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欠けた文字を縫い直す少女は、夜だけ立つ影と歩く。  作者: yuruhuwa回路


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第八話 名越ヶ淵の匂い 前編

 朝、境見文彩堂の棚を拭いていると、指先に紙の粉がついた。乾いた粉。けれど鼻の奥に、ほんの少しだけ湿った匂いが残る。


 水の匂い。


 名越ヶ淵。


 昨夜の差押札の冷たさが、まだ手に残っている。紙なのに、水に触ったみたいに冷たい。あれは白霧山の冷えとは違う。


 私は息を整えて、表の仕事を続けた。元気に、いつも通りに。観光客に笑って、御朱印帳の柄を説明して、和紙小物の手触りを褒めてもらって。


 それでも、棚の端に置いた古い観光パンフレットが視界に入るたび、文字の端が白く欠けて見える。


 名越ヶ淵。


 声に出さない。喉が痛むから。


 昼前、スマホが震えた。白坂朔からの短いメッセージ。


『白霧、昼に寄れるか。それと、名越の資料持ってるか』


 私はすぐ返す。


『文彩堂の古いパンフがあるよ。白霧神社で見せる』


 父が帳簿を閉じる音がした。顔を上げずに言う。


「今日は誰と動く」

「白坂さん。札師組の」

「……危険は増える。役目を果たして戻れ」

「分かってるって」


 明るく返して、紙袋を用意した。古いパンフ、結び札の控え、昨夜の差押の写し。苦情帳の写しも入れる。情報を揃えるほど、次の手順が減る。


 白霧神社の石段を上がると、社務所の前でしおりがぴょんと跳ねた。


「ひよりさん! 来てくれたんですね!」


 無邪気な声。笑顔。けれど目の下はうっすら赤い。昨日より寝ていない。


「しおり、寝てる?」


「寝てます! 寝てますよ! ひよりさん!」


 言い切るほど無理が出る。私は笑って紙袋を差し出した。


「苦情帳の写し、見せて。あと、今日は名越ヶ淵の資料も持ってきた」


「なごし……」


 しおりが言いかけて、止まった。笑って誤魔化す。声が少し裏返る。


「ひよりさん! 私、ぜんぜん気にしてないですけど! あの名前、最近よく出ますね!」


 無理してるのが分かる。私はさらっと流した。


「気にしなくていい。今日は読むんじゃなくて、確かめる」


 社務所に入ると、白坂朔が机の前に立っていた。黒いコート。手袋を外した指先が僅かに震えている。昨日よりは軽いが、消えていない。


「境」

「おはよ。資料持ってきた」


 私は紙袋から古いパンフレットを出した。名越ヶ淵の地図と、簡単な説明文。紙は黄ばんでいるのに、文字の端だけが妙に白い。


 朔が目を細める。


「ここ、見えるな」

「見える。昼なのに」


 私の口調が落ちる。頭の中が静かになる。


 朔が合言葉みたいに言った。


「見て、聞いて、言い当てるな」

「形だけ」

「そうだ」


 私たちはパンフレットの上で、欠けの輪郭を指先でなぞった。白い抜けの縁取りが、白霧神社の欠けと同じ方向へ引かれている。水気が混じる癖も同じだ。


「白霧に触れてる」

「触れてるというより、漏れてる」


 朔の言葉は冷静だった。札師組の見立ては、いつも単語が硬い。


 机の上に、苦情帳が開かれている。しおりが、ページを押さえながら笑う。


「ひよりさん! 苦情帳、今朝は増えてないんです! ひよりさんのおかげです!」


 無邪気な声。でもページの端に触れる指が、わずかに震える。昨夜の「差押」の字が、まだそこにある。


 朔がその字を見て、息を詰めた。


「……書き込みが残ってる」

「返納で止めたけど、数える目は消えてない」


 私は低く言った。


 そのとき、社務所の外で、紙が風に煽られるような音がした。戸は閉まっているのに、誰かが通った気配。鈴が一度鳴って、遠い。


 しおりの顔が一瞬固まる。すぐに笑って誤魔化す。


「ひよりさん! 風、強いですね!」


 無理してる。周りから見たらすぐ分かる。


 朔が小声で言った。


「人の手が入ってる。欠けだけじゃない」

「同感」


 私は頷いた。差押札が現れた。苦情帳に「締めるな」と書かれた。誰かが、こちらの行動に言葉で干渉している。


 欠けは意味を教えないのに、言葉が混じる。


 私はしおりを見た。


「しおり、最近、社務所に変な人来た?」

「へ、変な人ですか?」


 しおりは無邪気に首を傾げる。けれど二の鳥居の話題に触れたときみたいに、目が泳ぐ。


「……たまに、苦情帳をじっと見る人はいます。参拝のついでみたいな顔で」

「顔、覚えてる?」

「えっと……黒いコートの人とか……」


 しおりが言いかけて、朔を見て慌てて首を振った。


「白坂さんじゃないです! ぜんぜん違います!」


 朔が静かに言う。


「俺じゃない。俺は社務所に入ったのは昨日からだ」


 私は息を吐いた。確証はない。けれど線は繋がる。


「名越ヶ淵に行こう」


 口に出した瞬間、社務所の空気が一枚薄くなる。喉がひりつく。声に出したからだ。


 朔が頷いた。


「夜に行くのは危険だ。だが、昼でも欠けが見えるなら、入口は開いてる」


 私は元気な口調に戻せなかった。頭の中が静かすぎる。

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