第七話 数えられる夜 後編
輪郭を写す前に、空気がひやりと変わった。
しめ縄の影の中から、紙が一枚、すべるように現れた。風もないのに、足元へ落ちる。真っ白な札。角だけが、わずかに欠けている。
中央に朱。
差押。
押された跡じゃない。最初からそこに書かれていたみたいに、朱が紙に馴染んでいる。
喉の奥がひりつく。胸の底が冷える。
「……来たな」
朔が息を吸う。震えが一段強くなる。目がかすむ前の瞬き。
足元の影が揺れた。夜の濃さに合わせて、カゲが輪郭を持ちかける。一定距離から離れない影が、今夜は少しだけ深く伸びる。
「数える」
カゲの声は短い。必要なことだけ。
「手順を、だよね」
「印を打つな」
朔が低く言った。合言葉みたいに。
「見て、聞いて、言い当てるな。口にするほど引かれる」
「分かってる。返す」
私は口調を落とし切った。今夜は勝つためじゃない。波を止めるため。
差押の札を拾い上げようとした瞬間、指先が冷たくしびれた。紙なのに、水に触ったみたいな冷たさだ。名越ヶ淵の匂いが混じる。
「同じ系統」
私は声に出さずに輪郭を追う。差押札の角の欠け方が、名越ヶ淵の欠けに似ている。
朔が一歩踏み出した。次の瞬間、膝がふらつく。震えを堪えたまま、歯を食いしばる。
「欠けがでかい……」
「下がって」
私は短く言った。命令じゃない。手順だ。
朔は悔しそうに息を吐き、半歩下がった。視界を保つのに集中している。
私は結び札を地面へ置いた。しめ縄の影が届く範囲。返納の器を作る。
喉に指を添え、場所を確定する。地名を声に出して錨を打つ。
「白霧神社。二の鳥居」
空気が少し落ち着く。差押札の朱が、わずかに薄くなる。完全には消えない。監査は引かない。
私は差押札を、結び札の上へ重ねた。輪郭が重なる瞬間、白い抜けが一度だけ静まった。紙が帰り道を思い出すみたいに、軽くなる。
ここで縫い直しをすると数えられる。印を打てば、もっと濃くなる。
だから縫わない。
返すだけ。
清め水を一滴、結び札の端へ落とす。直接朱に触れさせない。封じではなく、滑りを良くするための水だ。
紙をめくるような音が、遅れて響いた。
差押札が、ふわりと浮く。しめ縄の影へ吸い込まれ、鳥居の根元へすべるように消えた。
戻される気配が、一度だけ引いた。足首の冷たい糸がほどける。
私は息を整える。喉が痛い。胸の底が乾く。
「止まった……」
朔が震える手を握りしめて言った。額に汗がにじんでいる。
「今夜は反復の直前で止めた。返納が効いた」
「縫ってないのに、止められるのか」
「縫いは直す。返納は戻す。今夜は戻すだけでいい」
口調を冷静に保ったまま、私は鞄を背負い直した。触りすぎない。勝ちを積むほど数えられる。
社務所へ戻る途中、鈴の音が近くなる。遠さが薄れる。御影しおりの鈴だ。今夜はちゃんとここにある音がする。
引き戸を開けると、しおりが勢いよく顔を上げた。
「ひよりさん! おかえりなさい!」
無邪気な声。けれど目が赤い。泣いたわけじゃない。泣きそうなのをこらえた赤さだ。
「増え方、止まった?」
「止まりました! ひよりさん、すごいです!」
しおりは笑う。笑顔は明るい。だけど机の上の苦情帳を指差すとき、指が一瞬だけ止まった。
「……ひよりさん、これ、誰が書いたんでしょう」
苦情帳の新しいページ。今夜の分が一行だけ増えている。
差押。
朱で押した跡じゃない。墨で書いた字なのに、端が白く欠けて見える。書き手の癖がない。綺麗すぎる字だ。
朔がそれを見て、息を詰めた。
「監査が始まった……」
「まだ顔は出してない」
私は明るい口調を作れなかった。喉が痛い。胸の奥が乾いたまま、冷える。
足元の影が、ほんの少し揺れた。カゲは何も言わない。昼は話せない。夜でも必要なことしか言わない。けれど今夜は、影が一度だけ深くなった。
しおりが、無邪気に笑おうとして、笑い切れない。
「ひよりさん、私、ぜんぜん気にしてないですけど! 明日も来てくれますよね!」
「行くよ」
私は元気に返した。返事は簡単なのに、胸の底は乾いたままだ。
差押え印は消えない。数える目は、もうこちらを見ている。




