第八話 名越ヶ淵の匂い 後編
名越ヶ淵へ向かう前に、私たちは境見市内の掲示板を回った。観光案内、祭りのポスター、古い地図の複写。人が読む場所ほど、欠けは紛れ込みやすい。
商店街の角の掲示板で、朔が立ち止まる。
「これ」
貼られた古地図のコピー。境見市周辺の山と川の線が、薄い墨で描かれている。名越ヶ淵の位置に、白い抜けがある。文字の端が欠けて、目が滑る。
私は喉に指を添えた。地名は必ず声に出して確認する。けれど声に出すほど、錨が深くなる。その分、引かれる危険も増える。
だから慎重に、必要最小限。
「境見市。白霧山。……名越ヶ淵」
最後だけ、息を混ぜないように言う。喉がひりつく。空気が一枚、薄くなる。白い抜けが、僅かに輪郭を持った。
朔が小さく頷く。
「反応した。ここ、入口だ」
「この掲示板から?」
「読むことで繋がる。読むのは声じゃなくてもいい。だが声は錨になる」
胸の奥が乾く。喉の痛みだけが残る。
背中の方で、紙がめくれる音がした。振り返っても誰もいない。風もない。けれど掲示板の端の紙が、勝手にひらひらと揺れている。
そして、その裏に薄い朱が見えた。
差押。
朱の輪郭は淡い。札ほど濃くない。けれどここにもある。監査の視線が、市内にまで伸びている。
「……広がってる」
私は声を落とした。
朔が手袋を握りしめる。指先の震えが少し強くなる。
「これ、欠けだけじゃない。誰かが貼ってる。見せてる」
「見せて、読ませて、繋げる」
私は短く言った。形だけの怪異に、言葉の意図が混ざる。それが一番厄介だ。
白霧神社へ戻ると、しおりが戸を閉めて待っていた。笑顔で飛び出してくる。
「ひよりさん! おかえりなさい!」
無邪気な声。けれど目が赤い。泣いたわけじゃない。泣きそうなのをこらえた赤さ。
「しおり、今日、掲示板の地図、読んだ人いる?」
「えっ……分かりません。でも……」
しおりは笑って誤魔化しながら、苦情帳を指差した。
「ひよりさん、今朝ここに、変な書き込みが」
ページの端に、小さな字がある。
行くな。
墨なのに、端が白く欠けて見える。書き手の癖がない。綺麗すぎる字。
朔が息を詰めた。
「言葉で止めに来てる」
「止めたい理由がある」
私は低く言った。声を落とせば落とすほど、頭が冷える。今夜は締めるべきか、行くべきか。
足元の影が僅かに濃くなった。カゲは昼は話せない。でも聞いている気配だけが、いつも通り足元にある。
私は影へ小さく言った。
「行くなら、昼。今のうちだよね」
返事はない。けれど影が一度だけ揺れた。肯定でも否定でもない。ただ、夜のことを考えている揺れだ。
朔が言った。
「師匠に報告する。だが俺は行く」
「私も行く」
言い切った瞬間、喉の奥がひりついた。胸の底が乾いたまま、冷える。
「ひよりさん、名越ヶ淵って……危ないんですか?」
「危ない。でも、確かめないと白霧神社も止まらない」
私は明るい口調を作って言った。しおりを不安に沈めないために。
「しおりはここにいて。戸は閉めて。苦情帳は閉じない。鈴が遠くなったら、深呼吸して、私に連絡して」
「はい! ひよりさん!」
しおりは元気に頷いた。その頷きのあと、二の鳥居の方角を一度だけ見て、すぐに笑った。無理の見える笑い。
私は社務所を出て、白霧山の方を見上げた。名越ヶ淵は、あの奥にある。水の匂いが、薄く風に混じる気がした。
差押え印の朱は、市内の紙にまで触れている。
行くな、と書かれた文字が、逆に道を示していた。




