きが、終わりを告げている。間に合わなくなる。
「あの、なら」
声がわずかに早まる。
「バス停まで送ります。決まり、ね」
言ってから、強引だと気づく。けれど、もう引けない。彩の眉がわずかに動く。
「いえ、そこまでは・・・。バス停も見えていますし」
もっともだ。
何も間違っていない。
それでも。
「いや、あ、ちょっと待っててくださいね」
返事を待たず、踵を返す。
ダメだと言われたら、従ってしまう気がした。無条件に。
交差点を小走りに戻る。
胸がうるさい。
走っているせいだけじゃない。どうしたいのか、自分でもまだ言葉にならない。
ただ。
このまま離れたくなかった。
「おい、どうなった?」
誠が半笑いで聞く。
だいたい察している顔だ。
「ごめん、先に店入ってて」
息を整える暇もなく言う。
「は?」
「俺、ちょっと送ってくる」
一瞬、空気が止まる。
紫音が目を丸くする。
「え、マジですか?」
からかい半分、様子見半分。
「すぐ戻るから。適当に店入って、何か頼んでて」
言いながら、自分でわかっている。
『すぐ』が何分なのか、決めていない。
葵がじっと大樹を見る。茶化さない目だ。何かを言いかけて、やめる。
「・・・了解」
短い一言。
誠が肩をすくめる。
「貸し一つな」
紫音は小さく笑う。
「青春だわ」
ネオンが瞬き、信号が点滅する。
大樹はそれを横目で確かめ、踵を返す。
足が勝手に速くなる。
逃したくない。
さっき、彼女が線を引いた時、胸の奥がすっと冷えた。
あれで終わりにしたくない。ただ送るだけでいい。ほんの数分でいい。
でも、その数分が欲しい。
呼吸が浅くなる。
笑っている場合じゃないのに、口元がわずかに上がる。
自分でも呆れる。
もう、戻る気がない。
夜の交差点を抜ける。
少し息が上がっている。
人並みの向こうに、彩の姿を探す。さっき立っていた場所にはいない。
一瞬胸が冷える。視線を巡らせると、ビルを背に数歩だけ移動した背中が見えた。
「お待たせしました」
彩は、ほんの一瞬だけ呆れたように目を細める。けれど、その目の奥の色は読み取れない。
「皆さんは?」
「先に店に入ってもらう事にしました」
さらりと言う。
「そこまでしてもらわなくても・・・」
「そこまでしたいんです」
ほとんど反射だった。
言ってから、少しだけ照れる。
「怒られますよ」
「慣れてます」
彩の口元がふと、笑った気がした。
夜風がロングカーディガンを揺らす。彩の一筋ほどけた髪が、頬にかかる。
大樹は一度視線を外し、呼吸を整えてから言う。
「じゃあ、行きましょうか」
押しつけない声。警戒されないように、最大限。
彩は数秒、彼を見つめる。測るように。
それから、小さく頷いた。
「・・・ありがとうございます」
二人並んで歩き出す。
肩はふれない。
交差点ひとつ分の距離よりは、ずっと近い。
足音が、自然に揃う。どちらかが合わせているのか、わからない。
「展示会、お疲れさまでした」
大樹が先に口を開く。黙っていると、自分の鼓動が聞こえそうだった。
「ありがとうございます。営業の方こそ」
落ち着いた声。仕事の顔。
「防災ノベルティ、反応良さそうですね」
「ええ。具体的な問い合わせも増えてきました。BCP絡みで、検討段階に入る企業も」
仕事の話。安全な話題。
「今日の打ち合わせも、その件ですか?」
「はい。仕様の細かい詰めです。保存年数の表記方法とか、ロット管理の条件とか」
淡々としている。さっきの男と交わしていたのも、きっとこういう会話だったのだろう。
胸の奥に、微かな棘。
「遅くまで大変ですね」
「慣れています」
即答。
本当に、慣れている声。その慣れの中に、自分はまだいない。
もてなしドームの灯りが、ゆるやかに視界へ広がる。
ガラス越しの光が夜気ににじみ、頭上を覆う曲線が、二人を包むように伸びている。ドームを支える太い柱が、規則正しく並ぶ。
バス停が見えてくる。
彩の足取りが、わずかに緩む。
ちょうどその時、バスターミナルをぐるりと回るヘッドライト。
思ったよりも、早い。
「タイミングいいですね」
「本当ですね」
言いながら、同時に少しだけ沈黙する。
もう少し、話せると思っていたのに。
バスが滑り込む。エンジンの低い振動。
思っていたより、早い。少しだけ、惜しい。
扉が開く。
彩が振り返る。
「今日は、本当にありがとうございました。少し、助かりました」
きちんとしたお辞儀。
形式的な言葉。
でも、その目はさっきより柔らかい気がする。そう思いたいだけかもしれない。胸の奥が、じわりと温かい。
「いえ。また会社で」
それしか言えない。またなんて言葉に、願いを込めるしかない。
彩はステップを上がり、車内へ。
ICカードの音。
窓際の席に座る。一度だけ、深く息を吐く。肩がほんの少し下がる。
外を見る。目が合う。
そして。
控えめに、手を振られる。
ほんの小さく。周囲に気づかれないくらいの大きさで。
大樹は一瞬遅れて、手を上げる。
子供みたいだ、と思う。
それでも、やめられない。もう取り繕う気もない。
ドアが閉まる。
バスが動き出す。
窓越しの姿が遠ざかり、光の帯に紛れ、やがて見えなくなる。
それだけで。
それだけなのに。
胸の奥が、妙に明るい。
酔いとは違う熱。
さっきまでのざわつきが、嘘みたいに消えている。あの男の隣にいた姿を思い出しても、今は痛くない。隣を歩いた時間が、上書きしている。
「・・・なんだよ」
小さく笑う。
ただ手を振り返してもらっただけだ。
それだけで、こんなに嬉しい。認めたくなかった感情が、輪郭を持つ。




