第四話 濡れた地名 後編
二の鳥居の手前で、冷えが増した。息が白い。鈴の音が一度鳴ったのに遠い。社務所の方向なのに、山の向こうから聞こえるみたいに薄い。
私は足を止め、喉に指を添える。
「白霧神社。二の鳥居」
錨を打つ。空気が少し落ち着く。視界の端に白い抜けが現れた。昨日より輪郭がはっきりしている。欠けは意味を教えない。形だけを示す。だから形を見る。
けれど今夜は、もう一つ反応がある。
鞄の中の古いパンフレット。紙袋の底から、ひやりとした気配が滲んだ。まるで水の匂いみたいに。
「……名越ヶ淵」
私は小さく言った。声は弱い。完全には出していない。それでも喉がひりつく。空気が一枚、めくれた。
二の鳥居の影が、僅かに揺れた。白い抜けが一度縮み、すぐにまた広がる。結び目の反応じゃない。別の筋が触れている。
「同じ型だ」
カゲが言う。
「白霧と名越、欠けの縁が同じ」
私は口調を落とし、頭の中を静かにした。推理の時間だ。感情を動かすと、錨が浅くなる。
「名越ヶ淵の欠けが、ここに触れてる。白霧神社の異常は単体じゃない」
私は鞄を下ろし、結び札を取り出した。今夜は締めるより先に、型取りを優先する。輪郭が情報になる夜だ。
声で場所を確定する。ついでに、紙袋の中の文字に触れないよう、言い方を選ぶ。
「白霧神社。二の鳥居手前」
空気が落ち着く。白い抜けの輪郭が定まる。私は結び札に欠けの輪郭を写し始めた。線は細く、端がわずかに濡れたように滲む。紙の白が冷たい。
次に、紙袋の底から古いパンフレットを取り出す。名越ヶ淵と書かれた文字を、声に出さずに指先でなぞる。文字の端が白く欠けて見える。その欠けの縁を、もう一枚の札に写す。
輪郭の癖が同じだ。欠けの縁が、同じ方向へ引っ張られている。白が白霧山側へ寄っている。
「同系統」
私は小さく言った。
「名越ヶ淵の欠けが、白霧神社へ染み出してる。」
カゲは返事をしない。影だけが足元で揺れた。
私は最後に、二の鳥居の欠けの輪郭をもう一度なぞる。形が揺れている。反復が近い。
締めるべきか、引くべきか。
今夜は型取りが目的だ。締めに失敗すると、反復が進む。私は一段落として、最小の縫いで落ち着かせることにした。
糸を通す。結び目は一つ。監修印を打つ。清め水を一滴。
紙をめくるような音が遅れて響き、白い抜けが少し縮む。反復の気配が一度だけ引いた。完全には消えない。今夜はこれでいい。
――なのに。
札の縁に、薄い朱が噛んだ。
差押え印。
昨日よりさらに輪郭が濃い。押されたわけじゃない。最初からそこにあったみたいに、朱が紙に馴染んでいる。
喉が痛い。胸の底は乾き、体が冷える。
「来てる」
「見せるな」
カゲの声が低い。影が足元で揺れ、輪郭が一瞬だけ濃くなる。立体へ寄る前に、カゲは自分を押し戻す。夜でも一定距離しか離れられないのに、今夜は僅かに引ける気配がある。普段より行動範囲が広い。
私はそれに気づいて、息を止めた。
「……カゲ、今日は少し遠くまで動けた?」
「一時的だ」
「理由は?」
「紙」
短い答え。濡れた地名の紙片が、何かの鍵になっている。
社務所へ戻ると、しおりが引き戸の向こうで待っていた。笑顔で飛び出してくる。
「ひよりさん! おかえりなさい!」
無邪気な声。けれど二の鳥居の方向を見た瞬間、目が曇る。すぐに笑って誤魔化す。
「ひよりさん、どうでした? ぜんぜん大丈夫でした?」
「締めは最小。今日は型を取った」
「型……?」
「欠けの輪郭。名越ヶ淵と同じだった」
しおりの顔が一瞬固まる。すぐに明るく頷く。
「名越ヶ淵! えっと、私、ぜんぜん気にしてないですけど!」
また無理が出る。私は笑って、机の上に札を置いた。二枚の結び札。白霧神社の欠けと、名越ヶ淵の欠け。輪郭が似ているのが見て分かる。
しおりが息を吸う。鈴が小さく鳴った。
「ひよりさん、これ……同じに見えます」
「うん。同じ系統。白霧神社の異常は、名越ヶ淵の影響を受けてる」
スマホが震えた。父からの短いメッセージ。
『大丈夫か、無理するな』
私は短く返す。
『大丈夫。今戻る』
送信した瞬間、苦情帳のページが風もないのに、ぱらりとめくれた。しおりが慌てて押さえる。紙の端が湿っている。
めくれた先のページに、短い地名が書かれていた。
名越ヶ淵。
しおりの目が、その文字を追う。追った瞬間、息が止まる。怖がってないふりの顔が、剥がれかける。
「ひよりさん……これ、読めます?」
私は答えなかった。声に出すと錨が歪む。今夜、喉が痛んだのはそれだ。
代わりに、明るい口調を作って言った。
「読めるよ。だから、明日ちゃんと確かめる。あなたは今日はもう戸を閉めて、休んで」
「はい……ひよりさん」
しおりは笑った。笑おうとして、笑い切れなかった。
私は社務所を出て、境見市の灯りを見下ろした。胸の底が乾いたまま、名越ヶ淵の文字だけが冷たく残る。




