第二話 戻る足音 前編
境見文彩堂の昼は、だいたい同じ匂いをしている。新しい紙の乾いた香りと、墨の名残。観光客が出入りするたび、冷たい外気が棚の隙間へ滑り込む。
「すみません、御朱印帳って……ここで買えますか?」
入口で声をかけてきたのは、厚手のコートを着た若い男だった。肩に小さなリュック。目の下がうっすら赤い。寒さだけじゃない顔だ。
「ここにありますよ、白霧神社の新柄も出たばかりです」
私は明るく返して、棚から見本を引き出した。元気に話すと、店の空気も少し温まる。そういう仕事だ。
男は御朱印帳を手に取ったまま、落ち着かない視線で周りを見た。
「昨日、白霧神社に行ったんですけど……変なことがあって。」
そう言いながら男は、スマホに映し出されている地図を指さした。
「スマホの地図が?」
「そうなんです。参道を歩いてるのに、同じ場所に戻ってるみたいで。……笑われますよね」
「笑わないよ。境見市、初めて?」
「仕事で来たばかりです」
男は少し息を吐き、御朱印帳を開いた。白霧神社の朱印が押されているページ。その隣が、妙に白い。
「ここ、写真に撮ったら白飛びして。あと、これ」
男が差し出したのは、境内の写真だった。鳥居の前で撮ったはずの一枚。画面の中央に、ぽっかりと白い抜けがある。人の顔が消えたみたいに見える。
背筋が、ほんの少しだけ冷えた。私は表情を変えずに頷く。
「昨日の時間、覚えてる?」
「夕方です。十七時過ぎ……二の鳥居のあたりで」
その言葉で、男の肩がすくむ。自分でも言ってしまったのが怖いみたいだ。
「……二の鳥居って、あの、立入禁止の札があるやつですよね。行ったらいけないのは分かってたんです。でも、気づいたらそこにいて」
「分かった。話してくれて助かった」
私は御朱印帳を包みながら、店の奥へ声を飛ばした。
「母さん、これ一つお願い。私、ちょっと白霧神社まで行ってくる」
母の境 沙耶が「はいはい」と返して、包装紙を手に取る。父の境 恒一は帳簿から顔を上げた。昨日よりも短い沈黙。
「行くのか」
「点検のついで。長居しない」
父は頷くだけだった。止めない代わりに、目が言っている。役目を果たして戻ってこい。
男が会計を済ませるとき、私は一つだけ確認した。
「帰り道、足元で鈴の音って聞こえた? 遠くから鳴るみたいな」
「……鳴ってました。遠いような近いような、とにかく変な音でした」
その答えで、欠けの系統が一つにまとまる。私は軽く笑って見せた。
「境見市、迷いやすい道も多いからね。今日は早めに宿に戻って。夜に無理して歩かないように」
「ありがとうございます」
男が帰った後、早速準備に取り掛かる。
結び札、藍墨と筆、境札モチーフのお守り。それらをリュックに詰めていく。普段は小さいカバンに入る量しか持っていかないが、最近、異変が増えてきたので不測の事態に対処するために余分に持っていくことにしている。
白霧神社へ向かう途中、社務所の前で鈴が鳴った。
「ひよりさん!」
御影しおりが、勢いよく手を振ってくる。今日も無邪気だ。顔だけ見れば、何も悩んでいないみたいに。
「ひよりさん、来てくれたんですね! この前の……あの……えっと……」
二の鳥居、と言いかけて止まる。笑って誤魔化す。周りから見れば、無理してるのが分かるやつだ。
「苦情、増えた?」
私が先に言うと、しおりはぱっと明るく頷いた。
「はい! ひよりさん、すごい! あの、これ見てください!」
苦情帳を開いて見せる指先が、わずかに震えている。書かれていたのは、さっきの男と似た内容だった。スマホの地図、入口に戻る、息が白い、鈴が遠い。
しかも同じ言い回しが続いている。偶然じゃない。
「ひよりさん、私、ぜんぜん気にしてないんですけど!」
しおりが笑う。目だけが怯えている。私は笑い返した。
「うん。気にしないまま、ちゃんと怖がってて。怖いって言えるほうが強い」
「……ひよりさん」
「今から見てくる、夜も行くことになるけど」
「夜も?」
夜のほうが分かりやすいから。そう言いながら準備に取り掛かる。
「あなたは社務所にいて。苦情帳、閉じないで」
しおりは勢いよく頷いた。元気に返事をしようとして、声が少し裏返る。
「はい! ひよりさんの言うとおりにします!」
昼の境内は、表面だけなら穏やかだった。二の鳥居の手前も、風が吹けば普通の鈴の音がする。戻される感じも薄い。けれど、参道の石畳の一角だけ、音が鈍る場所がある。靴底が、わずかに沈むような感覚。夜に確かめるために、テープで目印を付けておいた。
夕方、境見市の灯りが伸び始めるころ、足元の影が濃くなる。背中の寒さが変わる。
「行くのか」
踵のあたりから、声がした。まだ姿はない。
「行くよ。カゲ、今夜は参道も見る。あなたもついてきて」
「地名」
私は喉に指を添えた。声に出す。錨を打つ。
「境見市、白霧山。白霧神社、二の鳥居」
空気が一枚、薄くなる。影が足元で深くなる。
私は一度だけ社務所を振り返った。窓の明かりの中で、しおりが手を振っている。笑顔が硬いまま。
参道へ向き直り、鞄の中の結び札を確かめた。今夜は一枚で済まないかもしれない。




