第九話 淵へ向かう道 前編
名越ヶ淵へ行くなら、昼だ。
自分で言い出したのに、朝の境見文彩堂で紙袋を用意している手が少しだけ重い。怖いからじゃない。声が錨になると分かっているからだ。錨を打てば、相手もこちらを掴みやすくなる。
店の奥で、父の境 恒一が短く言った。
「帰りを遅らせるな」
「分かってる。昼のうちに戻る」
明るく返して、私は鞄に結び札と境札を入れた。糸、清め水、控え。余計な道具は増やさない。差押え印に数えられる。
白霧神社の石段の下で、白坂朔が待っていた。黒いコート、手袋。指先の震えは昨日より軽いが、消えていない。
「境、行けるか」
「行ける。道、分かる?」
「師匠から地図を渡された。紙だ」
朔が取り出した地図は、札師組が使う簡易図だった。線が少ない。必要な曲がり角だけが書かれている。紙質が硬い。
「いいね。スマホは」
「出さない」
「同感」
私は歩き出しながら、喉に指を添えた。今はまだ声に出さない。市内の標識に出る地名を不用意に読まないためだ。
名越ヶ淵へ向かう道は、途中から細くなる。住宅の並びが切れ、畑が増え、山の影が近づく。風が冷たくなるほど、足元の影が濃い。
朔が小さく言った。
「欠けが見えるか」
「看板の端が白い」
道端の案内板。文字の端が、紙を破ったみたいに白く抜けている。目が滑る。読むほど喉がひりつく気がした。
朔が合言葉みたいに言う。
「見て、聞いて、言い当てるな」
「形だけ」
私は頷いた。視線を外して歩く。読まなければ、今は繋がらない。
それでも、川の音が近づくにつれて、湿った匂いが鼻の奥に残る。昨日の差押札の冷たさと同じ匂いだ。
入口の手前で、木の柱が立っていた。観光用の標柱。上部に地名が彫られている。そこだけ、白い抜けが濃い。昼なのに、はっきり見える。
朔が足を止めた。右手が僅かに震える。目を細め、深く息を吸ってから吐く。
「……境。ここで声を出す」
「うん」
地名は必ず声に出して確認する。錨を打つためだ。言わないと迷う。言うと引かれる。
私は喉に指を添え、息を整えた。必要最小限。短く、真っ直ぐ。
「名越ヶ淵」
声に出した瞬間、空気が一枚薄くなった。耳の奥が、少しだけ詰まる。水の音が遠くなるのに、近い。距離感が歪む。
柱の文字の白い抜けが、輪郭を持って揺れた。
「反応した」
朔の声が硬い。指の震えが少し強くなる。
「ここから先、入口は開いてる」
私は鞄から境札を一枚出し、紐を指に巻いた。鈴は付けない。音が遠くなったとき、混ざるから。
足元の影が、いつもより濃い。カゲは昼は喋れない。ただ聞いている気配だけが、踵のあたりにある。
入口の柵を越える前に、私はもう一度だけ声を出した。
「名越ヶ淵。入口」
錨を深くする。喉がひりつく。胸の底が乾いたまま冷える。
川へ続く遊歩道へ一歩踏み出した。




