第三話 鈴の音が遠い 後編
二の鳥居の手前で、息が白くなった。鈴の音が一度鳴ったのに、遠い。社務所の方向なのに、山の向こうから聞こえるみたいに薄い。
戻される前兆だ。
私は足を止め、喉に指を添えた。
「白霧神社。二の鳥居」
錨を打つ。空気が少し落ち着く。けれど昨日より戻りが早い。縄の向こうへ一歩出す前に、足首に冷たい糸が絡みつく。
「反復が近い」
カゲが言う。声は淡々としている。カゲは必要な事しか言わない。でも、それが必要な時がある。
視界の端に白い抜けが現れる。点じゃない。細い線。昨日締めた参道の筋の残りが、鳥居の影へ引かれている。
「参道じゃない。鳥居の根元だ」
口調が自然に変わる。頭の中が静かになる。私は鞄を下ろし、結び札を取り出した。藍墨と筆。糸。朱肉。清め水。
声で確定。見立て。輪郭写し。縫い。印。水。いつもの順番。
私は白い抜けの輪郭を札へ写し始めた。線は昨日より濃い。紙の上に白が浮くみたいに見える。欠けは意味を教えない。形だけを示す。だから形を写す。
糸を通す。結び目は一つ。ここまではいい。
けれど締める瞬間、指先が僅かに滑った。結び目が噛む。糸がきしむ。
白い抜けが、ふっと揺れた。
次の瞬間、私は縄の手前に立っていた。
戻された。反復が一回進んだ。喉の奥が熱くなる。頭痛の前触れみたいに。
「……やった」
小さく吐き捨てる。苛立ちじゃない。自分への確認だ。失敗した。
「声が浅い」
カゲが言う。責めない。ただ事実だけ。
私は息を整えた。喉が乾く。胸の底が乾いているせいで、焦りだけが浮く。
もう一度、地名を言い直す。錨を深くする。
「境見市、白霧山。白霧神社、二の鳥居」
声を重ねると喉がひりつく。空気が一枚、めくれて落ち着く。白い抜けの輪郭が、再び定まる。
私は最初からやり直した。輪郭を写し直し、糸を通し、結び目を一つに締める。今度は焦らない。指先だけが冷静になる。
「印」
監修印を打つ。滲まない。息が少し戻る。
清め水を一滴。
紙をめくるような音が、遅れて響いた。白い抜けが輪郭を持って縮む。戻される気配が、一度だけ引いた。
成功のサインだ。
――なのに。
札の縁に、薄い朱が噛んだ。
差押え印。昨日よりはっきりしている。押されたわけじゃない。最初からそこにあったみたいに、朱が紙に馴染んでいる。
喉が渇く。胸の奥がじりじりと痛い。体がふるえる。
「来てる」
「見せるな」
カゲの声が低くなる。影が足元で揺れた。カゲの輪郭が一瞬だけ濃くなる。夜の濃さに合わせて、カゲは立体へ寄る。
私は結び札を鞄へしまい、社務所へ引き返した。長居はしない。今夜は締め直しだけで終える。
社務所の明かりが近づくと、鈴の音がまた遠くなる。近いはずなのに遠い。おかしい。足元の影が、わずかに引かれる。
引き戸を開けると、しおりが顔を上げた。
「ひよりさん! おかえりなさい!」
無邪気な声。笑顔。だけど目が赤い。泣いたわけじゃない。泣きそうなのをこらえた赤さだ。
「大丈夫?」
「大丈夫です! ぜんぜん平気です!」
しおりは言って、苦情帳を押し出した。新しい書き込みが増えている。文字の端が、白く抜けて見える気がした。
「ひよりさん、これ……」
私はページに目を落とす。
・二の鳥居の手前。
・息が白い。
・鈴が遠い。
・――地名が、うまく読めない。
最後の一行だけ、筆圧が乱れている。誰かが喉に引っかかったまま書いた字だ。
私は喉の奥のひりつきを思い出した。声に出す地名が、錨になる。逆に言えば、声に出せない地名は錨にならない。
しおりが、お守りを握りしめた。
「ひよりさん、私、二の鳥居の話、ほんと平気なんですけど……」
その言葉が、誰に向けたものか分からない。私へじゃない。自分へ言い聞かせている。
私は明るい口調に戻して、机の上の紙袋を指で叩いた。
「明日、昼にもう一回点検する。大丈夫。怖いときは、怖いって言っていい。私が聞く」
「……ひよりさん」
しおりが笑おうとして、笑い切れない。
スマホが震えた。父からの短いメッセージだ。
『遅い。無理するな』
私は短く返す。
『大丈夫。今戻る』
送信した瞬間、背中に冷たい気配が貼りついた。社務所の灯りの中でも、足元の影がわずかに濃い。
カゲが、私の踵のあたりで息を吸った。
「今夜は締まった。だが、紙が残っている」
私は社務所の入口の隙間を見た。濡れた紙片が、敷居の内側に落ちている。昨日より小さい。けれど手触りが文彩堂の和紙に近い。
拾い上げると、短い地名が書かれていた。端が白く欠けている。読むほどに喉が痛む。
私は声に出すのを、やめた。
無理に読んだら、錨が歪む。
しおりが私の顔を見て、笑いながら言った。
「ひよりさん、明日も来てくれますよね!」
「来るよ」
元気に返す。簡単な返事なのに、胸の奥が乾いたままだ。
今日は失敗してしまった。しおりは頑張っている、恐怖に負けず、それを人に見せないように気丈に振舞っている。
二の鳥居の異変は早々に片を付けたい問題。でも、あと一歩及ばずにいる。
正直、泣きたい気分。自分の力の無さに飽き飽きする。
でも、泣けない。泣けないのは、昔からだった気がする。いつからか分からない。
けれど今夜、喉のじりじりとした痛みだけが残る。




