第四話 濡れた地名 前編
境見文彩堂の奥の棚には、売り物じゃない紙がある。古い観光パンフレット、絵葉書、寄進帳の控え、祭りの案内。町の名前が変わった年の資料も混ざっている。
私は朝一番に、その棚を引っ張り出した。
濡れた紙片。あの手触り。文彩堂の和紙に近い。誰かが境見の紙を使っている。しかも地名が書かれていた。端が白く欠けて、声に出すと喉が痛む。
気のせいで済ませるには、続きすぎている。
「ひより、また白霧か」
恒一が、帳簿の上から顔を上げる。止める口調じゃない。ただ、言外に釘がある。
「うん、今日は昼の用事があるから。ついでに、町の資料も確認しとこうと思って」
「無理はするな。役目を果たして戻れ」
分かってる。私は明るく返して、パンフレットを数冊まとめた。白霧神社、白霧山、境見市の観光案内。古いものほど文字が擦れている。紙が薄い。
その中に一枚、名所案内の小さな地図が挟まっていた。
名越ヶ淵。
文字を目で追っただけなのに、端が白く抜けて見えた。紙が破れたみたいな空白が、字の一部をさらっている。
私は眉を寄せる。目の疲れじゃない。今までこうは見えなかった。
息を整えて、声には出さずに文字の輪郭を確認する。読むほど喉が痛む気がするからだ。
「……名越ヶ淵」
小さく口の中で形をなぞる。やっぱり、引っかかる。
店の戸が鳴り、御影しおりが顔を覗かせた。今日は社務所の備品を取りに来たらしい。相変わらず、勢いがいい。
「ひよりさん! おはようございます!」
「おはよ。しおり、社務所の紙、取りに来た?」
「はい! あと、ひよりさんに……えっと、昨日の……」
二の鳥居、を言いかけて止まる。笑って誤魔化す。元気な声で、無理を包む。
「苦情帳のこと?」
「そうです! ひよりさん、苦情帳、また増えました! でも私、ぜんぜん気にしてないです!」
言葉の最後が少し跳ねる。目が逃げる。周りが黙る理由がまた増える。
「うん。気にしてないなら、増えたページだけ見せて」
「はい! ひよりさん!」
しおりは鞄から写しを出し、机に広げた。例の言い回しが並んでいる。息が白い。鈴が遠い。戻される。地名が読めない。
私は写しの端を押さえた。紙が少し湿っている。昨日の紙片と同じ感じだ。
「しおり、この写し、どこで取ったの?」
「社務所の机です! ひよりさんが言ったとおり、閉じないで開けたままにして……そのまま写しました!」
「そのあと、ページ触った?」
「触りました! えへへ……私の指、ちょっと墨ついちゃって」
しおりが笑う。笑顔は明るい。けれど二の鳥居の文字が見えると、指先の動きが止まる。
「ひよりさん、名越ヶ淵って……知ってます?」
しおりが不意に言った。
「知ってるよ。市の外れの淵、昔から水が冷たいって話」
「私、あそこ、行ったことないんですけど……最近、その名前が苦情帳に出てくるんです。えっと、でも、気にしてないです!」
また無理が出る。私は笑って、机の上の古いパンフレットを見せた。
「ちょうど調べてた。昔の案内にも出てる。文字が欠けて見えるのは、今夜確かめる」
「ひよりさん、今夜も行くんですか?」
「行くよ。今日は白霧神社の点検もあるし」
しおりは頷いた。明るく返事をしようとして、口元が引きつる。
「……ひよりさん、二の鳥居の近く、気をつけてくださいね」
「うん。しおりは社務所から動かない。鈴が遠く感じたら、まず戸を閉めて、苦情帳は閉じない」
「はい! ひよりさん!」
私はパンフレットを紙袋に戻し、店を出た。白霧神社へ向かう道すがら、名越ヶ淵の文字が頭から離れない。目で読むだけで引っかかる。声に出したら錨が歪む気がする。
夜が近づくと、足元の影が濃くなる。
「名が出たな」
踵のあたりからカゲの声がした。姿はまだない。
「名越ヶ淵。あなたも知ってる?」
「知っている。筋が近い」
私は喉に指を添え、まず今夜の場所を確定する。
「境見市、白霧山。白霧神社、二の鳥居。」
空気が一枚、薄くなる。影が深くなる。私は参道へ向かった。




