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告白

会社 飲み会 前編 ~告白

作者: 時司 龍
掲載日:2026/03/01

 夜風が少し冷たい。


 4人は店を出て、金沢駅を横目に歩き出す。


 ライトアップされた鼓門が闇に浮かび、その向こうでガラス張りのもてなしドームが白く光っている。

 スーツケースを引く観光客の足音、英語混じりの笑い声、タクシー乗り場のエンジン音。

 旅の匂いがまだ残る駅前は、夜でもまだ昼間のように賑やかだった。

 ガラス越しの灯りが路面に滲み、湿気を多分に含んだ冷たい空気が頬を撫でる。

 酒の熱が少しだけ心地いい。


「次どうします?」


 誠がポケットに手を突っ込んだまま言う。


「もう一軒いけるでしょ」


 大樹はあくまで軽い。夕食と一緒に飲んだ1・2杯くらいじゃ酔わない。

 紫音はその後ろを大股で歩く。並ぶと、大樹とは自然頭一つ分ほど、位置がずれる。


「大樹さん、小さいのに体力ありますよね」

「小さい言うな」


 振り返りざまに、紫音の肩を小突く。

 が、拳は空を切る。

 紫音は涼しい顔で、わざとらしく少し屈んで目線を合わせる。


「高ぇな、お前ほんと」


 見上げる形になるのが、なんとなく癪だ。


「伸び代まだありますよ?」


 余裕の声音。

 からかわれているのはわかっているのに、笑いながら言われると腹も立たない。


「もう成長期終わってるわ」


 吐き捨てるように言いながら、つい踵に力が入る。


「いやいや、ばーちゃん曰く、男は25の誕生日の朝までは伸びるらしいですよ」

「どこの民間伝承だよ、それ」


 肩越しに見える鼓門が、やけに大きい。

 おまえと比べるな、と心の中で小さく毒づく。

 そこで誠が、二人の間にひょいと割って入る。


「ちょっと待って。続きあるならちゃんと正面でやって? 見づらい」

「何がだよ」

「身長バトル。今いいとこだったでしょ」

「バトルしてねぇわ」


 誠は楽しそうに二人を見比べる。


「ほら、大樹さん、もう一回ジャンプしてみ?」

「しねぇよ」

「紫音は余裕の顔キープな。煽り足りてない」

「実況すんな」


 誠は吹き出しながら肩をすくめる。


「いやだってさ、駅前でこんな平和な揉め方してる三十路男、なかなかレアだよ?」

「誰が三十路だ」

「事実は受け止めよ?」


 紫音が笑いをこらえきれず、大樹は舌打ちしながらも腕を回す。

 背伸びするみたいに紫音の首に腕を回す。ほとんどぶら下がる形だ。


「重いっす」

「鍛えろよ」


 他愛ないやりとり。男同士の距離は近いが、いやらしさはない。

 葵はその横を歩きながら、くすっと笑った。その横顔は、どこか楽しそうで、少しだけ羨ましそうにも見える。


「ほんと仲いいですよね」


 誰に向けるでもなく、けれど確かに大樹たちへ向けた声。


「いや、俺、誰とでも仲いいから」


 さらっと大樹は返す。深い意味はない。ただの事実のつもりだ。


 ちょうどその時、歩道のわずかな段差に葵のつま先が引っかかる。

 身体が傾く気配。

 

