第三話 鈴の音が遠い 前編
白霧神社の社務所は、昼でも少しひんやりしている。お守りの箱を開けるたび、紙と布と木の匂いが混ざって、鼻の奥が落ち着く。
「ひよりさん! おはようございます!」
御影しおりが、戸を開けた瞬間に声を上げた。今日も無邪気だ。笑顔も声も明るい。だけど目の動きだけが忙しい。社務所の外を一度見て、すぐにこちらへ戻す。
「おはよ。昨日の夜、どうだった? 苦情帳」
「えへへ、ひよりさんの言うとおり、閉じなかったです! ちゃんと開けたままにしてました!」
胸を張る。明るい。元気。だけど机の上の苦情帳に手を伸ばすとき、指が一瞬だけ止まった。嫌なものに触れる前の間だ。
私は紙袋を机の脇へ置いた。境見文彩堂の新しい旅ノートと、御朱印帳の追加分。それから、昨日回収した結び札の控えも入っている。紙は一度現場に出すと、匂いが変わる。夜の冷えが染みつく。
「えっと、ひよりさん……これ」
しおりが苦情帳を開く。ページの上のほうに、似た言い回しが並んでいた。
・息が白い。
・鈴が鳴るのに遠い。
・同じ石畳に戻る。
・スマホの地図が回る。
どれも白霧神社。どれも夕方から夜。書き手の字は違うのに、文章の癖が寄っている。誰かが書かせているみたいに。
「ひよりさん、最近……多くないですか?」
しおりは笑いながら言った。笑っているのに、声がほんの少しだけ上ずる。
「多いね。昨日の夜も、増えた?」
「増えました! ……あ、えっと、でも、ぜんぜん大丈夫です! 私、気にしてないです!」
その言い方が、もう気にしている。周りが二の鳥居の話をしない理由がここにある。本人は平気な顔をしたい。でも顔に出てしまう。だから周囲が避ける。避けるから、さらに怖くなる。
「しおり。気にしてないって言わなくていい。怖いなら怖いで大丈夫」
「……ひよりさん」
鈴が小さく鳴る。しおりは境札モチーフの根元を指で押さえ、音を止めた。
「私、怖いです。でも、ひよりさんがいるから……」
そこでしおりは一度だけ、社務所の外へ視線を逃がした。二の鳥居の方角。見ないようにして、見てしまう。
「……昨日の夜、鈴の音が、ほんとに遠くて。社務所で鳴らしてるのに、山の向こうみたいで」
「それ、私も聞いた」
私は明るく言って、彼女の空気を少しだけ軽くした。
「だから今日は、昼に一回、境内を見て回る。夜は私が二の鳥居の手前で締め直す。しおりは社務所から動かない」
「はい! ひよりさん、分かりました! 」
返事は元気。でも握った鈴の指が白い。
昼の境内は、昨日より普通だった。参道の石畳も、音の鈍りが少ない。二の鳥居のしめ縄も風に揺れて、鈴の音がちゃんと近い。昼の顔は穏やかだ。
それでも、立入禁止の札の文字を見た瞬間だけ、視界の端に白い抜けがちらついた。紙を破った跡みたいな空白。すぐに消える。
夕方、社務所へ戻ると、しおりが机にかじりついていた。
「ひよりさん! これ、また……」
苦情帳の新しいページ。書き込みが増えている。今夜も同じだ。
「ひよりさん、私……二の鳥居の話、ぜんぜん平気なんですよ?」
笑って言う。目が泳ぐ。分かりやすすぎて、胸がきゅっとなる。
「うん。平気なふりしてくれて助かる。でも、今日はふりだけでいい。あなたはここにいて」
「はい! ひよりさんの言うとおりにします!」
夜が来る。境内の灯りが点る。足元の影が濃くなる。
「行くのか」
踵のあたりから声がする。姿はまだない。
「行くよ。カゲ、今日は二の鳥居の手前。昨日より反復が早いから、手早く締める」
「地名」
私は喉に指を添えた。声に出して確定する。
「境見市、白霧山。白霧神社、二の鳥居」
空気が一枚、薄くなる。影が深くなる。社務所の明かりを背に、私は参道へ歩き出した。




