第五話 差押え印 前編
境見文彩堂の朝は、紙の角を揃えるところから始まる。御朱印帳の見本、旅ノート、和紙小物。観光客の目に入る棚は、乱れているとすぐに伝わる。
けれど今朝は、揃えても揃えても落ち着かなかった。頭の片隅に、あの朱が残っている。
差押え印。
押されたわけじゃない。最初からそこにあったみたいに、札の縁に馴染む朱。見えない誰かが、こちらの手順を数えている。
「ひより、白霧か」
父の境 恒一が、帳簿の上から言った。いつもと同じ声なのに、釘が深い。
「うん。今日は昼も行く、社務所の備品も届けるし」
「役目を果たして戻れ」
「分かってる」
私は明るく返して、紙袋を提げた。中身は苦情帳の替え冊子。御朱印帳の追加。しおりが頼んだ鈴の紐。仕事の段取りで自分を落ち着かせる。
白霧神社の石段を上がると、社務所の引き戸が勢いよく開いた。
「ひよりさん!」
御影しおりが駆けてくる。今日も無邪気だ。声も大きい。けれど近づくほど、目の下がうっすら赤い。寝不足だ。
「おはよ。しおり、寝てないでしょ」
「寝ました! 寝ましたよ! ぜんぜん平気です!」
言い切るほど無理が出る。私は笑って紙袋を差し出した。
「苦情帳の替え。あと鈴の紐。切れてたって言ってたから」
「わあ、ありがとうございます! ひよりさん、ほんと神です!」
しおりは笑う。笑顔は明るいのに、指が苦情帳のほうへ向くときだけ、動きが遅い。
「……ひよりさん、苦情帳、見てください」
机に置かれた帳面は、昨日より厚く見えた。紙が増えたわけじゃない。開かれているページの端が、何度もめくられて毛羽立っている。
書き込みが増えている。
・息が白い
・鈴が遠い
・同じ石畳に戻る
・地名が読めない
・写真が白飛びする
・手が震える
・目がかすむ
内容が広がっている。しかも時間帯が揃ってきた。夕方、十七時台。
「ひよりさん、最近……多くないですか?」
しおりは笑いながら言った。笑っているのに、声が少し裏返る。
「多いね…。今夜、反復が一段進むかもしれない」
私の声が自然に落ちる。頭の中が静かになる。手順と距離と時間の計算に切り替わる。
「えっ」
「大丈夫。あなたは社務所から動かない。戸を閉めて、苦情帳は閉じない」
「はい! ひよりさん!」
しおりは元気よく頷く。けれど二の鳥居という言葉が頭をよぎった瞬間、笑顔が硬くなるのが分かる。本人は気づいていない。
昼の境内を見て回ると、参道の一角がまた音を鈍らせていた。昨日締めたはずの筋が、薄く戻りかけている。完全な再発じゃない。次の反復の準備だ。
私は場所を覚えておいた。夜に、二の鳥居の根元だけを締める。参道の筋には手を出さない。差押え印が出ると、手順が縛られる。余計な縫いは危険だ。
夕方、境見市の灯りが伸びるころ、社務所へ戻ると、しおりが机にかじりついていた。
「ひよりさん! 今、また増えました!」
苦情帳のページが、昨日までの倍の速さで埋まっていく。文字の端が、白く抜けて見える気がした。
「……ひよりさん、私、ぜんぜん気にしてないですけど」
しおりは笑った。笑おうとして、笑い切れない。目が一度だけ外を見た。二の鳥居の方角。
「うん。気にしてないなら、今日はもう戸を閉めて待ってて」
「はい! ひよりさん!」
夜が来る。足元の影が濃くなる。
「行くのか」
踵のあたりから声がした。カゲはまだ姿を持たない。
「行くよ。カゲ、今夜は返納優先。縫うのは最小」
「差押えが濃い」
「分かってる」
「地名」
私は喉に指を添えて、声に出す。
「境見市、白霧山。白霧神社、二の鳥居」
空気が一枚、薄くなる。二の鳥居の影が、昨日より濃い。
私はしめ縄の手前で足を止めた。息が白い。鈴の音が鳴ったのに遠い。戻される気配が、足首に絡みつく。
今夜は早い。