 ぶら下がっていた腕を外し、反射で、大樹の手は伸びる。そのまま葵の肘をつかんだ。


「危な」


 引き寄せる勢いで、距離が一気に縮まる。

 ネオンの光が、葵の瞳に揺れる。


「大丈夫?」


 距離が近い。

 葵は一瞬、目を見上げる。驚きよりも、別の色が混じった目。


「・・・平気です」


 そのまま自然に手を引いて歩き出す大樹。

 ほんの数秒。

 でも、指は絡まない。ただの支え。

 紫音がそれを見ている。

 誠がニヤつく。


「無意識ってこわいな」

「今のはポイント高いっすね」

「何が?」


 大樹は誠の肩を小突く。


「いや別に」

「・・・無意識イケメン」


 大樹は本気でわかっていないふりをした。

 4人、駅前の交差点で立ち止まる。


「で、バー? ダーツ?」


 信号待ちの列の中で、大樹が言う。


「静かなとこがいいです」


 紫音が答える。


「珍しいな」

「今日は話したい気分なんで」


 その言い方に、少しだけ意図を感じる。

 嫌な予感、というほどじゃない。でも、逃げ道は塞がれている気がした。


「何の話?」


 紫音は一瞬迷ってから、笑う。


「大樹さんって、彼女いないんですか?」


 空気が止まる。

 誠が「お、来た」と小さく笑う。

 その横で、葵がわずかに視線を落としたのが見える。


 わかりやすい。

 わかってしまう。


 ・・・悪いな。心の中でだけ、そう思う。

 大樹は信号の赤を見たまま答える。


「いないよ」


 即答。

 嘘ではない。


「でも、いるって思われてるでしょ」


 紫音が続ける。


「だって女友達と二人で飯とか普通に行くじゃないですか」

「行くね」

「手ぇつないだりもするし」


 誠が吹き出す。

 大樹は肩をすくめる。


「別に付き合ってないし」


 本当だ。

 誰とも。

 けれど、頭の奥に浮かぶ顔は一人だけだ。


 彩さん。


 あの人の前では、こんな軽口は叩けない。ふれる事すら、慎重になる。


「じゃあ、その人が本気になったら?」


 紫音の声が少し低くなる。


 本気。


 葵の事を言っているのだろう。多分わざとだ。さっき掴んだ肘の細さを思い出す。振りほどかなかった事も。気づいていないふりをしているのは、自分だ。

 大樹は視線を信号に固定したまま、短く息を吐く。


「そのとき考える」


 卑怯だな、と思う。


 考えるまでもなく、

 本当はもう決まっているくせに。

 ただ、まだ言っていないだけだ。

 言えば、何かが変わる。

 今のこの距離がちょうどいい。ただ見ている事さえも出来なくなるなんて御免だ。。


 風が抜ける。横断歩道の白線の手前で、無意識に自分の指先を握る。

 隣に立つ葵の横顔が、視界の隅に入る。

 可愛い子だと思う。少し前の自分なら、好きって言われたら付き合っていたかもしれない。自分より少し小さくて、年下で、ふわふわした感じの子。


 ・・・でも、ごめん。


 心の中でだけ、そう呟いた。

 信号待ちの雑踏が、ざわざわと夜を押し広げている。


「・・・あれ」


 誠がふと顎をしゃくった。


 視線の先、交差点の向こう側。


 ビルのエントランスから、ひとりの女性が出てくる。

 黒のロングカーディガン。薄手の生地が、初夏の夜風に揺れる。中は、落ち着いたネイビーのワンピース。足元は華奢なストラップサンダル。

 ヒールの音は、車の走行音にかき消されて届かない。


 それでも、わかった。

 姿勢だ。


 背筋の伸び方。

 歩幅。

 視線の高さ。


 彩さん。


 喉の奥が、わずかに熱を帯びる。車道を一本挟んでいるだけなのに、やけに遠い。


 視線が吸い寄せられる。


 やめろ、と頭では思う。だが目が外れない。


 車道の向こう。それだけで、ふれられない。


 その距離が、無性に腹立たしい。

 誰の視界にも入る位置に立つな。そう思った瞬間、自分でも呆れる。


 喉が乾く。


 もし今、誰かが隣に並んだら。

 もし今、あの横顔に笑いかけたら。

 想像しただけで、胸の奥がざらつく。


「彩さんじゃない?」


 大樹の視線は、離せない。


「こんな時間まで打ち合わせ、大変そ~」


 誠が他人事みたいに言う。

 葵が目を細めた。


「確か、次の商品の件で三社で詰めるって言ってましたよね? クライアントかな?」

「だな。あの感じ、まだまだ仕事モードだわ」


 大樹は小さく笑う。

 仕事モード。ああいう顔をしているときの彩は、少し近寄りがたい。隙がない。甘さもない。

 スーツ姿の男が一人、後ろから出てくる。

 何かを説明しているのか、彩は軽く会釈しながら歩いている。


「次の店どこにする~。やっぱバーかな」


 誠が場を戻そうとする。


「俺が二十歳前だって知ってて言ってますよね、それ」


 紫音が即座に突っ込む。

「ノンアルあるって」

「雰囲気の問題です」


 4人の笑い声が、夜気に溶ける。


 けれど。


 大樹は、笑いを合わせただけ。


 視線は、動かない。


 信号の向こう。

 あの凛とした横顔。展示会の時、素早い状況把握。あのあと、会社に戻って交わした短い言葉。


 やけに遠い。

 

