第一話 苦情帳の白 後編
次の瞬間、私は縄の手前に立っていた。戻された。足首に冷たい糸を巻かれたような感覚だけが残る。
「反復が始まりかけてる」
カゲの声は淡々としている。
視界の端に、白い抜けがちらついた。紙を破った跡のような空白。欠けは意味を教えない、形だけを見せる。
鞄から結び札を出す。藍墨を落とし、筆先を整える。
声で場所を確定。次に見立て。薄境より、結び目が固くなっている。入口へ戻す仕組みが、反復へ変わりかけている。
白い抜けの輪郭だけを、札へ写す。糸を通す。結び目は一つ。余計な結びは筋を増やす。
「印」
監修印を小さく打つ。滲まない。
清め水を一滴落とすと、紙をめくるような音が遅れて聞こえた。白い抜けが輪郭を持って縮む。戻される感覚が、一度だけ引いた。
反復は止まった。けれど、札の縁に薄い朱が噛んでいる。
差押え印。
押されたわけじゃない。最初からそこにあったみたいに、朱が形になっている。
胸の奥が冷える。喉が痛い。
「来てる」
「見るな。続けろ」
カゲが低く言う。私は札を離さず、息を整えた。
しめ縄の根元に、濡れた紙片が落ちているのが見えた。拾い上げると、短い地名が書かれている。けれど、文字の端が白く抜けて読みにくい。
「……なごし、が……」
声にしかけた瞬間、喉がひりついた。紙片の白い抜けが、指の間で僅かに広がる。
背後でスマホが震えた。画面には、御影しおりの名前。
『ひよりさん、大丈夫ですか? 』
『大丈夫。苦情帳、今日はもう閉じていいよ』
送信し終え、社務所に戻る準備も終えた。
帰る前にもう一度綻びがないか見ておこう。
「ここも本格的に修復しないと前みたいな事故が起きちゃうかもね」
「そうだな」
カゲは短く答える。
「よし、じゃあ帰ろうか。社務所に寄ってしおりちゃんに挨拶していこう」
と思ったものの、気づけば日は落ち暗闇が支配していた。
視界を遮る静寂と冷気、石灯篭の隙間から漏れる淡い光は、足元の湿った苔をぼんやりと照らし出す程度で、ひよりの視界を広げるには心もとなかった。杉林のざわめきがどこか人の声にも聞こえる。
「ひよりさーん」
杉林のざわめきの中に、見知った彼女の声が聞こえてきた。玉砂利を踏みしめる音が夜の寒空に響き渡る。
「しおりちゃん、どうしたの」
「遅かったので迎えに来ました!」
どうやら思った以上に時間が経っていたようだ。
しおりは声には出ていないものの、どこか不安そうな表情をしていた。彼女にとって二の鳥居は危ない場所という認識。だからこそ、戻ってこない私を心配してくれているのだろう。
「ごめんね、点検してたら時間を忘れてたよ」
「そうなんですね!よかったです!」
(元気そうな声だけど、内心気が気ではなかったんだろうな)
反省反省。と心の中で思いつつ。
「今日はもう本当に終わりだから、一緒に帰ろうか。何か食べてく?」
「いいんですか!私、行きたいお店あるんですよ!」
「いいね、じゃあそこ行こうか」
謝罪の意も込めてなんでも好きなものを食べさせてあげよう。