 紫音が横から覗き込む。


「大樹さん?」


 彩が立ち止まり、何かを確認している。

 隣の男は、覗き込むように僅かに身体を傾けている。

 距離を詰めすぎない絶妙な位置。視線はどこか彩の横顔を追っているようにも見えた。

 三十代半ばほど。落ち着いたスーツ。時計も靴も、質がいい。

 彩が鞄の中を探っているのを、急かさずに待つ。


 タイミングを計っているみたいに。


 そして、ほんの少しだけ声を落とす。


「このあと、少し飲みに行きませんか」


 柔らかい。

 だが、仕事の延長ではない響き。


 聞き取れないはずの距離。


 交差点の向こうなのに、なぜかはっきり聞こえた。


 男の目は、商談の続きを求めている目じゃない。選ばれることを前提にした、余裕のある誘い方。


 大樹の喉の奥が、更に乾く。


 ああいう誘い方ができる年齢だ。

 ああいう距離で立てる立場だ。


「彩さん。すげー困った顔してません?」


 低く呟いたのは紫音だった。

 いつもの軽さが、少しだけ消えている。

 誠が目を細める。


「だなぁ・・・」


 のんびりした相槌。

 けれど視線は、きちんと向こう側を捉えている。

 車道の信号が黄色から赤に変わる。

 減速していた車列が、静かに止まった。


 彩は一瞬、視線を逸らす。

 男の誘いを、すぐには受けない間。


 その表情を見た瞬間。


 大樹の足が、信号より先に動いた。


 歩行者信号が青に替わる。


「え、ちょ」


 誠の声を背中で聞く。

 一瞬遅れて、人の波が交差点に流れ込む。大樹は、その切れ目を縫うように走った。

 ジャケットの裾が夜風をはらむ。

 信号の青が足元に流れ、ネオンが視界の端で滲む。

 理由は、言葉にならない。


 ただ・・・


 あの距離のまま立っている自分を、許せなかった。


 彩は、まだ気づいていない。

 男が、穏やかな声で続ける。


「反省会がてら。もう少し詰めたい所もありますし。軽く一杯、いかがですか?」


 押さない。

 急がない。

 けれど、男は半歩ぶんだけ距離を詰める。

 彩は、わずかに身体を引いた。


「今日は・・・」


 言葉が続かない。

 腕時計に視線を落とす。

 秒針が、静かに進む。

 迷いが、ほんの刹那、横顔に差す。


 その瞬間。


「彩さん」


 低く、まっすぐな声。

 二人の視線が、同時に上がる。


 大樹が立っていた。


 少し息を弾ませながら、けれど笑顔はいつもの調子。

 本当は、走ったせいだけじゃない。

 胸の奥が、まだ速い。


「間に合いましたよ」


男の眉がわずかに動く。


「・・・?」


 大樹は気にしない。

 気にしないふりをする。いつも通りだ。いつも通りにすれば問題なんて起きない。

 ここで引いたら、たぶん一生後悔する。

 そんな気がした。


「今日、会社の懇親会で。打ち合わせがあるから間に合わないかもって心配してたんですよ」


 そんな話は、していない。

 彩の目がわずかに細くなる。驚きと、理解と、ほんの少しの探る色。

 大樹は畳みかける。


「仕事、終わりましたよね?」


 にこやかに。

 逃げ道を塞ぐみたいに。

 本当は、自分に言っている。


 ・・・終わりましたよね、もう。その男との仕事は終わったでしょ。一緒にいる必要なんて1ミリもありませんよね。そんなに近づく必要もありませんよね。


「今から参加しましょ、彩さん」


 男の表情が露骨に曇る。


「いや、私達は今から・・・」

「すみません、社内の集まりでして」


 大樹は彩に近づく。軽く頭を下げて見せる。顔を上げ、男から視線を外さず、更に半歩。

 言葉は柔らかいが、立ち位置は完全に彩の隣だ。


 男は一瞬、彩を見る。


 判断を委ねる視線。

 夜風が抜ける。

 彩は静かに息を吸う。肩の力が、わずかに抜ける。


 そして。


「・・・そうですね。今日は、やめておきます」


 声は落ち着いている。

 だが、目の奥の緊張がほどけている。

 男に向けて、きっぱりと言う。


「今日は失礼します」


 男の口元が引きつる。


「・・・そうですか。では、また改めて」


 男は手にしていたスマートフォンをポケットへ滑り込ませると、小さく会釈を残し、踵を返す。革靴の音が、夜の舗道に乾いて響く。

 背中は穏やかに見えるが、歩幅がわずかに早い。

 その背中を少し見送ってから。

 彩はゆっくりと大樹を見る。さっきまでの鋭さはない。

 代わりに、わずかな体温が戻っている。


「懇親会、ですか?」


 低い声。

 大樹は笑う。


「今からやります」


 少しだけ、賭けに勝った気分で。

 交差点の向こうでは、誠たちがぽかんと立っている。


 男の背中が人波に消える。

 夜のざわめきが、少し戻る。

 彩は大樹をまっすぐ見た。


「・・・ありがとうございました」


 静かな声だった。


「でも、皆さん待っていますよ。私の事はいいので。もう大丈夫です」


その言い方に、きっぱりとした線を感じる。


「今からバスで帰ります」


 迷いのない口調。


 大樹は、一瞬だけ立ち尽くす。


 助けた、と思った。

 隣に立てた、と。

 けれどそれは、自分がそう思っただけかもしれない。


「バス?」


 情けない声が出る。

 帰る。


 ひとりで。


 それが、彼女のいつもの帰り方なのだろう。

 胸の奥がざわつく。

 このまま「じゃあ」と言えば、今夜は静かに終わる。きれいに片づいてしまう。


「ええ、それじゃあ・・・」


 彩は鞄を持ち直す。

 その動きが、終わりを告げている。間に合わなくなる。


「あの、なら」


 声がわずかに早まる。


「バス停まで送ります。決まり、ね」


言ってから、強引だと気づく。けれど、もう引けない。彩の眉がわずかに動く。


「いえ、そこまでは・・・。バス停も見えていますし」


 もっともだ。

 何も間違っていない。

 それでも。


「いや、あ、ちょっと待っててくださいね」


 返事を待たず、踵を返す。

 ダメだと言われたら、従ってしまう気がした。無条件に。


 交差点を小走りに戻る。


 胸がうるさい。

 走っているせいだけじゃない。どうしたいのか、自分でもまだ言葉にならない。


 ただ。


 このまま離れたくなかった。


「おい、どうなった?」


 誠が半笑いで聞く。

 だいたい察している顔だ。


「ごめん、先に店入ってて」


 息を整える暇もなく言う。


「は?」

「俺、ちょっと送ってくる」


 一瞬、空気が止まる。

 紫音が目を丸くする。


「え、マジですか?」


 からかい半分、様子見半分。


「すぐ戻るから。適当に店入って、何か頼んでて」


 言いながら、自分でわかっている。

『すぐ』が何分なのか、決めていない。

葵がじっと大樹を見る。茶化さない目だ。何かを言いかけて、やめる。


「・・・了解」


 短い一言。

 誠が肩をすくめる。


「貸し一つな」


 紫音は小さく笑う。


「青春だわ」


 ネオンが瞬き、信号が点滅する。

 大樹はそれを横目で確かめ、踵を返す。

 足が勝手に速くなる。


 逃したくない。


 さっき、彼女が線を引いた時、胸の奥がすっと冷えた。

 あれで終わりにしたくない。ただ送るだけでいい。ほんの数分でいい。


 でも、その数分が欲しい。


 呼吸が浅くなる。

 笑っている場合じゃないのに、口元がわずかに上がる。

 自分でも呆れる。

 もう、戻る気がない。


 夜の交差点を抜ける。

 少し息が上がっている。

 人並みの向こうに、彩の姿を探す。さっき立っていた場所にはいない。

 一瞬胸が冷える。視線を巡らせると、ビルを背に数歩だけ移動した背中が見えた。


「お待たせしました」


 彩は、ほんの一瞬だけ呆れたように目を細める。けれど、その目の奥の色は読み取れない。


「皆さんは?」

「先に店に入ってもらう事にしました」


 さらりと言う。


「そこまでしてもらわなくても・・・」

「そこまでしたいんです」


 ほとんど反射だった。

 言ってから、少しだけ照れる。


「怒られますよ」

「慣れてます」


 彩の口元がふと、笑った気がした。

 夜風がロングカーディガンを揺らす。彩の一筋ほどけた髪が、頬にかかる。

 大樹は一度視線を外し、呼吸を整えてから言う。


「じゃあ、行きましょうか」


 押しつけない声。警戒されないように、最大限。

 彩は数秒、彼を見つめる。測るように。

 それから、小さく頷いた。


「・・・ありがとうございます」


 二人並んで歩き出す。


 肩はふれない。

 交差点ひとつ分の距離よりは、ずっと近い。

 足音が、自然に揃う。どちらかが合わせているのか、わからない。


「展示会、お疲れさまでした」


 大樹が先に口を開く。黙っていると、自分の鼓動が聞こえそうだった。


「ありがとうございます。営業の方こそ」


 落ち着いた声。仕事の顔。


「防災ノベルティ、反応良さそうですね」

「ええ。具体的な問い合わせも増えてきました。BCP絡みで、検討段階に入る企業も」


 仕事の話。安全な話題。


「今日の打ち合わせも、その件ですか?」

「はい。仕様の細かい詰めです。保存年数の表記方法とか、ロット管理の条件とか」


 淡々としている。さっきの男と交わしていたのも、きっとこういう会話だったのだろう。

 胸の奥に、微かな棘。


「遅くまで大変ですね」

「慣れています」


 即答。

 本当に、慣れている声。その慣れの中に、自分はまだいない。


 もてなしドームの灯りが、ゆるやかに視界へ広がる。

 ガラス越しの光が夜気ににじみ、頭上を覆う曲線が、二人を包むように伸びている。ドームを支える太い柱が、規則正しく並ぶ。

 バス停が見えてくる。


 彩の足取りが、わずかに緩む。


 ちょうどその時、バスターミナルをぐるりと回るヘッドライト。

 思ったよりも、早い。


「タイミングいいですね」

「本当ですね」


 言いながら、同時に少しだけ沈黙する。


 もう少し、話せると思っていたのに。


 バスが滑り込む。エンジンの低い振動。

 思っていたより、早い。少しだけ、惜しい。


 扉が開く。

 彩が振り返る。


「今日は、本当にありがとうございました。少し、助かりました」


 きちんとしたお辞儀。

 形式的な言葉。


 でも、その目はさっきより柔らかい気がする。そう思いたいだけかもしれない。胸の奥が、じわりと温かい。


「いえ。また会社で」


 それしか言えない。またなんて言葉に、願いを込めるしかない。


 彩はステップを上がり、車内へ。

 ICカードの音。

 窓際の席に座る。一度だけ、深く息を吐く。肩がほんの少し下がる。

 外を見る。目が合う。


 そして。


 控えめに、手を振られる。

 ほんの小さく。周囲に気づかれないくらいの大きさで。

 大樹は一瞬遅れて、手を上げる。


 子供みたいだ、と思う。


 それでも、やめられない。もう取り繕う気もない。

 ドアが閉まる。

 バスが動き出す。

 窓越しの姿が遠ざかり、光の帯に紛れ、やがて見えなくなる。


 それだけで。

 それだけなのに。

 胸の奥が、妙に明るい。

 酔いとは違う熱。

 さっきまでのざわつきが、嘘みたいに消えている。あの男の隣にいた姿を思い出しても、今は痛くない。隣を歩いた時間が、上書きしている。


「・・・なんだよ」


 小さく笑う。

 ただ手を振り返してもらっただけだ。

 それだけで、こんなに嬉しい。認めたくなかった感情が、輪郭を持つ。


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